第4話 まだ使えるところ
昨日焼いたパンは、朝になってもいい匂いがした。
ミナは包みを開き、残しておいた二枚を確かめた。真ん中を濃く焼いてしまった一枚は、昨日のうちに食べている。今日は、端まできれいに焼けた方を持っていけた。
水筒、地図、登録札。採集袋と、薬草を束ねる紐。
棚の上のテントには、手を伸ばさなかった。
今日は、入口から近い採集路を歩いて帰る。
泊まる支度がないだけで、背負い袋にはずいぶん余裕ができた。
その空いたところを見て、もう一枚、袋を入れようかと思った。
少し考え、やめる。
帰りには、ここへ採ったものが入る。
「……これで」
手帳に書いた持ち物を、指で順にたどった。
昼食の包みを一番上へ置き、最後に、鞘へ収めた小さな包丁を入れる。
下宿の管理人は、玄関の鉢へ水をやっていた。
「今日は泊まるのかい?」
「日帰りです。夕方までに戻ります」
「昨日、脚が重いって言ってただろう。まだつらくない?」
ミナは、その場で踵を上げてみた。
昨日みたいな張りはなかった。
「大丈夫です。近いところにします」
「じゃあ、行っといで。帰ったら声をかけな」
うなずいて、扉を出た。
*
リゼの作業台には、外した金具が三つ並んでいた。
曲がったもの。まだ使えるもの。持ち主へ交換を勧めるもの。
最後の一つを小箱へ入れ、預かった外套の留め具を直す。
昼の鐘が鳴るまでに、ここまでは終わらせたかった。
糸を切り、縫い目を裏から確かめてから、ようやく椅子の背へ寄りかかる。
作業台の端に置いた閲覧水晶には、今朝、グレンから教わった配信の名前が残っていた。
こなべ。
茸を先に炒める、あのパンの作り方。
続きの記録も少し見たが、粉を量る手つきは落ち着いていた。グレンが真似をしてみたくなったのも、分からなくはない。
その前の日は、料理だけではなかった。
茸を採り、薬草を束ね、帰るために荷物を持ち直している。
リゼが記録を止めたのは、その場面だった。
籠を握った手の、親指の付け根。
手袋の縫い目が、少し開いていた。
穴はまだ小さい。
けれど、同じところへ繰り返し力がかかれば、糸だけでは済まなくなる。
「そこ、今なら縫えるのに」
思わず言ってから、水晶を閉じかけた。
表示の端に、小さな光がともる。
新しい配信が始まっていた。
*
午前中に採った薬草は、袋の半分ほどだった。
ミナは標識のある道へ戻り、紐を結び直した。
同じ葉でも、土に近いところには泥が付いている。きれいなものと分けておくと、帰ってから確かめやすかった。
もう少し先へ行けば、昨日覚えた種類もあるかもしれない。
地図を開き、道の曲がり方を見る。
ただ、今日はそこまで行く予定ではなかった。
背負い袋を持ち上げる。
まだ軽い。
軽いまま帰る日があってもいい、と考えるのには、少し時間がかかった。
ミナは地図を畳んだ。
昼食は、入口へ戻る途中の休憩所で取ることにした。
標識の脇に、低い石の腰掛けがある。採集路から足を踏み出さずに座れる場所で、入口の係員からも教わっていた。
水を飲んで、手を休める。
足元に虫が一匹いたので、先にそちらへ場所を譲った。
虫が草の方へ行ってから、包みを出す。
水晶を置く場所を確かめた。
短い脚の下に布を挟むと、今度はパンまで映った。
題名は「お昼を食べて、帰ります」。
「こんにちは。今日は、ここまでにしました」
袋に入れた薬草を、少しだけ見せる。
「まだ持てそうなんですけど、帰ってから、道具の手入れもしたいので」
数字はゼロだった。
ミナは手袋を外し、指を伸ばした。
手を洗うための水を、小さな容器へ注ぐ。
文字板が光ったのは、そのときだった。
〈針しごと:こんにちは。その手袋、親指の付け根を見せてもらえる?〉
ミナは自分の手を見た。
それから、石の上に置いた手袋を見る。
「こんにちは。……何か付いてますか?」
〈針しごと:付いてる方じゃなくて、ほどけてる方〉
手袋を持ち上げる。
親指を広げると、縫い目の間から向こうが見えた。
「あ」
細い糸が、一本出ていた。
ミナはその先をつまむ。
〈針しごと:引っ張らなくていいよ〉
指を止めた。
〈針しごと:そこから、隣の縫い目まで緩むことがあるから〉
「……結んでおこうかと思いました」
〈針しごと:結ぶ分の長さがあるか、先に見たい。裏返せる?〉
ミナは手袋を裏返した。
縫い目を水晶へ向け、少し待つ。
〈針しごと:ありがとう。見えた。帰ったら、その辺りを縫い直そう〉
「買い替えなくても、大丈夫ですか?」
返事は、すぐには来なかった。
ミナはもう片方も裏返し、同じところを見比べる。
〈針しごと:映ってるところなら、革はまだ使えそう。まず糸を直して、ほかも確かめよう〉
その文章を二度読んだ。
新しい手袋を買えば、しばらく安心して使える。
でも、そのお金を分けると、次の下宿代に残せる分が減る。
昨日のうちに直せたなら、昨日直したかった。
「針は、下宿にあります」
〈針しごと:糸も?〉
「服を直すのは、あります」
〈針しごと:手袋に合うか見たいから、帰ったら教えて〉
「はい」
答えてから、少し困った。
知らない人に、帰ったあとまでお願いしていいのだろうか。
「あの、お時間、大丈夫ですか?」
〈針しごと:夕方なら少し見られる。私も、今は昼休み〉
ミナは文字板へ、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます。無理のないときに、お願いします」
*
リゼは冷めかけた茶を飲んだ。
糸と針を持っているなら、手入れをしたことはあるのだろう。
ただ、服を繕うのと、荷物を握る手袋を繕うのでは、使い方が違う。
新しいものを買って終わりにするのは簡単だった。
まだ使える革まで捨てる理由は、画面からは見つからない。
配信の中で、少女が手袋を袋へしまった。
今日は追加の採集をせず、帰るだけだという。帰り道でほつれを引っかけないよう伝えると、うなずいて、背負い袋の持ち方を確かめた。
それから、昼食の包みを開く。
「あら」
リゼは、少し笑った。
今朝、グレンの机にあったものより、形がそろっている。
*
〈針しごと:昨日のパンだね〉
「見てくださったんですか?」
〈針しごと:記録で。知り合いに教わって〉
ミナの手が、包みの上で止まった。
昨日はコメントがなかった。
最後には、誰も見ていなかった。
それでも、あとから見た人がいる。
「……ちゃんと、焼けていましたか?」
聞いてから、おかしな質問だと思った。
焼けたかどうかは、自分が一番よく知っている。
〈針しごと:二枚目から、きれいだった〉
「一枚目も、食べました」
〈針しごと:うん。見た〉
ミナは少し頬を温めた。手を洗って布で拭き、パンを一枚取り出す。
端をちぎって食べる。
冷めても茸の味はした。香草は、温かいときより静かな匂いになっている。
管理人は昨日、お茶と一緒に食べてもよさそうだと言っていた。
ミナは水筒の蓋を開けた。
今日は水だったが、これでも十分おいしかった。
〈針しごと:採集には、よく行くの?〉
「はい。行ける日は、なるべく」
飲み込んでから、答える。
「採ってきたものは、窓口で買い取ってもらえるので」
薬草の入った袋を見た。
今日の分が、帰ったら硬貨になる。
下宿代と、食べるものと、水晶の魔石。そのために、朝、ここへ来た。
「正式な資格が取れたら、納品の依頼も受けられるそうです。今は、持って帰った分だけですけど」
〈針しごと:なるほど〉
「食べる分も、少し採れます」
足元の小袋には、今日見つけた茸が入っていた。
夕飯に使うには足りる。
多く採れなかった日でも、それがあると、買うものをひとつ減らせた。
針しごとは、それ以上、事情を聞かなかった。
〈針しごと:なら、手袋も長く使える方がいいね〉
「はい」
ミナは、今度は迷わずうなずいた。
半分ほど食べたところで、残りを包みへ戻す。
もう一枚は、帰ってから食べようと思った。
端をちぎると崩れそうだったので、袋から包丁を出した。
鞘を外し、小さなまな板へパンを置く。
採集に使った道具とは別にしてある。布で確かめた刃は、昨日しまったときと同じように乾いていた。
刃を入れると、薄いパンが二つに分かれた。
切り口から落ちた茸の粒を指で拾い、それも口へ入れる。
文字板に、新しい言葉が届いた。
〈針しごと:今の包丁、もう少し見せてもらえる?〉
ミナは刃を止めた。
「こちらも、ほどけていますか?」
〈針しごと:包丁は、ほどけないかな〉
「……そうですね」
持ち手を見直す。
革の巻き方は緩んでいなかった。
欠けもない。刃の背を水晶へ向けようとして、手を止める。
「どこを見せればいいですか?」
〈針しごと:まな板に置いたままでいい。柄と、刃の付け根が見たい〉
言われた向きに置く。
小さな印が並んだところへ、木々の間から光が落ちた。
返事が来ない。
ミナは水晶の角度を、少し変えた。
今度は印まで映っている。
*
リゼはカップを置いた。
最初に目を留めたのは、刃の薄さだった。
次に、柄の近くへ刻まれた印。
使い込まれた、料理用の包丁。
見た目だけなら、それ以上のものではない。
だが、術式の線の収め方が妙だった。
装飾なら省けるところに線があり、付与具でよく見る補助の印が、一つ足りない。
その代わり、細い線が刃の方へ抜けていた。
不備か。
それとも、別の形で働きをまとめているのか。
この映像だけで決めることはできなかった。
けれど、見過ごして、パンの話へ戻る気にもなれない。
リゼは文字板へ指を置いた。
*
〈針しごと:それ、どこで手に入れたの?〉
ミナは、まな板の上の包丁を見た。
ずっと前から、そこにある道具だった。
柄を握るときに指が当たる場所も、洗って布を通す順番も、考えなくても分かる。
誰にもらったかを聞かれることは、あまりなかった。
「食堂の店主さんが、くれました」
答えたあと、柄へ手を伸ばす。
いつもなら、そのまま鞘に収めるところだった。
今日は少しだけ、刻まれた印を眺めた。
「私が、前にいたお店の」
カクヨムでも連載中です。
領内地図・人物紹介などの補足も掲載しています。




