第35話 水辺へ行ってみます
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依頼の紙に、取り消しの印が押された。
ミナは、受付の向こうで乾いていく印を見ていた。
イタチに遭遇した日、必要な葉は半分ほどしか採れなかった。納められる分だけ納めて、残りをどうするかは、ギルドで確かめてもらっていた。
「依頼主には、こちらから事情を伝えました。残りは別の方へお願いしています」
「すみませんでした」
「採取地で異常があったときは、報告して戻ってください。今回の判断で構いません」
受け取ってもらえた葉の分が、机へ置かれた。
約束していた報酬より少ない。
ミナは数を確かめ、ラグと分けるための小袋へ入れた。
隣で、ラグも紙を確かめていた。
「これで、前の依頼は一区切りですね」
「はい。次は、必要な分を持って帰りたいです」
「私もそう思います。ただ、途中で戻る必要ができたら、また相談しましょう」
ミナはうなずいた。
戻ったことでなくなった約束も、ちゃんと片づけてから、次へ行く。
*
水辺へ向かったのは、それから数日後だった。
新しく選べる区画の中でも、町に近い方の岸。
増水したときには使えなくなる道があり、前日に降った雨の量も、ギルドで確かめた。
依頼は、浅い水際に育つ香草の葉だった。
料理に使う店ではなく、乾かして香り袋を作る店からのものだという。
傷の少ない葉を、泥がつかないように持ち帰る。
見たことのある種類だが、採りに行くのは初めてだった。
魚のことも、尋ねた。
「いますよ。岸から捕って構わない場所は、こちらです。上流の柵があるところには入らないでください」
職員が地図へ線を引いた。
ミナは、その線を写した。
魚を捕る道具は持っていない。
貸し出しの棚で小さな手網を見せてもらい、料金を確かめた。
「これなら、袋の横につけられそうです」
「魚が入った後の方が、大事ですよ」
ラグが言った。
ミナは空の網から、持っていくものへ目を移す。
蓋のある容器。清潔な布。
魚を包むための紙と、下宿にある保存箱の空き。
帰りに寄り道はしない。
借りる前から、帰ってからのことまで考えた。
*
町を出ると、ラグが歩く速さを少し落とした。
ミナも地図を出す。
道が分かれるところでは、標識の番号と向きを確かめた。
水晶の位置共有と記録は、もう動いている。
公開配信は、まだ始めていなかった。
いつもの休憩所へ向かう道から、左へ分かれる。
木の間が広くなり、風に湿った匂いが混じった。
ラグの縞のある尾が、足の後ろでゆっくり動く。
空の左袖は、胴の脇へ留められていた。
右手には、まだ斧を持っていない。
道の先を見てから、ミナの足元へ視線を戻した。
「ここから、土が柔らかくなります」
ミナは靴を置く場所を変えた。
踏み固められた道の端は、少し沈む。
草が生えているから、同じ硬さだとは限らなかった。
「帰るときは、葉も魚もあるかもしれませんし」
「はい。足を取られる場所を、覚えておきましょう」
魚も、と言ったところで、ラグの口元が少し緩んだ。
ミナは地図を畳み、前を向いた。
まだ、捕れると決まったわけではない。
けれど、容器はちゃんと持ってきた。
*
水の音が聞こえた。
木々の向こうが明るくなり、細い川が見えた。
地図の水場の印は、思っていたより長く続いている。
岸の石には白い跡があり、その下を水が流れていた。
「……ここなんですね」
ミナは立ち止まった。
川の向こうにも草が生えている。
水面が光り、底の石が見えたり、見えなくなったりする。
近づこうとすると、ラグが先に声を掛けた。
「まず、荷を置ける場所を探しましょう」
「あ、はい」
川から少し離れた、乾いた土の上へ袋を置いた。
ミナは足元を確かめ、それから岸を見る。
「この白いところまで、水が来たんでしょうか」
「来ることがあるのでしょうね。今の岸だけを見て帰り道を決めると、水が増えた際に困ります」
ラグは川だけでなく、来た道の方も見た。
少し上がったところに、別の踏み跡が続いている。
ミナは地図へ印をつけた。
水が増えたときの道については、受付でも聞いた。
実際に見ておくと、紙の線の曲がり方がわかった。
「ここなら、岸へ下りずに戻れますね」
「ええ。ただし、濡れる前に戻るのが一番です」
ミナは空を見た。
雲はあるが、朝と変わらない。
水の色と高さも、帳面へ短く書いておいた。
*
目当ての香草は、水際から少し離れたところにあった。
依頼の紙と、葉の形を照らし合わせる。
匂いだけで決めず、茎と、葉のつき方も確かめた。
ミナが一本を見ている間、ラグは周囲を歩いた。
岸の奥へ入り込まず、戻れる場所を確かめてから、ミナの近くへ立つ。
「この辺りで採れそうですか」
「はい。あちらにもありますけど、今日はここで足りそうです」
遠くまで行けば、もっと大きな株があるかもしれない。
でも、必要なのは、大きさを競うことではなかった。
ミナは乾いた布を広げた。
膝をつく前に、下の土を手袋で押してみる。
少し湿っていたので、置く場所をずらした。
包丁で茎を切り、葉を並べる。
泥がついたものは、別に分けた。
持ち帰って洗えばよいのか、濡らさない方がよいのか。依頼の条件には、乾いた状態でと書いてある。
「これは、私が使う分にします」
少し傷んだ葉を示すと、ラグがうなずいた。
「食べられるのですか」
「はい。この種類は、食堂でも使っていました。でも、料理のときは、こんなにまとめて採ったことがなくて」
ミナは一枚を指で擦った。
馴染みのある香りがした。
コルナで使っていたものより、少し強い気がする。
魚に合うだろうか。
考えてから、まだ魚は捕っていないことを思い出した。
*
必要な葉が揃ったところで、作業を止めた。
袋へ収める前に、数と状態を確かめる。
布で仕切りを作り、魚の容器とは離して入れた。
ラグが川の方へ顔を向ける。
「少し、見てみますか」
「時間、大丈夫ですか」
ミナは時刻を確かめた。
帰りに使う時間と、途中で休む分を引いても、少し余裕がある。
「長くは、いられませんけど」
「では、魚にも、そのつもりでお願いしましょう」
ミナは笑って、手網を外した。
浅い岸のくぼみに、小さな影が動いていた。
一匹ではない。
水草の間を抜けるたび、背の色が見える。
ミナはしゃがんだ。
網を水へ入れる。
影が、散った。
「……早い」
引き上げた網には、細い枯れ葉が一本だけ入っていた。
ラグが隣で、水面を見た。
「少なくとも、あちらは道具の説明を待ってくれませんね」
「私も、わかったつもりだったんですけど」
網をもう一度入れようとして、手を止めた。
さっきは、水の上から魚を追いかけた。
影が落ちたところから、魚がいなくなっていた。
ミナは立つ場所を変えた。
今度は、網を先に水へ沈める。
ラグは、少し離れた岸へ回った。
「私は、こちらから動かしてみましょう。足は、水へ入れずに」
小さな枝で、水草の脇を静かに探る。
魚がくぼみの外へ向かった。
ミナは網を上げた。
水だけが、落ちた。
「今度は、遅かったです」
「先ほどより、相談の余地はありそうです」
ラグは急がず、また魚が戻るのを待った。
ミナも、網を持ち直した。
*
三度目に、小さな魚が一匹入った。
手のひらより、少し長い。
網の中で跳ね、光った。
「入りました」
声が大きくなってから、ミナは川の周りを見た。
ラグの丸い耳が、こちらを向いている。
「ええ。見事に」
ミナは容器を寄せた。
片方の手で網を持ち、もう片方で蓋を開けようとする。
魚が動いたので、手を戻した。
「……先に開けておけばよかったです」
「私が網をお預かりしましょう」
ラグへ柄を渡し、容器を開く。
魚を移してから、ミナは息をついた。
ラグの右手は、網を持っていた。
蓋を支えながら魚を移すことまで、一緒にはできない。
最初から順番を決めておけば、慌てなくて済んだ。
「次は、容器をここへ置いておきます」
「お願いします。私も、渡す前に声を掛けます」
二人でも、手は何本でもあるわけではない。
ミナは蓋を置く場所を空け、網を受け取った。
次に捕れた魚は、さっきより少し大きかった。
最後の一匹は、網の縁から逃げた。
追おうとして、ミナは時刻を見た。
「今日は、ここまでにします」
容器には、二匹いた。
もう少し大きな魚が、岸の向こうを泳いでいる。
でも、あちらへ行くために調べた道ではなかった。
ラグが枝を元の場所へ置く。
「二匹とも、帰りに付き合っていただきましょう」
ミナは、容器の蓋を閉めた。
*
魚はその場で締め、持ってきた布で包んだ。
泥のついた網とは、別にする。
水を使う作業は、依頼の葉から離れたところで済ませた。
昼のパンを食べる前に、ミナは少しだけ公開配信を始めた。
水晶を、岸から離れた木の根元へ置く。
ラグには、映る範囲を確かめてもらった。
「今日は、初めての水辺に来ました」
視聴者の数字は、零だった。
ミナは水晶の前へ、包んだ魚を見せた。
「二匹、捕れました。帰ってから、料理してみます」
網の枯れ葉の話も、少しした。
数字は変わらない。
ミナは記録に残ったことを確かめ、配信を終えた。
「夕方なら、誰か見てくれるかもしれません」
水晶を肩へ戻すと、ラグが自分のパンを取り出した。
「では、魚が主役になる前に、こちらをいただきましょう」
ミナも、朝に用意したパンを取った。
水の音を聞きながら、二人で食べた。
*
帰りは、行きより少し時間がかかった。
香草の葉は軽い。
魚の容器は、袋の中で傾かないように収めた。
入れ方が変わると、肩へ掛かる重さも変わった。
足元の柔らかいところでは、ミナが先に声を掛けた。
「ここ、朝も少し沈みました」
「覚えていてくださって、助かります」
ラグは踏む位置をずらした。
ミナも、同じ場所を避ける。
ギルドへ着くと、まず葉を納めた。
職員が布を開き、状態と数を確かめる。
「条件通りです。受領します」
ミナは、押された印を見た。
今日は、約束した分が揃っていた。
ラグと報酬を分け、借りた網を返す。
魚がいる容器は、まだ自分の袋にあった。
「帰ったら、すぐ下ごしらえをします。ラグさんの分もありますから」
「よろしいのですか」
「はい。一緒に捕りましたし。夕飯のときに来られますか」
ラグは少し考えてから、うなずいた。
「では、用事を済ませてから伺います」
ミナは到着する頃の時刻を確かめた。
下宿の管理人にも、使ってよい時間を聞いておこう。
*
台所へ戻り、魚の下ごしらえを済ませた。
持ち帰った香草を洗い、使う分を分ける。
依頼へ出す葉とは違い、こちらは自分が料理するものだった。
少し傷んだところを取り除けば、十分使える。
配信を始めると、しばらくして、視聴者が一になった。
名前は、知らないものだった。
「こんばんは。今日は、魚を捕ってきたので、焼いてみようと思います」
ミナは二匹を皿へ並べた。
小さい方と、少し大きい方。
網を上げたときの重さを、まだ覚えている。
文字板に、言葉が出た。
〈夕餉係:以前の記録を拝見しました。主人が興味を持ち、肉と芋の包み焼きを作ったところ、大変おいしいと喜んでおりました〉
ミナは、香草を持ったまま止まった。
包み焼き。
資格を取った後、初めて依頼を終えた日に作ったものだった。
〈夕餉係:私も、少ない肉で芋までおいしくなることに驚きました。今後も、どうぞお体にお気をつけて〉
ミナは最初の行へ、もう一度目を戻した。
「……作ってくださったんですか」
言ってから、もう書いてあることを聞いてしまったと気づく。
「ありがとうございます。食べた方にも、喜んでもらえたなら……よかったです」
香草を、皿へ置いた。
手を拭いてから、続ける。
「芋は、薄く切ると火が通りやすいです。もう、作ってくださったんですけど。次に作るときも、下に重ねすぎないようにすると」
途中で少し、笑ってしまった。
嬉しくて、同じことまで説明しそうになっていた。
〈夕餉係:ありがとうございます。また作ります。今日のお魚も、楽しみにしております〉
「はい。今日は、干していない魚なので、違う料理にしてみます」
視聴者の数字が、二になった。
新しく入った人からは、まだ文字が来ない。
ミナは二匹の魚へ、塩を薄く振った。
どこで見ている人なのか、知らない。
主人という人が、どんな顔で食べたのかもわからない。
それでも、ここで作った夕飯が、知らない家の夕飯になったらしい。
ミナは魚の腹へ、香草を少し入れた。
「これは、食堂でも使っていた香草です。今日は、育っているところへ初めて行きました」
川の岸が、頭に浮かんだ。
水の白い跡。柔らかい土。
網へ入った、小さな銀色の魚。
「いつもの場所とは、匂いも違って。魚を捕るのは、思ったより難しかったです」
文字板を見た。
知らない名前が、まだそこにあった。
「でも、また行ってみたいです」
鍋を火へ掛ける。
今日の魚は、これから夕飯になる。
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