第60話 みんなで帰ります
鉤牙狼が地面を蹴った。
ミナは槍を前へ出しながら、左へ下がった。
穂先が灰褐色の毛をかすめる。
狼は着地すると、すぐにこちらへ向き直った。
戻す。
槍を、戻さなければ。
伸びた腕を引いたときには、もう次の一歩が来ていた。
肩の動きは見えた。
けれど、見てから動く足が遅い。
ミナは二本の木の間へ退いた。
背中へ幹が触れないよう、斜めに抜ける。
狼の爪が、さっきまで立っていた土を掻いた。
喉の奥が、ひゅっと鳴った。
*
その音を、ラグは聞いた。
振り向きたい。
ミナさんのところへ行かなければ。
目の前で、傷を負った狼が動いた。
ラグは剣を戻し、岩の脇へ向かう進路を塞いだ。
背後ではキリルが子供の体を支え、狭い隙間へ入ろうとしている。
「足、引いて。もう少しだ」
子供が泣きながら頷いた。
痛む足が、石へ引っ掛かっている。
今、目の前の一頭を放せば、二人のところへ行く。
追いかけて斬るより先に、牙が届く。
ラグは前へ出た。
狼が剣を避け、傷のない側をこちらへ向ける。
仕留めようと深く踏み込めば、その横を抜けられる。
早く。
こいつを倒して、ミナさんのところへ。
右手が、柄を握り込みすぎていた。
ラグは息を吐いた。
力を抜き、刃先をわずかに下げる。
焦って振れば、戻すのが遅れる。
その遅れを、今は誰にも埋めさせられなかった。
「キリル、入れたか」
「あと、少し……入った!」
「そこから出るな。私が前へ出たら、岩の右側を見ろ!」
*
グレンは、水晶の前から立っていた。
揺れる画面に、幹と槍が交互に映る。
ミナの息だけが、ひどく近かった。
文字を送っても、目を向ける様子がない。
彼は連絡用の水晶を取り、ローデンのギルドへの取り次ぎを求めた。
待つ間に、配信の冒頭を確かめる。
町外れの林。行方のわからない子供。捜しに入ったラグ。
「捜索中の子供を発見した。鉤牙狼二頭と交戦中。子供は歩けない様子だ。そちらから林へ向かったラグの担当区域を確認してくれ」
正確な位置は、画面だけでは決められない。
見えた岩と土壁の特徴も伝える。
向こうでは、すでに林からの叫び声を受け、近くの組へ連絡を回していた。
グレンは人数と魔物の種類を繰り返した。
「負傷者を運べる用意も頼む」
水晶の中で、ミナの盾が跳ね上がった。
*
狼は、槍の真正面からは来なかった。
右へ回ると思ったところで、頭の向きが変わった。
ミナは穂先を追わせすぎた。
左側へ、牙が迫る。
盾を斜めに向けた。
角張った牙が表面を滑り、腕へ衝撃が来た。
押し返そうとはしなかった。
足を引き、噛みつく口から盾を外す。
それでも、左腕が痺れた。
後ろへ出した靴が土を削り、膝が曲がった。
狼が、また低くなる。
このままでは、次に間に合わない。
ミナは右手で槍を向けたまま、左手を腰へ寄せた。
指先が補助帯の留め具に触れる。
教わった通りに、魔力を流した。
腰を支える力が生まれた。
沈んでいた体が、足の上へ戻る。
ミナは横へ踏み出した。
さっきよりも短い時間で、靴が地面を捉えた。
牙が服の脇を通り過ぎる。
避けられた。
安心する暇はなかった。
狼は、もう振り返っている。
ミナは槍へ左手を添え、腕と体幹にも魔力を通した。
息を吐く。
全部を、吐ききれない。
目の奥へ、少しだけ強く魔力を送った。
前脚の爪が開いた。
片側の肩が落ち、顎の下に胸元が見える。
今なら。
地面を踏み、穂先を突き出した。
刃が入った感触が、柄を伝わった。
けれど、狼は体をひねった。
狙った胸の内側から、肩口へずれた。
引き抜こうとした腕が、逆に引かれる。
狼が横へ跳んだ。
ミナの足が浮きかけた。
離す。
指を開くと、槍が手から抜けた。
体だけが前へ残り、ミナは慌てて踏みとどまった。
槍は、狼の肩に刺さったままだった。
長い柄の端が、地面へぶつかって跳ねた。
手の中には、何もなかった。
*
木の向こうで、柄が石を叩く音がした。
ラグの耳が、そちらへ向いた。
ミナの声はしない。
名前を呼びかけそうになり、止めた。
今、こちらを向かせてはいけない。
目の前の狼が、岩の右へ回ろうとした。
傷ついた脇腹を庇い、低く走る。
「キリル、右だ!」
「風、出す!」
岩の陰から吹いた風が、土と落ち葉を押した。
狼が顔を背け、進む速さが鈍る。
ラグは、その前へ入った。
右手の剣を振る。
狼が、残った力で噛みつこうとした。
厚い刀身の根元へ牙を受け、体ごと角度を変えた。
剣先を遠くへ逃がさず、首の横へ戻す。
刃が通った。
狼が倒れるより先に、ラグはもう一度構え直していた。
起き上がる動きがないことを確かめる。
「そこにいろ!」
キリルへ言い、木々の間へ走った。
*
ミナは、包丁を抜いた。
鞘から出た刃が、小さく見えた。
槍なら、まだ離れていられた。
これでは、牙の届くところへ入らなければならない。
後ろへ下がる。
狼の肩で、槍の柄が揺れた。
相手が横へ回ろうとすると、その端が幹へ当たった。
狼は唸り、頭を振る。
刺さったところを動かすたび、片方の前脚が浅く浮いた。
まだ、動く。
まだ、こちらへ来る。
ミナは盾を前へ出した。
腕が震えた。
補助帯は腰と脚を支えているのに、息は楽にならなかった。
吸っても、足りない。
喉が乾いて、唾を飲めない。
木の向こうに、子供がいる。
キリルがいる。
そちらへ戻してはいけない。
狼が、傷のある脚を引いた。
反対側の後ろ脚が地面を掴む。
ミナは、今までで一番強く、目へ魔力を集中させた。
瞬きを、忘れた。
肩の毛が動く。
顎が上がり、前脚が土を離れる。
刺さった槍の重さに引かれ、体がわずかに傾いた。
来る。
逃げようとすると、大きく下がりたくなった。
けれど、その一歩では、着いたところへ追いつかれる。
目の前の牙から、少しだけ外へ。
ミナは足を動かした。
補助帯の力に、自分の足腰の強化を重ねる。
半歩。
肩を引き、盾の縁で口の向きを逸らす。
牙が、頬のすぐそばを過ぎた。
顎の下から首へ続く、張った皮膚が見えた。
毛の流れ。動く筋。
料理のときのように、押し込んでから探す時間はない。
ミナは右手を寄せた。
刃を当て、通る向きへ引いた。
一瞬の抵抗が、ふっと消えた。
包丁が通った。
狼の体が脇を抜け、地面へ崩れた。
槍の柄が幹に当たり、乾いた音を立てた。
ミナは振り向いた。
まだ、包丁を構えていた。
前脚が動く。
こちらへ向こうとした顎が、土へ落ちる。
ミナは下がった。
もう一歩。
相手が動かなくなっても、刃を下ろせなかった。
*
「ミナさん」
声がした。
誰かが来る。
ミナは包丁を握り直した。
「私です。ラグです」
すぐには、近づいてこなかった。
ミナの視界に入る位置で止まり、名前をもう一度呼んだ。
灰褐色の毛ではない。
見慣れた縞がある。
「……ラグ、さん」
「はい。もう一頭も倒しました」
「あの子は」
「キリルと一緒です。無事です」
ミナは息を吸った。
胸が引っ掛かり、咳になった。
「刃を、下へ向けられますか」
右手を見た。
指が、白くなっていた。
包丁を下げると、今度は膝が震え始めた。
ラグが隣へ来て、右腕で背中を支えた。
「ゆっくり、座りましょう」
「帯を……切ります」
腰へ触れ、魔力を止めた。
脚が急に重くなった。
自分の体なのに、持ち上げる順番がわからない。
ラグに支えられ、木の根元へ腰を下ろした。
包丁を置こうとして、手が震えた。
「鞘は、後で。今は、その布の上へ」
言われたところへ刃を置く。
ようやく指が離れた。
*
ラグは、ミナの顔と腕を確かめた。
頬に細い傷がある。
盾を持つ腕は、触れると痛むという。
呼びかけには答える。目も合う。
それでも、震えが止まらない。
間に合わなかった。
生きているミナを前にして、その思いが胸へ残った。
あの一撃のとき、自分はまだ木の向こうにいた。
声も、剣も、届いていなかった。
守ると決めていた相手が、自分の手の届かないところで戦い抜いた。
助かったことへの安堵と、その事実の重さを、今はうまく分けられなかった。
「ラグさん、手が」
ミナが言った。
支えている右手に、力が入りすぎていた。
「……失礼しました」
ラグは力を緩めた。
「戻ってきてくださって、よかった」
それだけは、声にできた。
*
少しして、道の方から笛が聞こえた。
「リオ! 誰かいるか!」
ラグが声を返した。
川岸を捜していた二人と、ギルドの職員が木々の間へ入ってきた。
追加の連絡で魔物との交戦を知り、運搬用の布も持ってきていた。
岩陰から、キリルが顔を出した。
子供はその外套を掴んでいた。
「足が痛いって。立てない」
冒険者が子供の前へ膝をつき、名前を確かめた。
家族が捜していると伝えると、子供はまた泣き始めた。
キリルの掌も洗われ、布を巻かれた。
浅い擦り傷だったが、土が入っていた。
裂けた外套の下には、噛まれた傷はなかった。
ミナも傷を手当てしてもらった。
足を動かせることは確かめられたが、立つのはまだ難しかった。
職員に配信が続いていると教えられ、水晶へ顔を向ける。
文字が、いくつも残っていた。
〈灰ねこ:こなべさん。助けは着いた?〉
「はい……来て、くださいました」
声が掠れた。
「子供も、無事です」
〈灰ねこ:よかった。詳しい話は後でいい。今は休んで〉
ミナは頷き、配信を止めた。
*
町へ戻る支度ができるまで、三人は同じ岩のそばにいた。
キリルは、巻かれた布を見ていた。
何度か口を開き、閉じてから、ラグへ顔を上げた。
「俺が、追いかけようって言った」
「私も、行くと決めました」
ミナが続けた。
ラグは二人の前へしゃがんだ。
「心配して来たことは、わかっています。子供を動かしてもらえたことで、私は戦えました。助かりました」
キリルが、少し顔を上げた。
「ただ、待つように伝えたのは、お二人の場所がわからなくならないためでもあります。町の人たちは、別の道も捜していました」
ミナは、背中へ届いた職員の声を思い出した。
知らせたところで、足を止めることもできた。
「……はい」
「次は、知らせた相手の指示を聞いてください。お二人まで帰らなければ、捜す人が増えます」
キリルは唇を噛み、頷いた。
ラグは、すぐに立とうとはしなかった。
子供を運ぶための布を、冒険者たちが広げている。
その声を聞きながら、三人で少しだけ座っていた。
「怖かったです」
ミナが言った。
さっきまでは、口に出すと戻ってきそうで、言えなかった。
「はい」
「槍が、抜けなくて。もう、来るのに」
続きを言おうとすると、息が震えた。
ラグが、黙って待ってくれた。
キリルも、何も言わなかった。
ただ、いつものように目をそらさずに聞いていた。
*
帰りの道は、来たときより長く感じた。
子供は布で作った担架へ乗せられた。
ミナは別の冒険者に背負ってもらった。
槍と盾はラグが荷物としてまとめ、回収した包丁も鞘へ収めてくれていた。
足は、まだ重い。
歩けると言いかけて、ミナはやめた。
「お願いします」
背負ってくれた人へ、そう伝えた。
林の入口で、子供の名を呼ぶ声がした。
緑の上着を見つけた女の人が、走ってくる。
ラグが、ミナの隣へ来た。
キリルも一緒だった。
右も左も、確かめなくても知っている人が歩いている。
ミナは、握っていた指を少し開いた。
帰ってきた。
そう思ったら、目の奥が熱くなった。
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