第64話 また、採りに行きます
補助帯が戻ってきたのは、キリルを見送ってから十日ほど経った朝だった。
ミナはギルドで包みを受け取り、下宿の机へ広げた。
リゼの手紙が、一緒に入っている。
使用後の報告への返事で点検を勧められ、王都の工房へ送っていたものだった。
『留め具も術式も、今のところ異常は見つからなかったよ。ただし、道具が無事だから、使った人も平気だったとは限らないからね』
ミナは、その下もゆっくり読んだ。
自分の身体強化と補助帯を重ねて使ったこと。
強めた目を、戦闘の後にどこまで戻せていたか曖昧なこと。
手紙には、報告で伝えた内容が順に書き留められていた。
帯による負担と、自分の魔法や走り続けた疲れを、記録だけで分けることはできないという。
『だから、次の練習で一度に全部試すのはなし。まずは自分の身体強化だけで、弱く、短く。帯を使う練習は、体が戻ってから別に確かめよう』
最後の一行は、少し字が大きかった。
『危なくなるまで使えるか調べなくていいからね』
「……はい」
誰もいない部屋で返事をした。
ミナは補助帯を持ち上げ、留め具を確かめた。
新しい力が足されたわけではない。
帰れなくなるかもしれないときに、自分を助けてくれた、あの帯だった。
*
腕の痛みは、日常の動きではほとんど出なくなっていた。
治療所で確かめてもらい、短い練習から戻してよいと言われた。
盾の緩んだ紐は直してある。
ローデンで直してもらった槍も、穂先の取り付けに緩みはなかった。
それでも最初の練習には、槍も盾も持たなかった。
ラグが地面へ短い線を引き、その横へ立つ。
「今日は、ここから一歩だけです」
ミナは頷いた。
補助帯は、袋へ入れたままにしてある。
まずは、いつもの見え方を確かめる。
ラグの靴と、地面の線。
風で揺れている上着の裾。
目へ、少し魔力を集めた。
ラグの重心が動く。
ミナは一歩だけ横へ出て、止まった。
そこから、目へ集めた分を弱める。
すぐに次の一歩へ移らず、もう一度、同じところを見た。
「どうですか」
「もう少し、残していたかもしれません」
キリルが揺らした桶の水を思い出した。
見えているものが変わったからといって、それだけで魔力の状態までわかるわけではない。
急がず、普段の感じと照らし合わせる。
「今は、戻りました」
「では、少し休みましょう」
ラグが、線の上へ落ちた小石をどけた。
次は魔法を使わず、同じ一歩を踏む。
こちらも、足がもつれずに止まれた。
何度か繰り返すと、体を動かす前に肩へ力を入れていることに気づいた。
息を吐き、肩を下げる。
もう一度踏み出した足は、先ほどより軽かった。
「以前より、止まる位置が揃っていますね」
「強化していなくても?」
「ええ。踏み出す前の姿勢も、戻す足も」
ミナは地面を見た。
靴跡は、狭いところへ集まっている。
魔法を使っていない間にも、覚えてきたものが残っていた。
休憩を挟み、足腰へ弱く魔力を回す練習を少しだけ行った。
腕へ回す分は、さらに控えめにする。
痛みも、目の奥の重さも出ていない。
「もう一度、できます」
言ってから、ミナはラグの顔を見た。
「……でも、今日はここまで、でしたね」
「はい。明日の朝にも確かめたいので」
ラグが微笑んだ。
「続きが残る程度で、帰りましょう」
*
翌朝、腕にも脚にも、練習を増やす前のような痛みはなかった。
その日は採取へ行かず、工房を訪ねた。
ローデンから持ち帰った角兎の腱について、結果を聞けるという。
作業台には、細く分けられた繊維と、撚り合わせた糸が並んでいた。
隣に、小さな革の試し縫いがある。
「これが、持ってきたものですか」
「ああ。こっちは、糸にできた分」
職人が短い一本を示した。
採ったときの形は、もう残っていない。
ミナは指へ載せ、細い筋を見た。
「こっちは、途中で繊維が切れた」
別の札がついた束が出された。
札の番号を見て、ミナは帳面を開いた。
「取り出すときに、刃を入れすぎた方です」
「記録の印と、切れた辺りが合う。次は、ここを傷めずに持ってきてほしい」
「はい」
ミナは、自分の図へ印を足した。
もう一つは、乾き方にむらが出ていたという。
重なりをほどいた時刻と、棚を移した時刻を、職人と一緒に確かめる。
「次は、置き始めから分けてみよう。ただ、これだけで原因が決まったわけじゃない。天気も、元の太さも違うからね」
書きかけた『重なったため』を止めた。
代わりに、『最初から分けて、比べる』と書く。
「全部、使えたわけではないんですね」
「試料だからね。でも、駄目だったものを次に減らせる。そこまで含めて頼んだ仕事だよ」
職人は、革の試し縫いを裏返した。
縫い目は、小さな穴を順に通っていた。
「使える分は、こちらで加工に回す。次も頼めそうなら、ギルドへ条件を出すよ」
ミナは革の端へ触れた。
林から運んだものが、誰かの手で、別の形になっている。
「また、持ってこられるようにします」
言ってから、ラグへ目を向けた。
「次の依頼を見て、相談してからですけど」
「ええ。今度は、乾かす場所も先に考えられますね」
*
数日かけて歩く距離を戻し、ミナは近場の葉を採る依頼を選んだ。
慣れた休憩所を通る道だった。
昼には町へ戻れる量にして、ギルドへ届ける。
出発の前に、ラグと地図を広げた。
「今日は、どちらかが離れて確かめる場所はありません」
「はい。気になるものがあったら、まず二人で止まります」
もし途中で、誰かを助ける必要が出たら。
ミナは、その場合も尋ねた。
助けを呼ぶ場所と、見通しの利く待機場所を地図で確かめる。
何かを見つけても、事情がわからないまま追いかけない。
残る側にも危険があるなら、そこで決めた待ち方を変える。
「その場で全部考えるのは、難しかったです」
「私も、待っていただくときの説明が足りませんでした」
ラグは地図から顔を上げた。
「一人で調べられるつもりでも、その先で何が起こるかはわかりません。そこは、私も改めます」
ミナは頷いた。
自分が言いつけを守るだけで、全部済む話ではなかった。
*
位置の共有と記録を動かし、町を出た。
今日は公開配信を始めず、道と自分の体を確かめながら歩いた。
採取地は、朝露が乾き始めたところだった。
袋を置き、布を広げる。
ラグが周囲を見て戻るまで、株には触れなかった。
「始めて大丈夫です」
「お願いします」
葉の裏を見る。
傷のないものを選び、次の季節へ残す株を避ける。
包丁の入る向きは、手が覚えていた。
半分ほど揃ったところで、近くの茂みが鳴った。
ミナの手が止まる。
息を吸ったまま、肩が上がった。
「ミナさん。そのままで」
ラグの声が、すぐ近くから聞こえた。
ミナは刃を下げ、茂みの手前と、その横の道を見た。
ラグが半歩、前へ出る。
低い枝が揺れ、小さな鳥が飛び出した。
離れた木へ移り、そこで鳴く。
ミナは、長く息を吐いた。
「鳥でした」
「ええ。少し、ここで休みましょうか」
「……はい」
腰を下ろして、水を飲んだ。
ラグはすぐに、もう大丈夫だとは言わなかった。
ほかに動くものがないか、もう一度確かめている。
ミナは自分の手を見た。
今は、震えていない。
袋の横には、まだ包んでいない葉がある。
「続けられそうです」
「では、残りをお願いします」
もう一度布の前へ戻り、採った葉を数えた。
先ほど取りかけた株にも、傷をつけずに済んでいた。
*
帰り道の坂で、ミナは袋の紐を持ち直した。
荷物はある。
脚も、歩いた分だけ疲れている。
それでも、以前この坂で何度も足を止めたときほど、息は上がらなかった。
足元の段差を選び、歩幅を少し小さくする。
登り切ってから、後ろを振り返った。
「前は、途中でもう一度休んでいました」
「今日は、歩く速さも揃っていましたからね」
ラグが水筒を示した。
ミナも取り出し、少し飲んだ。
魔力は、込めていない。
補助帯も使っていなかった。
毎回すぐに痛くなるような歩き方を、少しずつしなくなっていた。
遠くへ行くために必要なものは、袋へ足す道具だけではなかった。
納品は、昼を少し過ぎた頃に終わった。
職員から控えを受け取り、ミナは完了の印を見た。
小さな依頼だったが、今日の最初から最後まで、自分で歩いて帰ってこられた。
*
夜の短い配信で、そのことを報告した。
〈帰り道:また採取へ行けたんですね〉
「はい。今日は、近いところです」
〈針しごと:帯は?〉
「持っていきましたけど、使わずに帰れました。今も、腕は痛くないです」
〈針しごと:なら、明日の朝の様子も書いておいてね〉
ミナは頷いた。
点検をしてくれた人の名前は出さず、机の帳面を引き寄せる。
採取の結果と、体の具合。
その横に、次は何を頼まれそうかも書いた。
今日は伝えたいことを、落ち着いて話せた。
*
同じ夜、ラグはギルドの小さな通信室へ入った。
セリカからギルドを通じて連絡があり、互いに仕事の終わる時刻を合わせていた。
有料の通信用水晶が、机の中央に置かれている。
職員が相手を確かめて退出すると、部屋には声だけが残った。
「久しぶり」
「ああ。ミナさんには、今日も手紙が届いていたな」
「うん。私にも返事が来た。帰ったことも、腕がよくなってきたことも」
少し間が空いた。
「ミナ、あなたの前では平気な顔してない?」
ラグは椅子へ深く座った。
「怖かったとは、話してくれた。今日も、茂みの音で止まった。少し休んでから、自分で続けると言ったよ」
「……そう」
「何もなかったように振る舞っているわけではない」
向こうで、紙を置く音がした。
セリカも、ミナの手紙を手元へ出しているのかもしれなかった。
「記録を見た」
「ああ」
「よく、あの子供も連れて帰ってくれたね」
ラグは右手を机へ置いた。
爪の先が、木へ触れる。
「もっと早く、私の方を倒せていれば」
「でも、子供を置いて動けなかったでしょう」
「それでも、あの子が包丁を抜くところを見ていた。間に合わなかった」
水晶の向こうが静かになった。
セリカは、すぐには否定しなかった。
「私も、その場にいたらって考えたよ」
やがて聞こえた声は、先ほどより少し低かった。
「考えても、あのときはいなかったんだけどね」
ラグは目を伏せた。
「待ってもらうつもりで離れた後の、備えが足りなかった。今日、ミナさんとも話した」
「どんなふうに?」
ラグは、出発前に地図を囲んだときの話をした。
行き先だけでなく、助けを求める場所も確かめたこと。
自分が離れてよいかを、以前より慎重に考えていること。
セリカは、途中で一度だけ、待つ場所について聞き返した。
答えると、小さく息を吐いた。
「それから、人数も考えておきたい。二人でできる仕事はあるが、増やした方がいい仕事もある」
「ミナ、自分が頑張れば済むと思うところ、あるから」
「そうだな。ただ、キリルに子供を任せたのは、あの子自身の判断だった」
「うん。そこは、私も驚いた」
セリカの声が、少し柔らかくなった。
「小さい頃は、困ってても、私の服を引っ張るだけのことがあったのに」
ラグは、短く笑った。
「今は、私にもはっきり頼んでくれる。葉を踏まない場所へ立ってほしい、とかな」
「それは、ちゃんと聞いてあげて」
「もちろん」
二人の間に、わずかな笑いが残った。
セリカが、続けた。
「あの子、知らないところへ行く話、楽しそうに書くんだよね」
「旅先で聞いてきた話が、ずいぶんあるからな」
「全部、私が先に確かめてあげられたらいいんだけど」
言ってから、セリカ自身が小さく笑った。
「それじゃ、いつまで待たせるかわからないか」
「私も、いつも隣にいるとは限らん。そのときに、誰へ何を頼めばいいか。そこまで一緒に考えていきたい」
「うん。私にも、できることは聞いて」
ラグは頷いた。
「それと、ラグ」
「何だ」
「ちゃんと、ミナに助けてもらったって言った?」
「言ったよ」
「なら、よかった。あの子、迷惑をかけた話だけで終わらせそうだから」
ラグは、採取袋を背負って坂を登る、小さな背中を思い出した。
今日のミナは、登り切ってから嬉しそうに振り返った。
「次の手紙には、今日の仕事のことが書いてあると思う」
「……楽しみに待ってる」
*
翌朝、ミナは腕を伸ばし、指を握った。
窓を開けてから、昨日の帳面へ一行足す。
体に痛みは出ていない。
封をした手紙を、鞄へ入れた。
ナディムへ、鶏肉の食べ比べをした話を書いたものだった。
最後には、サハルでは同じ香辛料をどんな下味に使うのか、尋ねている。
今日は、工房で聞いた次の条件をギルドで確かめる。
その前に、手紙を預けていこう。
ミナは鞄を持ち、階段を下りた。
*
ミナが近場の採取へ戻るより、少し前のことだった。
オルヴェンは、妻と孫を待たせていた庭へ出た。
帰宅を報告する記録を、ようやく最後まで見終えたところだった。
「あの子は、帰れたのね」
妻に聞かれ、頷く。
「うん。道具も役には立った。ただ、使うと決めたのも、動きを選んだのも、あの子だ」
作ったものが助けになったことは嬉しい。
それでも、脚に力が入らなくなった少女の姿は、頭に残っていた。
「もっと良くできるところは、考えたいね」
「考えながらでも、歩けるでしょう?」
妻が門を示した。
孫は、先ほどから外出用の靴を履いて待っている。
オルヴェンは、持って出かけかけた仕事の紙を見た。
玄関へ戻り、棚へ置く。
「お待たせ。今日は、どこまで行こうか」
孫が手を伸ばした。
差し出された手を取ってから、門を開けた。
*
山麓の町では、ロゼッタが夫と市場の帰り道を歩いていた。
朝に見た記録の話をすると、夫は荷車を避けて端へ寄った。
「子供を運ぶ人と、魔物を見る人を分けたんだな」
「うん。相手が何をできるか、覚えてた。自分が全部やる方へ行かなかったのは、よかったと思う」
ただ、最後に残った一体を受け持つ役も、ミナだった。
ロゼッタは買い物籠の持ち手を直した。
「あの判断ができたからって、毎回あの子にさせていいわけじゃない」
「次も、同じ二人で行くのか?」
「行く場所と仕事次第だね。人が増えるだけでも、全部うまくいくわけじゃないし」
前を歩く子供が、店の軒から飛び出しかけた。
親が呼び止め、荷車を先に通す。
ロゼッタも足を止めた。
「今度話せたら、次にどこへ行きたいか、聞いてみようかな」
「道具を勧める前に?」
「そう。道も、人も、その後」
夫が頷き、空いた道へ進んだ。
ロゼッタはその隣へ戻り、籠の中のパンを一つ、夫の袋へ移してもらった。
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