第59話 あの子をお願いします
翌朝、ミナは作業小屋の棚から、試料を一つずつ下ろした。
表面の水気は引いていた。
けれど、重なったところには湿りが残っている。
採ったときにつけた小さな傷も、昨日よりわかりやすくなっていた。
ミナは傷の位置を図へ写し、置く間隔を少し広げた。
まだ、帰りの袋へ収めることはできない。
「今日も、ここに置いとくのか」
入口から、キリルが顔を出した。
「はい。夕方に、もう一度見ます」
「じゃあ、その間、昨日の続きをやる?」
彼が自分の目元を指した。
ミナは、台へ置いた帳面に目を落とした。
角兎の記録の端に、ラグが足を出す前の動きを書いてある。
「少しだけ、お願いします」
*
ギルドで借りた練習場所には、土へ引かれた線があった。
ミナは線の外へ立ち、ラグの足を見た。
彼が右へ動く。
体重が移るところを見て、ミナも一歩下がった。
「では、もう一度」
今度も、靴の内側へ重さが寄った。
ミナは同じ方へ足を出した。
けれど、ラグは途中で踏みとどまり、反対側へ動いた。
「……あ」
追い直そうとして、足が揃った。
ラグは止まり、少し離れたところへ戻った。
「動き始めた後でも、変えられます。私が行こうとした場所と、実際に行った場所は、同じでしたか」
「違いました。途中から、足を見ていませんでした」
見えたところから、その先まで決めてしまった。
ミナは一度、目へ通す魔力を弱めた。
「ずっと同じ強さで見なくてもよくない?」
キリルが、線の端へしゃがんだ。
「強く見たいとこだけ増やして、あとは戻すとか。火も、ずっと大きくしとく必要ないし」
ミナは、もう一度試した。
待っている間は弱く、足が動くところで少しだけ増やす。
加減を変える方へ気を取られ、今度は下がるのが遅れた。
「難しいです」
「一度に、全部は変えなくて結構です」
ラグの声にうなずき、ミナは呼吸を整えた。
最後に、穂先へ覆いをつけた槍で、踏み込みと引き戻しを確かめる。
足腰と腕へ薄く通した魔力を、止まるときに抜いた。
補助帯は、使わなかった。
ラグに姿勢を見てもらう前に、紐が緩んでいないかだけ確かめてある。
「今日は、ここまでにしましょう」
ミナは槍を下ろした。
目の奥が重くなる前に、練習を終えられた。
*
ギルドの入口で、人の声が重なっていた。
「川の方も見たんです。でも、いつものところにはいなくて」
職員の前に、作業着の女の人が立っていた。
何度も指を握り直しながら話している。
横にいた子供が、林の方へ行ったのを見た、と小さく言った。
昼までに戻るはずの子供が、一人、帰ってこない。
家族と近所の人で捜したが見つからず、ギルドへ知らせに来たのだという。
職員が名前と服装を聞き取り、近くにいた冒険者へ声をかけた。
依頼板を見ていた二人が、荷物をまとめる。
窓口で納品を終えた女の冒険者も、地図の前へ来た。
「川沿いは、私たちが見ます」
「街道の脇は俺が。小屋にも声をかけてくる」
ラグが一歩進んだ。
「私も、加わります。まだ人の向かっていないところは?」
職員は、町外れの林を指した。
入口付近には古い切り株があり、子供たちが遊ぶこともあるという。
「そこなら、俺も知ってる」
キリルが言った。
職員は彼に分かれ道を確認してから、ラグへ説明を続けた。
ミナは聞き取った名前を、頭の中で繰り返した。
リオ。薄い緑の上着。
小さな布袋を持っていた。
*
町外れの荷置き場に、捜索の連絡を集める場所が作られた。
家族が子供の名を呼び、近くの家へ聞きに行く。
ギルドから来た職員は、誰がどちらへ向かったか、紙へ書いていた。
ラグは林の入口を確かめ、二人へ向き直った。
「お二人は、こちらで待っていてください。捜す場所を変える場合も、ここへ連絡を入れます」
「俺、道わかるけど」
「入口付近の道は聞いた。人数が必要なら呼ぶ。今は、別々に動かないことだ」
ラグは職員にも声をかけた。
知らせがあれば、先ほど説明された小道へ頼む、と伝える。
ミナは、槍を持つ手を握り直した。
「気をつけてください」
「ええ。ここで、お待ちください」
ラグの背中が、木々の間へ入っていった。
腰に下げた長剣が、一度だけ光った。
*
古い切り株の周りには、誰もいなかった。
ラグは足を止め、草の倒れた場所を確かめた。
道の端から、小さな足跡が外れている。
少し先の枝に、布袋が引っ掛かっていた。
呼びかけると、奥で何かが動いた。
返事はない。
けれど、短く息を詰めるような声がした。
ラグは剣へ右手を掛けた。
道を外れ、低い枝の向こうへ進む。
木の根が露出した窪みに、子供がいた。
片足を抱え、背中を土の壁へ押しつけている。
その前に、灰褐色の背中が二つあった。
*
川岸では、二人の冒険者が葦の間を覗いていた。
「リオ! いたら、返事をしてくれ!」
少し先で、別の一人が橋の下へ回る。
聞こえたのは水の音と、草を分ける音だけだった。
*
ミナは、林の入口を見ていた。
隣のキリルが、何度も立つ位置を変える。
連絡係の職員へ駆け寄った男が、家には戻っていない、と伝えた。
そのとき、奥から叫び声がした。
子供の声だった。
続いて、獣の唸りが低く響く。
硬いものがぶつかる音がして、鳥が一斉に飛び立った。
「あっち……ラグさんが行った方だ」
キリルが入口へ向いた。
ミナも、そちらを見たまま動けなかった。
「ラグさんだけで、大丈夫なのかよ」
声が聞こえた。
まだ、続いている。
待つように言われた。
ラグが、自分たちよりずっと強いことも知っていた。
それでも、子供と一緒では、どうやって戻ってくるのだろう。
「追いかけようぜ。あの道なら、俺がわかる」
ミナは職員へ振り返った。
「林の方で、叫び声がしました!」
「わかりました。今、ほかの組へ――」
職員が、そばの男へ伝言を頼んだ。
その間に、キリルが小道へ足を踏み入れる。
ミナは袋を荷置き場へ下ろし、水晶の公開配信を始めた。
位置の共有と記録は、朝から動いている。
「ローデンの町外れです。子供が戻らなくて、ラグさんが林へ捜しに入りました。今、奥から叫び声が聞こえています」
取り付けを確かめる指が、一度滑った。
ミナは留め直し、槍を持って走り出した。
「君たちは、待って!」
背中へ声が届いた。
足を止めるより先に、前を行くキリルの外套が枝の向こうへ消えた。
*
小道は、すぐに細くなった。
槍を縦に持ち、枝を避ける。
左腕の盾が幹へ当たった。
走り続けると、息が喉の奥へ引っ掛かった。
「こっち。下へ道が折れる」
キリルが振り返った。
普段より声が高い。
また、金属の音がした。
今度は近かった。
ミナは斜面へ足を置き、滑らないよう歩幅を狭めた。
水晶の端で、文字が動いた。
〈灰ねこ:こなべさん、いったん止まって。今どこにいる?〉
視線を向ける余裕はなかった。
枝の下をくぐった先で、ラグの姿が見えた。
右手の剣を低く構え、子供の前に立っている。
灰褐色の魔物が、一頭、正面へ跳んだ。
ラグの刃が向く。
その瞬間、もう一頭が横へ回った。
ラグは踏み込むのをやめ、子供の前へ戻った。
手元の厚い刀身へ、牙が当たる。
重い音がした。
「鉤牙狼だ……」
キリルの声が小さくなった。
額から鼻先までが長く、顎の牙が外へ反っている。
角兎よりも、ずっと大きい。
一頭の脇腹には傷があり、毛が濡れていた。
それでも離れず、もう一頭が動くたびに位置を変えた。
ラグの踵が、子供の足へ近づいた。
これ以上、下がるところがなかった。
ミナは槍の穂先の覆いを外した。
留め紐をほどく指が、うまく動かなかった。
*
「ラグさん!」
キリルが叫んだ。
ラグが一瞬だけ目を向ける。
「来るな! 道へ戻れ!」
その声で、傷のない一頭がこちらを見た。
キリルは子供へ向かって、もう一歩出ていた。
灰色の体が低くなる。
「下がって!」
ミナが叫んだときには、キリルは足を引こうとしていた。
踵が根へ引っ掛かる。
尻餅をつき、石へついた手が滑った。
開いた顎が、すぐ前へ迫る。
ラグの剣が横から入った。
狼が身をひねり、牙がキリルの外套をかすめた。
布の端が裂けた。
キリルは息を呑んだまま、動かなかった。
ついた掌から、細い血がにじんでいた。
「立て!」
ラグは、それ以上こちらへ来られなかった。
傷を負った一頭が、子供の方へ回っている。
剣を戻し、二頭の間へ立ち直る。
ミナは、子供を見た。
立とうとしているのに、片足へ重さをかけると崩れてしまう。
ラグが動けば、あの子が残る。
キリルを助けるために出た一歩で、もう一頭が入ろうとした。
右には、根の張った土の壁。
左には、大きな岩と、その脇を通る細い隙間がある。
そこへ子供を移せれば、横から来る一頭を気にせずに済む。
「キリルさん、あの子をお願いします!」
キリルが顔を上げた。
「ラグさんの後ろから、左の岩へ。子供を移したら、そこからラグさんを助けてください!」
「お前は――」
ミナは、傷のない狼へ槍を向けた。
「こっちを、離します」
声が、思っていたより細かった。
狼が、またキリルへ顔を向ける。
ミナはその横へ出て、鼻先へ穂先を突き出した。
触れる前に、相手が退く。
ミナも槍を戻し、二人から離れる方へ一歩下がった。
狼の耳が、こちらを向いた。
「キリル、今だ! 後ろを通れ!」
ラグの声が響いた。
キリルが立ち上がり、剣の後ろへ回る。
ミナは、見届け続けることができなかった。
狼が一歩、こちらへ出た。
足腰へ魔力を通す。
土の感触が、靴の底から伝わった。
まだ、補助帯は動かしていない。
使うための留め具が、腰にある。
左後ろには、二本の木の間が開いていた。
その先に、少しだけ平らな地面が見える。
もう一歩。
狼が、ついてくる。
水晶に、短い文字が浮かんだ。
〈灰ねこ:こなべさん、正面で止まらないで〉
ミナは読めなかった。
目の前の肩が沈み、爪が土を掻いた。
後ろで、子供の泣く声が移動していた。
キリルが「つかまれ」と言うのが聞こえる。
槍を握る指が、汗で滑った。
ミナは握り直し、息を吸った。
胸の奥まで、入らなかった。
灰褐色の目は、もうラグを見ていない。
ミナは穂先を下げず、次の一歩を踏んだ。
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