第66話 会ってから、帰りたくて
馬車が止まる前から、丸い耳が窓に見えていた。
ミナは乗り場の端で手を上げた。
窓の向こうでも手が動き、明るい顔が近づく。
「ミナ!」
呼ばれたところで、馬車が少し揺れた。
マルタの顔が引っ込み、しばらくして、今度は扉から現れた。
「最後、転びそうになっちゃった」
「まだ動いてたから」
「うん。降りる前に落ちたら、格好つかないね」
地面へ下りたマルタは、ミナの前で足を止めた。
蜂蜜色の毛に、旅の埃が少しついている。
ミナの頬と左腕へ目を向けてから、両腕を開いた。
「もう、抱きついても大丈夫?」
「うん」
返事をすると、柔らかい胸元へ包まれた。
背中に回った手は、前に別れたときより、少し遠慮がちだった。
「手紙、読んだ。配信の記録も」
「心配かけて、ごめんね」
「うん。したよ」
マルタは離れてから、もう一度ミナの顔を見た。
「だから、会ってから帰りたくて」
ミナは頷いた。
用意していた挨拶より先に、別の言葉が出た。
「ご飯、作ってある」
「それ、すごく嬉しい」
笑った顔が、ようやくいつものマルタに戻った。
*
手紙で決めていた滞在は、二晩だった。
宿へ荷物を預けたら、昼はミナの下宿で食べる。
翌日はラグも交えて、短く練習をする。
その次の朝には、故郷へ向かう馬車へ乗る予定だった。
「母さんにも、寄ってから帰るって書いた。宿の手伝いも、戻ったらするからって」
マルタが歩きながら言った。
袋の外へ留めた毛布は、きちんと収まっている。
「今度は、ちゃんと入ったんだね」
「一回出して、底から平らにした。教わった通り」
マルタは肩の紐をつまんだ。
「ただ、王都で紙が増えたの。習ったこと、捨てて帰れないでしょ」
「どんなこと書いてあるの?」
「あとで見せる。字が曲がってるところは、歩いた後に書いたからね」
ミナは笑った。
聞きたいことが、もういくつもあった。
*
下宿の食卓に、豚肉と白豆の小判焼きを並べた。
今日は、運ぶための箱は要らなかった。
鍋から皿へ移し、パンと蕪の酢漬けを添える。
マルタは手を洗って戻ると、椅子へ座るより先に皿を覗いた。
「これ、記録で見たやつだ」
「うん。仕事で、六人分作ったの」
「食べる方なら、六人に入りたかったな」
「今日は、二人分」
「じゃあ、半分は私のだ」
マルタが嬉しそうに匙を取った。
一口食べ、すぐには次を取らず、切ったところを見ている。
「豆が入ってるのに、ぱさぱさしないね」
「潰し方を、少し変えたの。大きい粒を残すと、割れやすくて」
「これも、家で作っていい?」
ミナは頷いた。
「あとで、書いたものを渡すね」
「また紙が増える。でも、これは入れる」
マルタはパンをちぎり、小判焼きと一緒に食べた。
ミナも自分の皿へ匙を入れる。
相手が食べ終わるのを待たず、一緒に温かいうちに食べられた。
「王都、どうだった?」
「広かった。手紙にも書いたけど、同じ広場に戻っちゃうの、ほんとにあるんだよ」
「道を間違えたの?」
「道じゃなくて、入口。大きな建物を抜けたら近道になると思って。出たら、さっきの店があった」
ミナが笑うと、マルタもつられて笑った。
「でも、魔法と盾の講習はちゃんと行けた。バルド様、近くで見ると、すっごく大きかった」
「ラグさんより?」
「どっちだろ。並んでもらわないと、わかんない」
マルタは、自分の肩から少し離したところへ手を置いた。
「盾を構えたら、もう、向こうが見えなくなるの。なのに、こっちの足が出たのは見えててさ」
盾の後ろへ隠れたつもりでも、足先が横へ出ていた。
直そうとして下がると、今度は守る相手とぶつかったという。
「二回目は、先に言った。下がるよって」
「手紙で読んだ」
「うん。それからね、言う前にも見なさいって。空いてると思ってた方へ、相手がもう動いてることもあるから」
マルタは匙を置き、机の上で指を二つ動かした。
一つが下がる前に、もう一つが横へずれる。
「前は、盾の向こうを見ようとするだけで、いっぱいだったんだよね」
ミナは、石羽鳥のいた斜面を思い出した。
マルタの後ろで、自分がどこへ槍を出せるか考えたことも。
「明日、一緒にやってみたい」
「うん。そのために、盾も持ってきたんだから」
*
食後のお茶を飲みながら、マルタが小さな包みを開いた。
王都で買った、薄い焼き菓子だった。
割れないよう、服の間へ挟んで運んできたという。
「キリルにも会ったよ」
ミナが菓子へ伸ばした手を止めた。
「ほんとに?」
「ミナの手紙が届いてから、魔法の講習の受付で、伝言を預かってもらったの。返事が来て、休みの日に会えた」
「元気だった?」
「元気。最初に、火より風の方を練習してるって教えてくれた」
マルタは、菓子の割れた方を自分の皿へ置いた。
「狭いところを狙うのが難しいんだって。的の外の紐まで揺らしちゃうって言ってた」
「近くの人へ当てないようにしたいって、言ってたから」
「うん。ミナのことも、いろいろ聞かれたよ」
ミナは顔を上げた。
「何を?」
「一緒に仕事したときも、ちゃんと休んでたか、とか。料理してると、自分のご飯を忘れないか、とか」
「……この前は、少し忘れた」
「管理人さんに言われたんでしょ。私もさっき聞いた」
マルタが笑い、お茶を飲んだ。
「あとは、私がミナに何て呼ばれてるか」
「マルタは、マルタだよね」
「そう言ったら、ふうんって。それから急に、講習の話に戻っちゃった」
ミナは首を傾げた。
キリルには、ずっと『キリルさん』と呼びかけていた。
名前の呼び方にも、何か気になることがあったのだろうか。
「なんかね。弟みたいだった」
「キリルさん、私たちより一つ上だよね?」
「そうなんだけどねえ」
マルタは菓子の端を噛んだ。
「大丈夫、知ってるって言ったすぐ後に、これどうするんだって聞くの。知ってなくてもいいのに」
「でも、知らないことも教えてくれるよ」
「うん。私が魔法のこと聞いたら、ちゃんと説明してくれた。待ち合わせの帰りも、馬車が来てるって教えてくれたし」
明るかった声が、少し落ち着いた。
「あの子供を背負った話も、少し聞いた。怖くなかったのって聞いたら、怖かったに決まってるだろって」
ミナは、匙から手を離した。
「それでも、運んでくれたんだね」
「うん」
マルタは頷き、もう一枚、ミナの皿へ菓子を寄せた。
それから、王都の店で道を尋ねた話をした。
ミナは聞きながら、膝の上に置いていた手を卓へ戻した。
*
翌朝、ラグは練習場へ先に来ていた。
「お久しぶりです。王都はいかがでしたか」
「習うこと、いっぱいありました。ラグさん、今日は見てもらえますか」
「ええ。私の方も、剣に少しは覚えてもらいましたので」
腰の剣を右手で示すと、マルタが笑った。
「ちゃんと聞いてくれました?」
「時々、腕の方から訂正が入ります」
最初は、武器を当てない位置取りだけにした。
ラグが正面から近づく役。
マルタが盾を持ち、ミナはその後ろへ立つ。
前ならすぐに盾を上げていたところで、マルタは一度、肩越しに振り返った。
「ミナ、右にいる?」
「うん。槍も、右から出す」
「わかった。そっちは空けとくね」
マルタが半歩ずれた。
ミナの前に、穂先を動かすための幅ができる。
ラグがゆっくり右へ動く。
マルタの盾が、その向きへ変わった。
ミナも足を運び、盾の縁と重ならないところで止まる。
「一歩、下がるよ」
「空いてる」
二人で下がった。
マルタの踵が、ミナの靴へ触れることはなかった。
ラグが止まると、マルタは盾を少し下ろした。
「今、すぐそこにいたよね。ぶつかるかと思った」
「マルタが向きを変えたから、私も動いたの」
「前より、すっと動くね」
ミナは自分の足元を見た。
今日は、補助帯を使っていない。
弱い身体強化も、この練習ではまだ使っていなかった。
「マルタも、下がる前に見てくれたから、わかった」
丸い耳が、少し起きた。
「じゃあ、もう一回。今度は左も」
次はラグが左へ回り込んだ。
マルタは盾を追わせすぎて、ミナの前まで塞いでしまった。
「止めよう。これ、私が回りすぎた」
自分で言って、元の位置へ戻る。
ミナも槍を引き、足の置き場を変えた。
何度かやり直すと、声をかける前にも、相手がどこへ行こうとしているかわかる瞬間があった。
全部ではない。
でも、前にはなかった余裕だった。
休憩でマルタが盾を置くと、ラグが頷いた。
「守る相手を、よく見ていましたね」
「王都で、後ろの人にも動いてもらうんだって、やっと少しわかりました」
「ええ。盾だけで、全員を運ぶわけにはいきませんから」
ミナが笑い、マルタも肩を揺らした。
その後は三人で、治療へ移るときの交代を確かめた。
マルタが場所を空ける前に、ラグの返事を待つ。
ミナは二人の足元と、残された道を見る。
盾を下ろすところまで終えて、マルタが息を吐いた。
「家でも、これ忘れないようにしなきゃ」
*
午後は買い物をして、宿で荷物を詰め直した。
弟への土産が、袋の上へ入った。
母親へ渡す料理の紙は、濡れないよう、別の布で包む。
ミナの書いた小判焼きの分量も、そこへ加わった。
「家、楽しみ?」
「うん。早く話したい。弟、私より盾の話を聞きたがるかもしれないけど」
マルタは袋の口を締め、寝台へ腰を下ろした。
「ミナは? また、ローデンへ行くの?」
「依頼があれば、相談してみたい。採ったもの、今度はもっといい状態で持って帰りたいから」
「うん」
「それと……もう少し遠くも、行ってみたい」
ミナは膝の上で手を重ねた。
「エルディアっていう国。旅先で会った商人さんが、そこの方だったの」
角兎を懐かしいと言って食べたこと。
自分の知らない部位の食べ方があったこと。
サハルの市場には、香辛料も、乾かした果物も、いろいろ集まるらしいこと。
話しているうちに、マルタの目が丸くなった。
「行く日、決めたの?」
「まだ。道も、どれくらいお金がかかるかも、調べてないから」
「そっか。でも、行きたいんだね」
ミナは頷いた。
「教えてもらった味を作るのも楽しいけど、その場所で食べたら、もっと違うのかなって」
窓の外から、夕方の通りの声が聞こえた。
マルタは、荷物の上へ置いていた手を離した。
「行くことになったら、手紙ちょうだい。どんなの食べたかも、ちゃんと書いてね」
「うん。マルタの家のご飯も、教えて」
「いいよ。母さんの煮込み、鍋いっぱい作るとおいしいんだ。私が少しだけ真似すると、なんか違うんだよね」
「それ、聞きたい」
ミナが身を乗り出すと、マルタは笑った。
「ほら、もうその顔。帰ったら聞いてくるから」
*
その夜、下宿から短く配信をした。
マルタも隣へ座り、寄り道して会いに来たと挨拶する。
〈こぐま:おお。講習はどうだった〉
「行けました! 教えてくださって、ありがとうございました」
マルタは水晶へ顔を向けた。
「今日は、ミナとラグさんにも見てもらいました。まだ、回りすぎちゃうこともありますけど」
〈こぐま:止まって直せるうちに、何度でもやっておけ〉
「はい」
横でミナも頷いた。
練習場で言われたことと、同じだった。
配信を終えると、マルタは立ち上がりかけて、振り返った。
「ねえ。食べ物の話ばっかりじゃなくて、困ったことも書いてね」
ミナは、水晶から手を離した。
「マルタも」
「うん。盾で後ろの人を踏みそうになった話とか」
「それ、もう聞いたよ」
「じゃあ、次は別の話にする」
二人で笑った。
うまくできたことだけで、手紙をいっぱいにしなくてもよかった。
*
翌朝、マルタは故郷へ向かう馬車へ乗った。
手を振る前に、ミナは言った。
「寄ってくれて、ありがとう」
「うん。また寄る。ミナがここにいるか、先に手紙で聞くね」
ミナは頷いた。
次も必ずこの町で会うとは、もう決まっていなかった。
車輪が動き出す。
窓から振られる大きな手を、ミナは見送った。
下宿へ帰ったら、地図を見ようと思った。
マルタの帰る場所と、ナディムの店がある場所。
名前だけだった遠くの町に、手紙を受け取ってくれる人がいた。
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