第61話 今日は、作ってもらいます
宿へ戻ったときには、食堂の灯りがついていた。
町の治療所で、頬の傷と左腕を診てもらった。
腕の骨には異常がないと言われたが、盾を受けたところは腫れていた。
脚の重さも残っている。
目を強く使ったことも話し、今日は魔法の練習をせず、休むように言われた。
ミナは、入口に近い椅子へ座った。
ラグが道具を部屋へ運んでくれている。
食堂から台所へ続く扉が開き、匙と器の触れる音が聞こえた。
体が、少し強張った。
そちらを見ると、宿の人が皿を重ねているだけだった。
剣の音ではなかった。
「少し、食べられそう?」
声をかけられ、ミナは頷いた。
「はい。何か……」
「今、持ってくるね」
立とうとしかけた足を、そのまま椅子の下へ戻した。
今日は、自分が台所へ入る必要はなかった。
*
運ばれてきたのは、乳で柔らかく煮た麦の粥だった。
小さく切った黄瓜が入っている。
匙を動かすと、湯気と一緒に甘い匂いがした。
「熱かったら、少し待って」
「ありがとうございます」
ミナは右手で匙を持った。
指が、思ったより曲がらなかった。
握り直すと、手のひらが痛い。
器を持ち上げようとした左腕にも、鈍い痛みが走った。
机へ置いたままにして、一口分をすくう。
口に入れると、麦の粒が柔らかくほどけた。
黄瓜は、噛む前から舌で崩せた。
「……おいしいです」
宿の人は頷き、台所へ戻った。
次の一口を飲み込んだところで、ミナは息を吐いた。
さっきよりも、長く吐けた。
隣の卓で、明日の馬車について話している人がいる。
パンを追加で頼む声もする。
入口の扉が開いても、誰かが食事に来ただけだった。
器の底が見える頃には、肩が少し下がっていた。
*
ラグが戻ってきた後、キリルも食堂へ来た。
外套の裂けたところを、畳んで腕へ掛けていた。
掌には、巻き直した布がある。
「座っていい?」
「はい」
ミナが答えると、彼は向かいの椅子を引いた。
ラグは少し離れた席で、自分の食事を受け取っている。
キリルは布の端を指で触った。
ミナも、匙を器へ置いた。
「……助かった」
キリルが言った。
「お前が、あいつ引き離してくれて」
ミナは顔を上げた。
彼は、こちらを見ていた。
「子供を運んでくれて、ありがとうございました」
「あれくらいしか、できなかったけど」
「ラグさん、一緒には動けなかったので。岩の後ろへ行けて、よかったです」
キリルは黙った。
少しして、自分の掌へ目を落とした。
「最初、何もできなかった。転んだとき」
ミナは、裂けた外套を見た。
近くを通った牙のことを思い出し、匙から手を離した。
「私も、槍を離した後、すぐには包丁を抜けませんでした」
「……そうなのか」
「はい」
しばらく、二人とも話さなかった。
台所から、新しい料理の匂いがしてきた。
キリルは立ち上がり、外套を抱え直した。
「次は、もっと周りを見る」
言ってから、ミナの器へ顔を向けた。
「食えたなら、よかった」
ミナは頷いた。
今度は、彼が目をそらす前に返せた。
「キリルさんも、手を休めてくださいね」
「わかってる」
*
部屋へ戻ると、槍と盾が壁際に置かれていた。
盾には、牙が滑った傷がある。
ミナはそれを見たところで、足を止めた。
「道具は、明日にしましょう」
ラグが言った。
「槍は、使う前に点検してもらいます。包丁の汚れは、落としてあります」
「ありがとうございます。試料も、夕方に見に行くつもりだったんですけど……」
「職員の方へ頼んであります。時刻も残していただけます」
ミナは寝台へ腰を下ろした。
自分の帳面は、荷置き場へ残した袋と一緒に戻ってきていた。
開こうとして、やめる。
「明日、聞きます」
「ええ」
ラグが水差しを、手の届く場所へ移した。
ミナは靴を脱ぎ、足を寝台へ上げた。
目を閉じると、槍の柄が跳ねるところが浮かんだ。
もう一度目を開ける。
窓には布が掛かり、卓の上には水差しがあった。
今、そこにあるものを確かめてから、横になった。
*
翌朝は、立つ前にしばらく寝台へ座っていた。
脚は、昨日ほど重くなかった。
けれど、廊下へ出るだけでも歩幅が小さくなった。
朝食は、部屋へ運んでもらった。
昼前、ギルドの職員が短い確認に来た。
捜索へ加わった経緯と、配信を始めた場所を尋ねられる。
ミナは、思い出せる順に答えた。
「配信を見ていた方からも、連絡がありました。魔物の種類と人数がわかったので、向かう組へ伝えられました」
グレンからの連絡だったと聞き、ミナは頷いた。
文字を読むことはできなかった。
それでも、水晶の向こうで動いてくれた人がいた。
職員が帰った後、ミナは卓へ水晶を置いた。
今日は、座ったまま話す。
「昨日は、ご心配をおかけしました。町へ戻って、治療も受けました。今日は、宿で休んでいます」
数字が一になっても、すぐには文字が来なかった。
ミナは、怪我をした子供も家族と一緒にいると伝えた。
〈灰ねこ:顔を見られて安心した。腕は、動かせる?〉
「はい。まだ痛いので、重いものは持たないように言われています。救援の連絡、ありがとうございました」
〈灰ねこ:向こうでは、もう捜してくれていたよ。私は見えたことを伝えただけだ〉
ミナは、水晶の縁へ目を落とした。
「コメント、読めませんでした」
槍を握っていたとき、文字が出たことはわかっていた。
何か言ってくれている。
そう思っても、顔を向けられなかった。
〈灰ねこ:あのときは、目の前を見ていてよかった。こうして話せてよかったよ〉
ミナは頷いた。
一度頷いただけでは足りず、もう一度、少しだけ頭を下げた。
「はい。ありがとうございます」
報告を終えたところで、配信を切った。
戦いの全部を、今日話すことはできなかった。
それでも、無事だということは、自分の声で伝えられた。
*
リゼへは、補助帯を使ったことを書いて送ることにした。
ミナは紙へ、使い始めた場面を記した。
盾で受けた後、姿勢を戻すために動かしたこと。
自分の身体強化も一緒に使ったこと。
止めてから、立って帰れなかったこと。
どれくらいの時間、動かしていたのかはわからない。
そこには、わからないと書いた。
配信の記録も見てもらえるよう、その日の記録を指定する。
書く手が疲れると、休んだ。
翌日、治療所で確かめてもらった状態も足してから、ラグにギルドの窓口へ届けてもらった。
補助帯は、まだ袋へ戻していなかった。
命を助けてもらった道具だった。
次に使う前に、伝えておきたいことがあった。
*
ラグは手紙を預けた後、武器の点検を頼んだ店へ寄った。
ミナの槍は、穂先の留まりに緩みが出ていた。
柄には、木へ打ちつけた跡もある。
必要な直しを頼み、自分の剣も受け取った。
今の手に合うものを選んだ。
それは、役に立った。
短く受けて刃を戻す動きも、できた。
それでも、岩の前から離れられなかった。
子供を動かしたのはキリルだった。
風が横道を塞いでくれたから、前へ踏み込めた。
その間、ミナはもう一頭を引き受けていた。
ミナさんは、戦えるようになっている。
そう認めると、胸が少し痛んだ。
まだ守っていなければ、と思う気持ちは消えない。
けれど、できるようになったことまで、見ないふりはできなかった。
必要なのは、あの戦いをもう一度任せることではない。
あの子が一頭を引き受けなくても済む立ち方を、考えることだった。
前を受け持つ者。
周囲を見て、動けない者へ手を貸せる者。
離れた場所から、進む道を変えられる者。
マルタの盾の横を通ったときのことを思い出す。
同じ場所へ、二人で戻る必要がなかった。
誰とでも、すぐに組めるわけではない。
技量だけでなく、声が届くか、互いの動きを知っているかも違う。
それでも、二人でできるようにすることばかりを考えていては、見落とすものがある。
ラグは、直してもらう槍を店へ残した。
宿へ帰る道で、次に相談したいことを一つずつ考えた。
*
ミナが作業小屋へ行けたのは、さらに翌日だった。
ラグと一緒に、ゆっくり歩いた。
袋は持たず、帳面だけを手にしている。
棚には、自分の書いた印が残っていた。
その横へ、別の筆跡の紙が置かれている。
「この日は、雨が来そうだったので、窓を閉めました。こちらは、置く向きを変えた時刻です」
職員が説明してくれた。
ラグが確認したときの様子も、その下へ書き足してある。
ミナは紙を順に読み、自分の帳面へ写した。
自分で見たところと、人に聞いたところがわかるよう、名前も添える。
「ありがとうございました」
「帰ってから使う記録でしょう。これも、一緒に持っていってください」
紙を受け取った。
自分が寝ている間にも、試料は少しずつ乾いていた。
見て、確かめて、書いてくれた人がいた。
夕方には、キリルも小屋へ来た。
巻いていた布が小さくなり、外套の裂け目は縫われていた。
「これ、もう持って帰れる?」
「職員さんにも見ていただきます。中まで乾いていれば」
キリルは手を伸ばしかけ、先に手を洗いに行った。
戻ってきてから、容器の蓋を開けた。
布を挟まない折り方を、覚えていてくれた。
*
出発の便を相談したのは、その翌日だった。
試料は持ち運べる状態になり、処理の記録も揃った。
工房での評価は、リュネールへ戻ってからになる。
ミナ自身も、休憩を取りながらの馬車移動ならよいと言ってもらえた。
ローデンのギルドで、キリルが案内の報酬を受け取った。
初めての仕事の分だった。
机の上で硬貨を数え、袋へ入れる前に、もう一度確かめていた。
「これも、王都へ行くのに使うんですね」
ミナが言うと、キリルは袋の口を結んだ。
「うん。……そう」
いつものように大きく言わず、内側の袋へしまった。
帰りの馬車の時刻を聞いていると、キリルも窓口へ寄ってきた。
一度村へ戻り、王都へ行く荷物を持ってくるという。
「リュネールまでなら、俺も同じ道なんだけど」
ミナは顔を向けた。
キリルは時刻表を見たままだった。
「準備が間に合えば、この便に乗れる」
「じゃあ、一緒に行きましょう」
今度は、すぐに答えられた。
キリルがこちらを見て、それから頷いた。
「……そうする」
ラグが、乗り場へ集まる時刻を確かめた。
三人分の予定を、ミナは帳面へ書く。
その下には、ナディムへ出発を知らせることも足した。
帰る前に、お礼を言いたかった。
帳面を閉じると、表紙の間から、サハルの宛先を書いた紙が少し見えた。
ミナはそれを挟み直した。
今回は、戻る町への道を三人で行く。
乗り場で待ち合わせる約束をして、ギルドを出た。
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