第38話 採る前に見るもの
「ミナ、久しぶり。……実際に会うのは、だね」
ギルドの小部屋へ入ると、ロゼッタが顔を上げた。
後ろへ曲がった角の下で、丸い耳がこちらへ向く。
灰褐色の毛に覆われた口元は、試験のときより気楽そうだった。
ミナは、開きかけた記録帳を持ったまま止まった。
「実際に、ですか?」
「あれ、言ってなかったっけ。やまみちだよ」
横に長い瞳が、少し細くなる。
ミナはロゼッタの顔を見て、それから手元の帳面を見た。
「……魚のお話をした?」
「そうそう。あの香草、焼いたらどうだった?」
もう、料理の話になっていた。
「合いましたけど……もっと早く教えてください」
「ごめんごめん。知ってると思ってた」
ロゼッタは素直に言い、ミナが座れるよう椅子を引いた。
ラグも、入口で小さく息を漏らした。
「では、配信で私のことを話してくださったのも、あなたでしたか」
「ああ、聞いた? 昔の話だけで決めないように、とは言ったけど」
「ええ。近い間合いでは、あなたより強いかもしれない、と」
「かもしれないじゃなくて、今度確かめる?」
「今日は、採取の相談と伺っていますので」
ラグがミナへ椅子を勧めた。
ロゼッタは、その声を聞いて少し笑う。
「ずいぶん丁寧だね」
「ご相談の席ですから」
ミナは、まだ落ち着かないまま帳面を開いた。
水晶の向こうの人が、また一人、目の前に座っていた。
*
岸の白い跡を描いたところで、ロゼッタの指が止まった。
「ここまで水が来ると思ったんだね」
「はい。ラグさんにも聞いて、上の道を見ておきました」
「帰りも、そっちを通った?」
「いえ。その日は増えなかったので。下の道を戻りました」
ミナは、時刻を書いた欄を示した。
行きより帰りの方が、少し長い。
魚の容器を入れたので、袋の中身も変わった。
ロゼッタは次のページへ目を移す。
「香りは、コルナのものより強かった?」
「少し、そう思いました。料理へ入れすぎない方がいいくらいに」
「同じ種類でも、育った場所や採った時期で違うからね。乾かした後も、比べてみたい」
「香り袋にする葉だから、でしょうか」
「それも。依頼主が欲しいものを、同じ状態で用意できるか知りたいんだ」
採れる場所がわかれば、それで終わりではなかった。
どの株から、どの時期に、どんな葉を採るか。
ミナが一本ずつ確かめていたところの、もっと先を見ている。
ロゼッタは地図を広げた。
「近いうちに、この岸を調べる予定がある。ミナ、来てみる?」
ミナは顔を上げた。
「私も、ですか」
「前に見た場所を教えてほしい。葉を採って持ち帰る手順も、見せてもらいたい。ラグにも警戒を頼めるなら、話が早いけど」
ラグが地図を見た。
「範囲と、帰る時刻を伺えますか」
ロゼッタは日程を示した。
ミナの札で入れる区画から、先へは進まない。
川を渡る予定もない。
調査に使う容器や測る道具は、依頼側で用意する。
報酬も、別々に提示された。
ミナは採取と記録。ラグは警戒と、荷の取り扱いの補助。
ミナは、仕事の予定と並べて確かめた。
「行きたいです」
ラグも、条件を確かめてから返事をした。
職員が、三人の役割を紙へ書いた。
*
調査の日までに、ミナは買った槍を練習場へ持っていった。
先端を覆い、足を運ぶ。
袋を下ろしてから構える動作も、ラグと確かめた。
採取中はどこへ置き、何かあったらどう取るか。
水晶をつけたままでも、柄が引っかからないようにする。
補助を使わない練習は、まだゆっくりだった。
それでも、槍を持った手だけを先へ出すことは、少し減った。
当日の朝、ロゼッタはミナの槍を見た。
「それ、選んだんだね」
「はい。まだ、使い始めたばかりです」
「わかった。今日は調べるものが多いから、武器を置く場所も、一緒に決めよう」
ロゼッタ自身も、槍を持っていた。
ミナのものより長く、柄には使い込まれた跡がある。
出発前に、水晶の記録と位置共有を確かめた。
公開配信はしない。
調査の途中には、依頼主へ渡す記録もある。
何を公開してよいかは、仕事を終えてから聞くことにした。
*
水辺へ着くと、ロゼッタは川より先に、岸へ引っかかった草を見た。
ミナが白い跡を描いた石より、少し高い。
細い茎が、低い枝へ絡んでいた。
「これ、気づいた?」
「いえ。前は、石を見ていました」
「水が運んだものなら、ここまで来た可能性がある。枝が倒れた時期もあるから、これだけでは決めないけど」
少し離れた木にも、似た草が残っていた。
ロゼッタは二つの位置を比べ、地図へ印を入れる。
ミナも帳面へ描き足した。
前に来たときには、そこにただ枝があった。
今日は、その枝を見る理由があった。
香草の株は、近くに残っていた。
ミナは前に採った場所を示した。
「若い株は、こちらに多かったです。こっちは葉が大きかったので、何本かに分けて採りました」
ロゼッタがしゃがむ。
蹄を包む靴の先が、土へ少し沈んだ。
隣の乾いたところへ重心を移してから、葉の裏を見た。
「今日は、二つの場所から少しずつ採ろう。混ぜないでね」
ミナは、別々の布を広げた。
片方は日がよく当たり、もう片方は木陰に近い。
水際からの距離も違っていた。
*
採った葉を並べると、違いが見えた。
日向の葉は、少し厚い。
木陰のものは薄く、曲げたときの感じも違う。
「こちらは、刻むときにも硬そうです」
ミナが言うと、ロゼッタが顔を向けた。
「料理では、そこを見るんだね」
「はい。硬いところをそのまま入れると、口に残るので。あと、乾かすときも、厚さが違うと、同じ日にしまえません」
ロゼッタは葉を二枚、手に取った。
「じゃあ、帰ってからの乾き方も、分けて記録してもらえる?」
「はい」
ミナは布の脇へ、場所を書いた札を添えた。
重ねすぎないように並べ、包む。
採ったところでは、同じ葉に見えていた。
混ぜて持ち帰れば、違いを確かめられなくなる。
ラグは周囲を見ながら、包みを収める容器を寄せた。
「こちらの札が、日向ですね」
「はい。向きを変えずに、入れたいです」
ミナが包みを支え、ラグが右手で蓋を外す。
入れる順番を決めておくと、魚のときのようには慌てなかった。
*
岸沿いを少し移ったところで、対岸に似た葉が見えた。
ミナは手を止めた。
川の向こうでは、石の間に株がまとまっている。
「同じもの、でしょうか」
ロゼッタは、すぐには答えなかった。
「何が同じに見える?」
「葉の形と、茎の色です。でも、裏は見えません。生え方も、ここからだと」
ミナは、川の流れへ目を移した。
底は見えるが、途中から水の色が深くなる。
渡るために調べた場所ではなかった。
「今日は、ここから見えたことだけ、書きます」
「そうしよう。近くで確かめるなら、渡る道から調べる仕事になる」
ロゼッタは地図へ別の印をつけた。
ミナも、種類の名前を書きかけて止める。
似た葉がある、とだけ書いた。
ラグが、岸の内側へ顔を向けた。
「足跡があります」
二人が手を止めた。
湿った土に、小さな指の跡が続いている。
*
「水棘ネズミだね」
ロゼッタが、跡の脇へ視線を走らせた。
ミナも、木の根元を見る。
背中に硬い棘のある、小型の魔物。
ギルドの図にも載っていた。
小さいからと手を出すと、噛みつかれる。
水辺の穴へ潜むことがあると、注意書きにあった。
「この辺りに、穴があるかもしれない。根元へは入らず、上の道へ戻ろう」
ロゼッタが立つ。
ラグは先へ出て、道へ上がれる方を見た。
ミナも袋を背負った。
槍は手に持ち、穂先の覆いを外して収める。
採るために屈んだまま、相手を待つことにはしなかった。
草が鳴った。
短い棘を立てた、褐色の塊が走り出た。
猫ほどの大きさだった。
ラグの斧が、進んでくる側を塞ぐ。
魔物が跳ねたところへ、短く刃を合わせた。
「もう一つ、右!」
ロゼッタの声がした。
倒れた根の向こうから、別の塊が出た。
こちらは少し小さい。
ラグへは向かわず、木の根に沿って回り込んでくる。
ミナのいる方だった。
*
ミナは袋の留め具を外した。
足の後ろへ落とさず、横の乾いたところへ置く。
槍を両手で構えた。
「ミナ、後ろの明るいところへ!」
ロゼッタが、すぐ後ろで言った。
彼女の槍先も、ミナの横へ出ている。
川側から回られない位置へ、身体を寄せていた。
ミナは一歩、下がった。
さっき、土を確かめて荷を置いた場所。
足が沈まないところだった。
魔物の背には棘がある。
そこへ刃を入れても、弾かれるかもしれない。
腹は、低い。
動く先へ、槍を向ける。
魔物が跳ねた。
ミナは突いた。
早すぎた。
穂先が、魔物の肩の外を抜ける。
土へ触れ、手に硬い感触が返った。
息が止まった。
当たっていない。
引かなければ。
腕だけを、急に戻しかけた。
違う。
足も、身体も。
ミナは後ろの足を運び、槍を手元へ引いた。
練習場のように、きれいには戻らない。
それでも、先端が自分の横へ流れきる前に、構え直せた。
ロゼッタの槍が、魔物の横へ入った。
そちらへ抜ける道が狭くなる。
魔物は低く身を伏せ、ミナへ顔を向けた。
「下がれるよ。私の声がする方へ」
ミナは声を聞いた。
退く場所がある。
ロゼッタが、そこにいる。
魔物が、その場で止まるとは限らなかった。
*
前脚が、土を掻いた。
ミナは槍先を振り回さず、相手の顔の前へ戻した。
背ではなく、頭の下。
短い毛に覆われたところが、跳ぶ直前に少し上がる。
身体が来る。
ミナは斜めへ一歩、退いた。
足が置けるところを、先に見ていた。
その分だけ、槍の向きも変わる。
穂先が、魔物の首の下へ入った。
柄へ、重さが掛かった。
ミナは押し返そうとせず、両手を離さずに身体を引いた。
跳んだ勢いで、刃が深く入る。
腕が震えた。
魔物の足が土へ落ち、槍先が下がる。
ミナの膝も、少し折れた。
ロゼッタがすぐ横へ出た。
自分の槍を構えたまま、魔物と、岸の奥を見ている。
「そのまま、近づかないで」
ミナは止まった。
柄を握る手を、まだ動かせない。
魔物が一度、脚を動かした。
次の動きは、なかった。
ロゼッタが状態を確かめ、ようやく槍先を少し下げる。
「倒れている。もう、引いていいよ」
ミナは、ゆっくり柄を戻した。
血のついた穂先が、目に入った。
普通の鉄の刃だった。
店主の術式は、刻まれていない。
それでも、今、届いた。
*
ラグが、道の上から戻ってきた。
「ほかには、見えません。ただ、ここは離れましょう」
ロゼッタがうなずく。
ミナの槍を安全な向きへ下げさせ、足元を確かめた。
「噛まれていない? 棘は当たってない?」
「……はい。腕は、少し」
痛いというより、力が入り続けていた。
指を開こうとすると、まだ硬い。
ラグが袋を拾った。
ミナは、腰の小袋を確かめる。
水も、笛も、身体の側に残っていた。
補助帯の印には、触れていなかった。
上の道へ移り、少し離れてから休んだ。
ミナは水を一口飲む。
喉を通った後で、息が震えた。
「最初、外しました」
「見ていたよ」
ロゼッタが、ミナの前へしゃがんだ。
「その後は?」
「槍を戻して……足を、動かしました」
「うん。最初の突きが届かなかった後も、武器と足を戻せた。あそこで止まらなかったのが、よかった」
ラグも、隣でうなずいた。
「身体を前へ残さずに、構え直せていました。練習したことが、使えましたね」
ミナは、自分の槍へ目を向けた。
「……倒せたんですね」
「倒せた」
ロゼッタは答えた。
「ただし、今日は私が横を塞いでいたし、下がる場所もあった。同じ相手でも、場所が違えば、できることは変わるよ」
「はい」
ラグが道の先を見た。
「帰りましょう。今日の調査を終えるには、十分な記録があります」
ミナは腕を動かしてみた。
もう一度、強く握る練習をする日ではなかった。
*
魔物の確認に必要なものと、採取物は、分けて持ち帰った。
ギルドでは、先に水棘ネズミの出た場所を報告した。
穴そのものは確かめていない。
二匹が出てきたことと、岸から戻る途中だったことを伝える。
調査の記録には、対岸の葉も残した。
種類は、未確認。
近くで見るためには、別の道を調べる必要がある。
ロゼッタは、ミナの書いた欄を読み、顔を上げた。
「これ、いいね」
「魔物のところ、ですか?」
「そっちも。でも、この葉のところ」
対岸の株を描いた、小さな絵だった。
「似ているからといって、同じものとして報告しなかった。何を見て、何が見えていないか、分けてある」
ミナは、紙の端へ指を置いた。
「採るときに、違っていたら困るので」
「そう。後からその記録を使う人も、困るからね」
ロゼッタは調査の受領を確かめ、乾燥後の葉を見てもらう日も決めた。
仕事は、帰ったところで全部終わるわけではなかった。
*
処理を終えた槍へ、覆いをつけた。
ミナは袋へ留める前に、刃の端を見た。
土へ当てたところも、店で確かめてもらうことにする。
ラグが、入口で待っていた。
「今日は、身体の方も休ませてください」
「はい。夕飯は、残っているもので作ります」
「それがよいでしょう。私も、魚を捕りに寄るつもりはありません」
ミナは、小さく笑った。
笑うと、少しだけ肩の力が抜けた。
ロゼッタが二人の後ろから来る。
「次は、乾かした葉の話を聞かせて。料理に使った分の感想も」
「はい。……やまみちさんにも?」
「ああ。来られるときには、見に行くよ」
ミナは、ようやく、その二つの呼び方が同じ人へ向く感じに慣れてきた。
「今日は、ありがとうございました」
ロゼッタが手を振った。
ミナも頭を下げ、ラグと町の道へ出た。
歩きながら、槍を留めた紐へ触れる。
持っていれば、全部できる道具ではなかった。
でも、今日は包丁を使ったときより遠い間合いで、相手へ向き合えた。
帰ったら、最初に外したことも書こう。
その後で、戻せたことも。
誰がどこにいて、自分がどこへ下がったのかも、忘れないように。
袋の中では、日向と木陰で採った葉が、別々に包まれていた。
今日は、そちらの記録も残っていた。
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