第63話 また、教えてください
キリルが王都へ向かうのは、三日後の朝に決まった。
乗り場で便を確かめた帰りに、下宿へ知らせに来てくれた。
ミナは階段を下り、入口で待っていた彼へ声をかけた。
「それまでに、一緒にご飯を食べられますか」
「食べられるけど。お前、料理して平気なの?」
「重い鍋は、まだお願いしています。切ったり、味をつけたりは、少しずつ」
帰ってからも腕を診てもらった。
痛みの出ない範囲で日常の動きへ戻し、重いものを持つのはもう少し待つように言われている。
「ナディムさんにいただいた香辛料を、鶏肉に使ってみたいんです」
「あの、角兎に入れたやつ?」
「はい。今度は、焼く前に」
「……じゃあ、食べる」
返事をしてから、キリルは自分の手を見た。
掌の傷は塞がりかけていたが、まだ強く擦れない。
「俺も、できることなら手伝う」
「では、お皿をお願いしてもいいですか」
「それくらいなら」
出発の前日の昼にしようと決めた。
ミナは台所へ戻り、管理人へ人数を伝えた。
*
約束の日、台所には同じ大きさの器が二つ並んだ。
鶏肉は、火の通りが揃うよう厚いところを開いてある。
半分には、塩といつもの香草。
もう半分には、塩と油、それからナディムにもらった香辛料を少し混ぜた。
「こっちは、もう匂うな」
キリルが器の上へ顔を近づけた。
「焼くと、また変わると思います」
ミナは使った匙を洗い場へ置いた。
香辛料の包みは、先に閉じてある。
次に使うときも、乾いた匙を出す。
ラグが到着したところで、配信を始めた。
水晶が映すのは、台と火元、それから皿を置く場所だった。
「今日は、鶏肉で試します。いつもの味つけと、旅先でいただいた香辛料の味つけです」
最初の一人は、夕餉係さんだった。
〈夕餉係:鶏肉ですね。楽しみにしていました〉
「はい。今日は、焼く前になじませてみました」
温まった鍋へ肉を並べると、乾いた音がした。
いつもの分から焼き、別の皿へ取り分ける。
次の肉を入れる前に、鍋に残った焦げを除いた。
香辛料を使った方は、少し火を弱めた。
表面へついた細かい粒が、肉より先に色づいていく。
「最初から強く焼くと、こちらが焦げてしまいそうです」
〈夕餉係:下味に入れた分、火加減も変えるのですね〉
「はい。匂いが変わってきたので」
キリルは皿を運んでから、台の端で見ていた。
肉を返すたび、隣の器へ視線が動く。
「もう少しです」
「別に、急かしてねえよ」
ラグが椅子を引いた。
「香りだけ先に届くというのは、なかなか厳しいものですね」
「ラグさんまで」
ミナは笑い、火の通りを確かめた。
皿へ二種類を分け、茹でた豆とパンを添える。
管理人と、昼に戻っていた下宿人にも小皿を渡した。
水晶の向きを直し、ミナも座る。
キリルは香辛料の方を先に食べた。
噛んでから、皿を見直した。
「あ。前と違う」
「どう違いますか」
「あのときは、汁を飲んだ後にも匂いがしただろ。これは、噛んだときに来る」
次に、いつもの味の方を食べる。
「こっちも、うまいけど」
「どちらかに決めなくても、大丈夫です」
「いや、聞かれたから、ちゃんと言おうと思って」
ミナは匙を置いた。
「ありがとうございます。噛んだとき、ですね」
管理人は、香辛料の方へパンを添えた。
「私は、この量でちょうどいい。もう少し多いと、途中でいつもの方が欲しくなりそう」
「私は、いつもの方を多めにもらっていいかな」
下宿人の一人が言った。
香りは好きだが、今日は食べ慣れた方が落ち着くという。
ミナは皿を寄せ、取り分けた。
同じものを食べても、次に欲しい一口は違っていた。
「ラグさんは?」
「どちらも、もう一切れずついただければ」
「感想の方です」
「失礼しました。お願いが先に出ました」
キリルが笑いかけ、慌てて口を閉じた。
ラグは、香辛料の方に残った焼き汁をパンで受けた。
「こちらは、パンと合わせたときも香りが残りますね。ですが、明日も選べるのでしたら、明日はいつもの方をお願いするかもしれません」
ミナは二つの皿を見比べた。
新しく覚えた味が、一つ増えた。
前から作っていた方も、また作ればいい。
〈夕餉係:こちらで手に入る香辛料は、同じ配合ではなさそうです。まずは少量で試してみます〉
「はい。私も、今日使った量を書いておきます。混ざっているものが違うと、同じ量でも強さが違うと思うので」
途中から来ていた灰ねこさんの文字が続いた。
〈灰ねこ:こなべさん、自分の分が冷めないうちに〉
「あ。はい」
ミナは帳面を閉じ、残りの一切れを口へ運んだ。
肉の表面に残った香りが、噛むと温かい汁と一緒に広がった。
*
配信を終え、片づけも済んだ頃には、台所の窓が白く明るくなっていた。
管理人が重い鍋を引き受けてくれたので、ミナは布で台を拭いた。
キリルは乾いた皿を棚へ戻す。
最後の一枚を置いても、すぐには帰ろうとしなかった。
「ミナ」
「はい」
「あのとき、俺に子供を任せたのってさ」
布を畳む手が止まった。
キリルは棚の扉へ目を向けたまま続けた。
「ちゃんと、できると思った?」
林で、彼が倒れたところを思い出した。
裂けた外套と、地面へついた手。
ミナは、台の上へ布を置いた。
「風を使えるって、知っていました。ラグさんのそばまで行けたら、あの子を運べるとも」
「……そっか」
「でも、私も、全部大丈夫だとわかっていたわけではありません」
言い終えるまで、キリルは黙っていた。
「来てくれてよかったって、言っていいか、わからないんです。待つように言われていたので」
「うん。俺が、追いかけようって言ったし」
「私も、一緒に行くと決めました」
窓の外で、荷車の車輪が鳴った。
ミナは、音が遠ざかるのを聞いた。
「それでも、あのとき、キリルさんがあの子を連れていってくれて、助かりました」
キリルが顔を向けた。
「ありがとう」
「……俺も」
それだけ言って、唇を結んだ。
やがて、棚へついていた指を離す。
「お前、まだあっちで戦ってるの、見えてた。子供を置いて戻るわけにもいかなくて」
ミナは頷いた。
自分からは、岩の向こうの二人が見えなかった。
「だから、次はさ。言われてから考えるんじゃなくて、先に、何ができるか考えたい」
「私も、そうしたいです」
キリルは少し息を吐いた。
「王都で、ちゃんと習ってくる」
「はい」
ミナも、まだ習いたいことがあった。
*
午後、三人で短く散歩に出た。
人通りの少ない石造りの水場で、ラグが休憩を勧めた。
ミナが腰を下ろすと、キリルは桶に汲んだ水を少し離れた空き場所へ置いた。
「魔法、今は練習してないんだっけ」
「はい。強く使うのは、お休みしています」
「じゃあ、見るだけ」
周りに人がいないのを確かめ、キリルが掌を上へ向けた。
小さな火が灯った。
昼の光の中でも、先端だけが明るく揺れる。
「前に、強くするところを絞れって話しただろ」
「はい。目も、ずっと強くしないように」
「俺もさ、最初は大きくする方ばっかり練習してた。でも、火って、消すのが遅れたら困るだろ」
火が消えた。
掌を下ろす前に、もう一度、同じくらいの大きさで灯る。
「つける。消す。それで、ちゃんと消えたか見る」
三度目は、火が少し小さかった。
キリルは眉を寄せ、それも消した。
「今のは、弱すぎた。続けてやると、たまにこうなる」
隠さず言ってから、手を下ろした。
「風だと、見えないだろ。だから、水を見たりする」
桶の水面に、小さな波が立った。
縁の片側へ寄った波が、戻ってくる。
キリルが魔法を止めても、水はしばらく揺れていた。
「止めた後も、残るんですね」
「水はな。風を出し続けてるのとは違う。そこ、最初は俺もわかんなかった」
ミナは桶の縁を見つめた。
波は小さくなり、やがて上の空が映った。
「目だと、同じように確かめられるかわかんないけど。弱く戻したつもりで、まだ強くしてることって、ない?」
ミナはすぐに答えられなかった。
林で、最後に魔力を弱めた瞬間。
覚えているのは、魔物が動かなくなったことと、腕が痛かったことだった。
目へどれくらい力を残していたかまでは、はっきりしない。
「……あったかもしれません」
「俺、身体強化は教えられねえけど。強くした後に、普段の感じへ戻す練習なら、できるんじゃないかって」
ミナは自分の指を見た。
今は、魔力を込めていない。
石の縁も、キリルの手も、いつもの見え方だった。
「戻したときにも、一度、確かめるんですね」
「うん。強くできた、で終わりにしないでさ」
ラグが隣で頷いた。
「再開するときに、短い練習へ入れてみましょう。動きを加える前に、まずは止まった状態で」
「はい」
今すぐ試したくなったが、ミナは手を膝へ戻した。
今日覚えるのは、ここまでだった。
「キリルさんは、王都でもそういう練習をするんですか」
「何を教わるか、まだわかんない。もっと離れたところへ、狙った通りに風を出せるようにはなりたい」
キリルは、止まった水面を見た。
「近くに人がいても、そっちへ当てずに済むように」
ミナも、その先を想像した。
岩の陰まで届く風。
子供の顔へ砂を飛ばさずに、魔物の目を逸らす風。
「できるようになったら、教えてください」
「お前も風、使うつもり?」
「まだ、わかりません。でも、キリルさんに何をお願いできるか、知っておきたいです」
彼の耳が、少し赤くなった。
「……なら、お前も教えろよ。何ができるようになったか」
「はい」
*
翌朝の乗り場には、王都へ向かう人が集まっていた。
キリルの毛布は、今度はまっすぐ荷物へ留まっている。
係へ預ける前に、自分で結び目を引いて確かめた。
ミナは、小さな包みを渡した。
中身は、朝に切り分けたパンだった。
「途中の休憩で、食べてください」
「ありがとう。……代金」
「これは、昨日の片づけのお礼です」
キリルは財布へ伸ばしかけた手を止めた。
それから包みを受け取り、車内へ持ち込む袋へ収めた。
「あ。王都には、マルタもいるんです。もし会ったら、よろしく伝えてください」
「マルタって……」
キリルの声が、そこで止まった。
ラグが髭の端をわずかに緩めた。
「ミナさんと同い年の女の子だ。熊の亜人で、盾を使う」
「あ。そうなんだ」
さっきより、返事が早かった。
ミナは頷いた。
「一緒に採取へ行っていたんです。今は、盾の講習を受けています」
「へえ。じゃあ、会うこともあるかもな」
「マルタへの手紙に、キリルさんのことも書いていいですか」
「いいけど。変なこと書くなよ」
「道を教えてくれて、魔法も教えてくれたって」
キリルは何か言いかけて、やめた。
「……それなら、いい」
乗るように声がかかった。
最後にラグが、キリルの肩へ右手を置く。
「知らないことは、知らないと伝えろ。王都には、それを教えるためにいる者がいる」
「うん」
「それと、飯は抜くなよ」
「わかってるって」
キリルが馬車の段へ足をかけた。
一段上がってから、振り向いた。
「ミナ。あの肉、また食わせて」
「香辛料の方ですか」
「両方」
ミナは笑った。
「じゃあ、また食べ比べてください」
車輪が動き始めた。
キリルは窓から手を上げ、ミナも振り返した。
角を曲がる前に、もう一度だけ顔が見えた。
姿が見えなくなってから、ミナは手を下ろした。
「行ってしまいましたね」
「ええ」
馬車の音は、まだ少し聞こえていた。
ミナは袋の中の帳面へ触れた。
昨日の料理の分量と、その次の頁に書いた魔法の練習。
キリルの言葉を、忘れないうちに残してある。
今度会うまでに、何ができるようになるだろう。
まずは腕を治し、止めた後まで確かめる練習をしよう。
「私も、帰ったら手紙を書きます」
マルタへ、無事に帰ったこと。
王都へ向かった、少し年上の男の子のこと。
それからナディムへ、鶏肉を焼いてみた話を。
どちらも欲しいと言った人が、二人いたことも書いておこうと思った。
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