第5話 包丁を置く場所
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「私が、前にいたお店の」
言ってから、ミナは包丁を持ち上げた。
鞘へ戻す前に、刃を布で拭く。
いつもの順番だった。
〈針しごと:店主さんが選んでくれたんだね〉
「はい。柄も、直してくれました。最初は、少し太かったので」
握ったところを、水晶へ向ける。
親指の下に、浅く削られたくぼみがある。何年も使って、そこだけ色が濃くなっていた。
〈針しごと:手に合わせてあるんだ〉
「私のは、全部そうです」
答えると、少し間が空いた。
〈針しごと:そのお店、今もある?〉
ミナは鞘の口へ目を落とした。
「……もう、閉まりました」
遠くで、鳥が鳴いた。
休憩所の向こうを、採集袋を提げた二人が通っていく。
ミナは包丁をしまい、パンの包みを結んだ。
〈針しごと:そう。教えてくれてありがとう〉
それ以上の質問は来なかった。
ミナは文字板を見て、息をついた。
話したくないわけではなかった。ただ、どこから話せばいいのか、すぐには分からない。
「そろそろ、帰ります。手袋の糸は、夕方に見せますね」
〈針しごと:うん。道を見て帰っておいで〉
配信を切り、位置共有の灯りを確かめる。
荷物を背負って、標識のある道へ戻った。
袋の中で、包丁がいつもの場所へ収まる。
その重さを、ミナは昔から知っていた。
*
食堂で最初に任されたのは、包丁を使う仕事ではなかった。
卓を拭くこと。
匙をそろえること。
洗った器の裏まで、布で乾かすこと。
まだ調理台に手が届きにくいころ、ミナは踏み台に乗って、その仕事をしていた。
「裏もか」
店主に言われ、器を持ち直す。
縁のところから、水が一滴落ちた。
「……まだでした」
「濡れたまま重ねると、下のも濡れる」
声は低く、言葉は短かった。
怒られているのかと思って顔を見ると、店主は次の器を洗っていた。
布を替え、もう一度拭く。
乾いた器を見せると、小さくうなずいてくれた。
食堂の二階には、ミナの寝る部屋があった。
窓から見えるのは、町の通りと、向かいの屋根。夕方には厨房の匂いが階段を上ってきた。
ここへ来る前は、姉と二人で暮らしていた。
故郷を魔物に襲われた日のことは、覚えている場面と、よく思い出せない場面があった。
両親とは、あの日から会えなくなった。
姉の手を握って歩いたことと、夜、分けてもらった食事が熱かったことは覚えている。
姉が討伐隊の仕事で遠くへ行くとき、この店へ連れてきてくれた。
「この人の言うことを聞いて」
姉は、いつもと同じ声で言った。
ミナの荷物を下ろしてから、店主へ向き直る。
「お願いします」
店主は一度だけ、うなずいた。
その夜、ミナの器には、食べきれそうな分の煮込みが入っていた。
店主は、足りなければ言え、とだけ言った。
ミナは最後まで食べた。
もう少し欲しかったが、頼んでいいのか迷っていると、空いた器を見た店主が鍋の蓋を開けた。
「少しか」
「……はい」
それからは、足りないときに、少し、と言えるようになった。
*
姉からは、手紙が届いた。
無事でいること。
次の仕事で、また別の場所へ行くこと。
寒くなるから、窓をきちんと閉めるように。
ミナも返事を書いた。
器を割らずに運べたこと。香草の名前を覚えたこと。店主が、味見をさせてくれたこと。
最初のころは、最後に、いつ帰るの、と書いていた。
会えると書かれた日が延びると、次の手紙には、仕事が長くなったことが書かれていた。
姉が帰れないのは、自分がまだ知らない、大事な仕事があるからだった。
いつからか、ミナはその一行を書かなくなった。
代わりに、おいしくできた料理のことを書いた。
帰ってきたら作れるものが、増えていった。
店主は、手紙を持っていくついでに、届いたものを受け取ってきた。
金の入った包みを帳面の横へ置き、ミナには封筒を渡す。
「来たぞ」
その日だけは、二階へ上がる足が少し速くなった。
*
包丁を初めて持った日は、台所の角に椅子を置いた。
店主が向かいに座り、丸い芋を半分にする。
切った面を下にすると、芋は転がらなくなった。
「先に、置ける形にする」
ミナも、半分になった芋を置いた。
刃より先に、指の場所を直された。
一切れ、切る。
厚かった。
もう一切れは、少し薄くなった。
「薄い方が、いいですか?」
「料理による」
店主は二つを並べた。
「同じ鍋に入れるなら、そろえる」
ミナは、残りの芋を見た。
今日の鍋に入るものだから、今日のうちにそろえたかった。
その日から、少しずつ切るものが増えた。
香草、茸、魚。
魚は仕入れた種類によって、骨の位置も皮の硬さも違った。
刃を押しても進まないとき、店主はミナの手を止めた。
「力を足す前に、どこへ入れてるか見ろ」
骨のすぐ脇。
膜がつながっているところ。
刃の角度を変えると、さっきまで引っかかっていたものが離れた。
簡単にできたように見えて、次の魚では、また止まる。
同じところへ入れたつもりでも、少し違っていた。
何度も教わった。
何度も、使った道具を洗った。
研ぐときは、店主が隣にいた。
刻まれた印の近くは、いつも、あとで店主が確かめていた。
「ここは、削らない」
「名前が書いてあるんですか?」
「名前じゃない」
「じゃあ、何ですか?」
「包丁の仕事だ」
ミナには、少し難しかった。
それでも、触ってはいけないところは覚えた。
ある日、店主が小さな包丁を差し出した。
いつものより、柄が細い。
「握れ」
受け取ると、指が前より自然に回った。
重さも、刃の方へ引かれる感じが少ない。
「こちらを、使っていいんですか?」
「お前のだ」
ミナは、柄を見た。
親指が当たるところに、浅いくぼみがあった。
「私の?」
「置く場所を決めておけ。ほかのと混ぜるな」
ミナは棚の一段を拭いた。
布を敷き、洗って乾かした包丁を置く。
寝る前にも、そこにあるのを確かめに来た。
次の朝、店主は何も言わず、その棚の前を空けてくれていた。
*
店主が厨房に立たない日は、少しずつ増えた。
椅子に座って仕込みを見る日があり、二階から下りてこない日があった。
ミナが煮込みを持っていくと、匙を取るまでに時間がかかった。
「塩、どうですか?」
「ちょうどいい」
そう言われると、次の日も同じように作った。
けれど、残る量は増えた。
医者が来るようになり、食堂は休みの日が多くなった。
戸口の札を裏返しても、常連の客は、店主の具合を聞きに来た。
店主が亡くなったあとも、しばらくは、朝、厨房へ下りてしまった。
火を入れる前に、何人分か考える。
それから、客を迎える予定がないことを思い出す。
食堂を続けるには、料理を作れるだけでは足りなかった。
仕入れ先への支払いも、建物の契約も、店主の名前で決まっていた。
十三歳のミナが、そのまま引き継げるものではなかった。
町のギルドの職員が、帳面を確かめ、片付けを手伝ってくれた。
店主がミナのために残していた金と、道具は、ちゃんと分けてもらえた。
包丁をまとめた布は、思ったより重かった。
鍋も、持っていく方へ置いた。
大きな食器棚は、置いていく。
店の卓も、厨房の調理台も。
ミナは、自分の包丁を置いていた棚を、最後にもう一度拭いた。
*
町には、すぐに住み込みで働ける店がなかった。
皿洗いを頼まれた日はあった。
仕込みを手伝うと、助かったよ、と言ってもらえた。
でも、その日ごとの手伝いでは、次の週に寝る場所まで決められなかった。
ギルドの職員が、ダンジョンのある街を紹介してくれた。
採集者向けの下宿と、見習いの講習があるという。
「食堂の仕事も探せる。まず、暮らす場所を決めよう」
ミナは紹介状を受け取った。
姉へ出す手紙には、店が閉まったことと、次の住所を書いた。
届く場所へ回してもらえるよう頼み、返事が来たら知らせてほしいと、町のギルドにも新しい下宿の名前を残した。
乗合馬車へ乗るとき、道具の包みは膝に置いた。
荷台に積んでいいと言われたが、これは持っていたかった。
街へ着いてからも、料理の仕事は探した。
人手を募集している店にも、尋ねてみた。
経験のある大人を探しているところ。
夜遅くまで働ける人が必要なところ。
通いの手伝いなら頼めても、毎日の仕事にはならないところ。
返事はいろいろだった。
そのたびに、料理ができなくなったわけではない、と自分に言った。
店主の残した金は、最初の下宿代と、講習や道具の支度に使った。
使った分は、帳面から減っていく。
採集の講習では、知っている茸もあった。
食堂で使っていた香草もあった。
ただし、食べられる名前を知っているだけでは、採っていい場所も、帰る道も分からなかった。
そこからは、初めて覚えることだった。
最初の買い取りで受け取った硬貨は、少なかった。
でも、それは、昨日まで持っていなかったお金だった。
その日の夕飯には、買い取ってもらう分と別にしておいた茸を入れた。
下宿の共同台所で、店主にもらった鍋を使った。
自分で暮らす、というのは、もっと大きなことだと思っていた。
その日は、まず、明日食べるものがあった。
*
リゼは作業台へ紙を広げた。
配信の記録を止め、包丁の付け根を拡大する。
読める線だけを書き写した。
刃へ働きを送る部分。
使い手から魔力を受け取る部分。
ここまでは分かる。
その先で、筆が止まった。
本来なら、流れを整えるための印が入る。
だが、映っている面にはない。
代わりに、ごく短い線が、隣の線へ接していた。
省略しただけなら、魔力が逃げる。
別の面へつないでいるなら、そのつなぎ方を確かめたい。
リゼは手元の術式帳を開いた。
近い形を二つ探し、紙の横へ並べる。
どちらも、途中から違った。
「ここまでは、合ってるのに」
顔を近づける。
細い線の重なりを、もう一度見る。
製作と改良を重ね、国王から匠冠を授けられてからも、知らない技術に出会うことはあった。
分からないものを、分かったことにして扱わない。その習慣も、仕事のうちだった。
けれど、今見ているのは、見習いの少女が昼食に使った、小さな包丁だ。
気になるのは、ただ見慣れないことではない。
読み取れる範囲の線が、どれも、置かれるべきところに置かれている。
不要に見える一画だけが、その確かさから外れていた。
間違いだと消すには、周りが整いすぎている。
「これで動いているなら……何を、まとめたの?」
返事のない紙へ、問いかけた。
包丁を使っていた手は、慣れていた。
柄も、少女の手に合わせて削ってある。
少なくとも、使う人を見ずに作られたものではない。
リゼは写した線の横へ、小さく疑問符を付けた。
推測で足した部分は、消す。
次に見せてもらうとき、確かめたいことが増えていた。
*
下宿へ戻ると、管理人が廊下を掃いていた。
「お帰り。今日は早かったね」
「ただいま戻りました」
ミナは買い取りでもらった硬貨を、財布の奥へ分けた。
靴を脱ぎ、先に水を飲む。
採れた量は少なめだったが、脚にはまだ、階段を上る力が残っていた。
部屋の扉を開ける。
小さな机。寝台。道具を置く棚。
食堂の二階とは、窓から見える屋根も違う。
棚の高さも、少し違った。
包丁を取り出して、布をほどく。
使った一本を洗って乾かしてから、ほかのものと並べた。
ここでも、置く場所は決めてある。
ミナは、机の引き出しから針と糸を出した。
手袋も、その隣へ置く。
夕方になったら、直し方を教えてもらおう。
明日も使うものだから、今日のうちに。
カクヨムでも連載中です。
領内地図・人物紹介などの補足も掲載しています。




