第3話 明日の分も焼きます
テントの布は、昼過ぎには乾いていた。
ミナは庭の物干しから取り込み、縫い目に沿って畳んだ。途中で角が一つ余り、広げ直す。二度目で、どうにか袋へ収まった。
昨日までの疲れは、まだ少し脚に残っている。
今日はダンジョンへ行かず、道具の手入れと、次に持っていく食事の支度をすることにした。
下宿の共同台所には、誰もいなかった。
窓を開けると、通りから荷車の音が入ってくる。夕飯を作る人が来る前なら、端の調理台をしばらく使えそうだった。
管理人に声をかけ、ほかの人が映らない向きに配信水晶を置く。
短い脚の下へ、いつもの布を挟んだ。
題名は「茸と香草の薄焼きパンを作ります」。
配信を始めて、確認画面を見る。
顔は少ししか映っていないけれど、手元は見えた。今日はその方がよさそうだった。
「薄焼きパンを作ります。明日、持っていく分です」
最初の説明をしてから、粉の袋を開ける。
文字板の隅は、視聴者、ゼロ。
ミナは小さな匙で粉を量り、木の鉢へ入れた。
塩をひとつまみ。水は、少しずつ。
手を洗い直して戻ってきたとき、数字が一になっていた。
「こんにちは」
文字は届かなかった。
ミナは鉢へ目を戻し、指先で粉と水を混ぜた。
昨日は、灰ねこが煮込みを作っていた。
芋を薄く切り直したあと、火にかけるところまでは聞いている。ちょうど別の住人が台所を使う時間になったので、ミナも茸と卵を炒める支度へ戻り、配信を終えた。
うまく煮えただろうか。
文字板を見る。
数字は、またゼロになっていた。
こねかけの生地が指に付いている。ミナは鉢の縁でそれを落とし、残っていた粉を寄せた。
水を入れすぎると、あとから粉を足すことになる。
粉が増えれば、予定よりたくさん焼かなければいけない。
匙で一杯足す。
押すとまとまり、持ち上げても崩れなくなった。
「このくらいです」
鉢を傾けて、水晶に見せる。
誰かがあとから記録を見るなら、固さが分かった方が作りやすい。
生地に布をかけて休ませ、その間に茸を刻んだ。
昨日持ち帰って、食べる分に分けておいたものだ。軸も薄く切る。香草は茎の硬いところを除き、葉だけを細かくした。
視聴者が一になった。
今度は、手を動かしたまま小さく挨拶する。
やはりコメントはない。
包丁を置いたときには、ゼロへ戻っていた。
ミナは小鍋で茸を炒めた。
音が変わり、水気がなくなってきたところで火から下ろす。少し冷ましてから、香草と一緒に生地へ混ぜ込んだ。
「茸は、先に焼いておきます。生のままだと、水が出るので」
説明して、また静かに作業へ戻る。
通りの荷車が石畳の継ぎ目を越えた音と、窓辺の布が揺れる音がした。
生地を四つに分ける。
指で押し広げると、茸の細かな粒が表面へ出た。
厚いところをもう一度押し、端を整える。
普段は、街のパン屋で買う方が楽だ。
でも今日は、手元の粉と茸を使える。夕飯の主食と、明日の昼に食べる分を一緒に作ってしまえば、買い物へ行かずに済む。
借りた平鍋を温め、油を薄く広げた。
最初の一枚を置く。
焼けるのを待つ間、配信水晶を少し動かした。
鉢とまな板はよく見えるが、鍋の中は縁に隠れてしまっている。
台座の下に敷く布を厚くすると、今度は傾いた。
「……こちらなら」
置き場所を変える。
確認画面に鍋が入ったところで、焼けた匂いが強くなった。
ミナは木べらを差し込んで、裏返す。
真ん中に、少し濃い焼き色が付いていた。
しばらく見てから、火を弱めた。
「一枚目は、今日食べます」
薄焼きパンを皿へ移す。
次の一枚は、少し早く裏返した。今度は端まで、きれいなきつね色になった。
その次も、同じくらいで返す。
焼くたびに、共同台所へ香草の匂いが広がった。
最後の一枚を皿へ置いたとき、視聴者はゼロだった。
コメント欄も、何もないまま。
ミナは布で手を拭いてから、四枚のパンを見せた。
「焼けました。持っていく分は、冷めてから包みます」
少し待った。
数字は変わらなかった。
「今日は、ここまでにします」
終了のボタンを押す。
配信中の光が消えたことを確かめ、台座を畳んだ。
灰ねこは来なかった。
昨日の煮込みのことは、次に会えたときに聞こう。
「いい匂いだね」
扉のところに、管理人が立っていた。
「終わったのかい?」
「はい。台所、ありがとうございました。すぐ片付けます」
「夕飯にはまだ早いよ。落ち着いてやりな」
ミナは皿を見た。
一枚目の真ん中は、やっぱり少し濃い。
そこを小さくちぎって、食べてみる。
端は香ばしく、茸の味もした。真ん中だけ、ほんの少し苦い。
「……次は、水晶を先に置きます」
「何だい?」
「火にかける前に、見えるところに置けばよかったです」
管理人は鍋を見て、皿を見て、うなずいた。
「覚えたなら、次はそうしな」
ミナは、一番きれいに焼けたパンを一枚差し出した。
「味、どうですか?」
*
グレンが街へ戻ったころには、店先の灯りがともっていた。
今日の仕事は、昨日相談を受けた遠征路の現地確認だった。
橋の幅、荷車を止められる場所、谷へ下りる道の状態。地図だけでは分からないところを歩き、担当者と話していたら、一日が終わった。
帰宅して、外套を椅子へ掛ける。
靴の泥を落とし、水を飲んでから閲覧水晶を開いた。
新しい配信の記録が、一つ増えている。
「茸と香草の薄焼きパンを作ります」
題名を読み、昨日買った乾燥茸の袋へ目を向けた。
まだ半分以上残っている。
昨夜の煮込みは、うまかった。
鍋底を少し焦がしたし、芋の厚さもそろわなかったが、温かい汁と焼いた茸の組み合わせは、パンと干し肉だけの夕飯とは違った。
最後の汁までパンで拭って食べたのは、久しぶりだった。
次の料理も、少し見てみよう。
記録を開く。
水晶から、鉢へ粉を入れる音がした。
「薄焼きパンを作ります。明日、持っていく分です」
映るのは主に手元だった。
少女の顔は、ときどき画面の上へ少し入る。
生地をこねている途中で「こんにちは」と声がしたが、コメントは流れていなかった。
今日、ここに自分の名前がないのは当然だ。
グレンは椅子へ腰を下ろし、続きを見た。
茸を刻む手は速い。
焼く前に生地を薄く広げるときは、端まで触って厚さを確かめている。
画面の置き場所に迷っている間に、一枚目が濃く焼けた。
グレンは思わず、鍋、と声を出しかけた。
その前に少女が振り返り、裏返して、火を弱める。
「一枚目は、今日食べます」
グレンは小さく笑った。
これは記録だ。いま助言を送っても、その一枚には間に合わない。
二枚目からは、きれいに焼けていた。
茸の粒と、緑の香草。最後に並んだ四枚を見て、空腹に気づく。
時計を見る。
今日は、まだ台所に立つ時間がある。
グレンは乾燥茸を水へ入れ、戸棚から粉の袋を出した。
*
少女の手は、ためらわずに動いていた。
グレンの手は、止まっていた。
「このくらいです」
記録の中で、鉢が傾く。
滑らかにまとまった生地が見える。
グレンは自分の鉢を見た。
乾いた粉が、まだ縁に残っている。
水を足す場面まで戻す。
匙が一杯、鉢へ入った。
同じように足し、混ぜる。
今度は少しまとまったが、指へべったり付いた。
「匙が違うな」
画面の匙は、自分が使っているものより小さかった。
グレンは粉を少量足して、もう一度混ぜた。
指から離れるようになると、ようやく布をかける。
急ぐ仕事ではない。
一度水を飲んでから、戻した茸を刻んだ。
芋を薄く切れと言われたことを思い出し、今日は、端からできるだけ細かくする。
大きさは少しばらついたが、どの粒も生地には混ざりそうだった。
茸を炒める。
油を入れる前に、鍋が十分乾いていることを確かめた。
昨夜、洗ったままの鍋へ油を入れたら、思ったより音が大きくて驚いたのだ。
水気がなくなるまで待ち、冷ます。
少女が同じ場面で何をしていたか、記録を止めて見直した。
生地へ混ぜて、四つに分ける。
ただし、鉢から取り出した量は、画面のものより多かった。
考えて、五つにした。
厚くなった分は火が通りにくい。
昨日、それは教わった。
最初の一枚を焼く。
その間に、記録は次の工程へ進んでしまう。
グレンは木べらを置き、水晶を止めた。
「こっちは、まだだ」
生地の端を持ち上げる。
色は薄い。もう少し待ってから、返した。
焼き上がりをちぎると、思っていたより噛み応えがあった。
だが、茸の味はした。
香草も、悪くない。
残りは、もう少し薄くする。
四枚目を焼くころには、水晶を触る必要がなくなっていた。
グレンは片面の色を見て、返し、火を少し弱める。
最後の一枚を皿へ載せ、椅子に座った。
部屋には、昨夜とはまた違う匂いが残っている。
暖かいうちに一枚食べる。
一枚目と比べると、端が軽く割れた。
「うん」
もう一口食べた。
残りは冷ましてから包む。
その場面だけ、記録をもう一度見た。
*
翌朝、グレンは遠征用の鞄を机へ載せた。
魔石の残量と、留め具の摩耗を確かめていると、扉が鳴る。
開けた先には、道具箱を提げたリゼが立っていた。
「おはよう。肩の留め具、見せて」
挨拶より先に、視線が鞄へ行く。
グレンは扉を開けたまま、少し横へ避けた。
「おはよう。言われたところ、少し緩んでた」
「でしょうね。あのまま使ったら、革の方まで傷むよ」
リゼは机へ道具箱を置き、鞄の肩ひもを引いた。
華やかな赤茶の上着には、細い金具がいくつも並んでいる。飾りに見えるものまで、修理に使う道具だった。
装備と魔道具の扱いで国王に認められた、匠冠。
遠征前の道具を彼女に見てもらえるのは、グレンにとってもありがたい。
金具を外したところで、リゼの目が机の端へ動いた。
「それ、食べてたの?」
開いた包みに、半分になった薄焼きパンがある。
グレンはうなずいた。
「朝飯」
「パン屋、変えた?」
「自分で焼いた」
リゼの手が止まった。
それから、パンではなくグレンを見る。
「あなたが?」
「俺が」
机に置かれた皿、乾かしてある鍋、洗った木べら。
リゼは順に見て、少し眉を上げた。
「どういう風の吹き回し?」
「昨日の煮込みがうまかったから、別のも作ってみたくなった」
「煮込みも作ったの?」
グレンはパンの包みを少し押した。
「食べるか?」
リゼは小さくちぎった。
噛んでから、もう一度断面を見る。
「茸を先に炒めてるね」
「その方がいいって」
「誰に教わったの?」
グレンは、閲覧水晶へ手を伸ばした。
「配信を見たんだ」
記録の題名を開く。
リゼが、道具を置いて隣へ寄った。
「こなべ?」
「うん」
水晶の中で、小さな手が粉を量り始めた。
カクヨムでも連載中です。
領内地図・人物紹介などの補足も掲載しています。




