第32話 文字の向こうの人
それから数日、ミナは採取へ出ずに過ごした。
朝には、セリカと食事をする。
昼は腕を確かめてもらい、道具を持ってギルドへ行く。
ラグには採取袋を見せ、どこへ何を入れるかを相談した。
葉を包む布は、ミナが使う方へ。
予備の紐は、二人とも取り出せるところへ。
大きさを確かめるために入れた荷物を、出したり、戻したりした。
左腕の痛みは、少しずつ引いていた。
盾を持っても響かないか、職員の前で確かめる。
短い練習から再開してよいと言われても、休んだ分を一度に取り戻そうとはしなかった。
その間に、訪問の案内が届いた。
「グレン様からです」
受付で名前を聞き、ミナは紙を持つ前に顔を上げた。
「……冠位の?」
「はい。街道の仕事でこちらへいらっしゃるそうです。ご都合が合えば、お会いしたいとのことですが」
ミナは紙を読んだ。
採取の同行者にも会いたいこと。
渡したいものがあること。
出発の予定を、このために変える必要はないこと。
最後の名前は、前に読んだ冊子と同じだった。
「私、何か、失礼なことをしたんでしょうか」
「そのようなご用件には見えませんよ」
職員は紙の一行を示した。
いつも配信を拝見しています。
ミナは、そこをもう一度読んだ。
冠位の人が、また料理を見ていたらしい。
*
会う約束は、ギルドの小部屋になった。
当日の昼前、ミナは机へ採取袋を置いた。
水晶は袋の横。
今日は配信を始めていない。
ラグは受付で登録の確認をしていた。
姉とニーナも、一緒に来てくれることになっている。
ミナだけが先に案内され、紙に書かれた名前を思い出していた。
万象冠。
いろいろなことができる人。
挨拶は、何から言えばいいのだろう。
扉が叩かれた。
ミナは立つ。
入ってきた男の人は、旅の上着を着ていた。
肩に掛けた袋を下ろし、ミナを見る。
口元が、少しだけ緩んだ。
「こんにちは、こなべさん」
考えていた挨拶が、止まった。
「……え?」
「グレンです。配信では、灰ねこと名乗っています」
ミナは、その顔を見た。
もう一度、声を聞きたくなった。
「灰ねこさん?」
「うん。急に会うことになって、驚かせたね」
いつも文字板に出ていた言葉に、声があった。
何度も料理の話をした人が、机の向こうに立っている。
「いつも、ありがとうございます」
冠位への挨拶より、先に出た。
ミナは頭を下げた。
「最初の頃から、見てくださって。ガマに遭ったときも、それからも」
「こちらこそ。作り方を、何度も教わっているよ」
グレンは、自分の袋を机へ寄せた。
「パンも、前よりは良く焼けるようになった」
ミナは顔を上げた。
「焦げなくなりましたか」
「……前よりは」
そこで、少し笑えた。
グレンも笑った。
*
扉の外で声がして、ラグと、セリカたちが入ってきた。
「お待たせしました」
ラグが挨拶をする。
ミナは机の横へ寄り、姉を紹介しようとした。
「グレン様。こちらが、姉のセリカです」
グレンの目が止まった。
「……セリカ?」
「グレン?」
姉も、入口で足を止めていた。
グレンは姉を見てから、ミナを見る。
それから、もう一度姉を見た。
「妹って——」
「うん」
ミナは、二人の間へ視線を動かす。
「知り合いなの?」
セリカがうなずいた。
「仕事で、顔を合わせたことがあるの」
「そう。……君のお姉さんだったんだね」
グレンの声には、まだ驚きが残っていた。
ミナはラグも紹介した。
ラグは短く名乗り、挨拶を返す。
ニーナが椅子を寄せると、ようやく全員が座れた。
「ミナ。水、飲む?」
セリカが机の端の水差しへ手を伸ばした。
「うん。ありがとう、お姉ちゃん」
「腕は、疲れてない?」
「袋、運んでもらったから大丈夫」
グレンは、そのやり取りを見た。
仕事で聞いていた声よりも、ずっと柔らかい。
水を注ぐ姉の目は、ミナの袖口まで確かめていた。
ニーナが、グレンの方へ顔を向けた。
目が合うと、何も言わずに笑った。
*
持ってきた袋を広げる前に、グレンは受付へ一言伝えたいと言った。
セリカも一緒に席を立つ。
ミナはニーナと、腰の帯を確かめていた。
ラグが採取袋の紐をほどき、出しやすいよう机へ置いてくれる。
廊下へ出ると、セリカが扉を閉めた。
グレンは、少し離れたところで振り返る。
「こなべさんが、君の妹だったのか」
「あなたが、灰ねこさんだったのね」
「ミナから聞いていた?」
「配信の話はね。あなたの名前までは、知らなかった」
セリカは小部屋の扉を見る。
「それで、お願いがあるんだけど」
「うん」
「私の冠位のことは、まだ言わないでほしい」
グレンは、姉の顔を見た。
「ミナは知らないんだね」
「冒険者だとは知ってる。でも、どんな依頼を受けているかまでは、話していないの」
セリカの指が、羽織の縁へ触れた。
「難しい仕事をしていると知ったら、あの子が心配するから。今は、私がミナの暮らしをちゃんと聞きたい」
グレンは少し考え、うなずいた。
「僕からは言わないよ。いつか話すときは、君の言葉で」
「ありがとう」
セリカは顔を上げた。
「それと。いつも、妹をありがとう」
グレンは、一度口を開き、閉じた。
会議の席で、こんなふうに頭を下げられたことはなかった。
「……僕も、こなべさんから教わっているんだ」
「パン?」
「パンだけじゃないよ」
セリカが小さく笑った。
グレンは、その顔にも少し驚いた。
*
机へ置かれたのは、小さな携行袋だった。
グレンは中から、水筒と笛を出した。
最後に、薄く畳んだ保温布を置く。
全部を並べても、採取袋の一番下を埋めるほどの量にはならなかった。
「袋を置いた判断は良かった。だから、置いても手元に残るものを用意したくて」
ミナは、小さな水筒へ触れた。
「私も、水を持つ場所を相談していたところなんです」
「うん。その話を、配信で聞いた」
文字板へ話したことが、ここまで届いていた。
ミナは水筒を持ち上げる。
いつものものより少ない量しか入らない。
でも、岩に座って待ったときには、これもなかった。
「いつもの水筒は、別に必要だよ。これは、荷を離した後の分」
「はい」
「笛は、声が届きにくいときに。布は、待つ間、冷えないようにするため」
ミナは、布を少し広げた。
膝へ掛けられる大きさがある。
それをもう一度畳もうとして、思ったより大きな形になった。
グレンはすぐに手を出さず、折る位置を示した。
「こっちを先に。取り出したときも、自分で戻せる方がいい」
ミナは折り直した。
今度は、袋へ入った。
「ありがとうございます。……いただいても、いいんですか」
「使いにくいところがあれば、直してからね」
*
袋をつける場所は、すぐには決まらなかった。
腰の前へ寄せると、屈んだときに当たる。
横へ動かすと、水晶を肩へ掛けた帯と、取り出す手が重なった。
グレンは紐の長さを変え、ミナに動いてもらった。
立つ。少し屈む。袋を背負う。
左腕へ小盾をつけた状態も、短く確かめた。
「停止印へ、触れてみて」
補助帯は、動かしていない。
ミナは右手を伸ばし、印へ指を当てた。
「届きます」
「水筒は?」
袋の口を開けようとすると、指が革の縁へ引っ掛かった。
ラグが、横から覗き込む。
「その留め方ですと、手袋をしたときには、もう少し開けにくいかもしれません」
「確かに。こなべさん、手袋も借りていい?」
もう一度、試す。
グレンが留め紐の先を長くすると、つまみやすくなった。
「今度は、取れます」
採取袋を下ろしても、小さな袋は身体へ残った。
水筒を出し、蓋を開ける。
ミナは机へ置く前に、少し飲んだ。
グレンがうなずいた。
「これなら、荷を置く判断を変えずに済むね」
*
ラグは、持ってきた地図を机へ広げた。
グレンが尋ねたのは、昔の仕事や、倒した魔物の数ではなかった。
採取中に立つ場所。
ミナが移りたいと言ったときの確かめ方。
戻る道を、二人のどちらが見ているか。
「ミナさんの近くを見る間も、帰る方へ出られるかは確かめます。木や岩で、声が遮られない位置に」
ラグが答える。
「私が動くときも知らせます。こちらを探すために、作業を続けたまま振り向かれては困りますから」
「ミナには、何を伝える?」
セリカが尋ねた。
「止まるのか、こちらへ来てほしいのか。短い言葉にしました。先に下がってもらうなら、場所も示します」
ミナはうなずいた。
袋の相談をしたときにも、練習した言葉だった。
「私が戻りたいと思ったら、それも言います」
「ええ。私から見えないことは、教えていただかないと」
ラグは地図へ手を置いた。
「それから、グレン様がご覧になる場合も、立つ場所を先に決めておきたいのですが」
「今回は、町で君たちの準備を見せてもらうところまでにするよ。明日は街道の仕事があるんだ」
グレンは、ミナも見た。
「最初の採取は、二人で。帰ってから、様子を聞かせてもらえるかな」
「はい」
ミナは答えた。
冠位の人まで一緒に来ると思って、少し身構えていたことに気づく。
セリカも、地図から顔を上げた。
「私も、町で待ってる。帰ってきたら、聞かせてね」
「うん」
*
「こなべさん」
グレンが、地図の端を指した。
「警戒する人がいて、もしものときに戦ってくれる人もいる。じゃあ、こなべさんは、どうする?」
ミナは、ラグを見た。
それから、自分の小盾を見る。
「邪魔にならないところへ、下がります」
「うん。それは大切」
グレンは、地図の上の小石を動かした。
一つはラグ。一つはミナ。
もう一つを、道の横へ置く。
「でも、下がった場所から、見えるものもあるよ。相手の動き。ラグさんの位置。帰る道」
ミナは小石を見た。
「魔物が、ラグさんの方を見ている間にも、こなべさんの方へ来る道は残っているかもしれない。戦っている人が、全部を見られるとは限らないんだ」
「私が、教えるんですか」
「気づいたことをね」
グレンは、ミナの小石の後ろへ指を置いた。
「司令官は、全部を自分でやる人じゃない。全体を見て、必要なことを伝える人なんだ」
ミナは、少し目を開いた。
司令官という言葉が、自分へ向くとは思わなかった。
「でも、私は、戦い方がまだわからなくて」
「ラグさんへ、知らない戦い方を指示する必要はないよ。まずは合図に従って、動ける場所へ下がる。その上で、自分が知っていること、見えたことを短く伝える」
ラグがうなずいた。
「私の後ろで枝が動いても、私には見えません。知らせていただければ、助かります」
ミナは、前に遭った魔物を思い出した。
爪がどこへ来るかしか、見えなくなった。
文字板を読むために、少しだけ顔を上げた。
「怖いと、見られなくなることがあります」
「あるよ」
グレンは、すぐに答えた。
「だから、最初から全部を見ようとしなくていい。下がったら、自分の足元。次に、帰る方。ラグさんの位置。少しずつ、見るところを増やそう」
ミナは、自分の小石を指で動かした。
地図の線が、後ろへ続いている。
「見えたことが、違っていたら?」
「何が見えたかを言ってくれれば、僕たちも確かめられる。わからないところを、決まったことのように言わなければいい」
ミナは、記録帳を開いた。
下がってからも、見る。
知っていることを、伝える。
書き終えて、地図へ目を戻す。
採る葉のことだけではなく、自分が見たものにも、役に立つ使い方があるらしい。
*
翌日の採取は、腕の確認を済ませてから、正式に依頼を受けることになった。
身体の様子が変われば、延期する。
ラグはそう確かめ、集合する場所と時刻を伝えた。
「では、明日は、葉に普段通りでいてもらいましょう」
ミナが顔を上げる。
「葉に?」
「こちらが緊張していても、急に育つわけではありませんから」
ミナは笑った。
ラグも、静かに口元を緩めた。
帰りの予定を話すと、セリカが言った。
「私たちは、明後日の朝に発つね」
ミナの手が止まった。
いつまでも一緒にはいられないと、わかっていた。
でも、日が決まると、急に近くなる。
「……うん」
姉が、ミナの方へ身を寄せた。
「明日の夕飯は、一緒に食べよう。採取の話も、聞きたい」
「帰ってから、作るね」
「疲れていたら、買ってきてもいいんだよ」
グレンは、二人を見ていた。
以前、会議で聞いたセリカの短い返事を思い出す。
この声を聞いたら、バルドはどういう顔をするだろう。
「僕も、明後日の朝には王都へ戻る予定なんだ」
グレンが言うと、ニーナはセリカを見た。
「じゃあ、出るところまでは一緒にできるね。道も、同じ方でしょう」
「うん。そうしよう」
ミナは、三人の顔を見た。
明日の採取と、明後日の見送り。
帳面へ書く予定が、二つ増えた。
*
下宿へ戻ってから、ミナは小さな袋をもう一度つけた。
採取袋を背負い、下ろす。
水筒を取り出し、戻す。
補助帯の停止印にも、右手が届く。
机へ並べると、水筒も笛も、特別に大きな道具ではなかった。
でも、誰が、何を考えて選んでくれたかは知っている。
ミナは記録帳を開いた。
グレンの声を思い出しながら、今日書いた二行を読む。
下がってからも、見る。
知っていることを、伝える。
明日は、自分の包丁を使う前に、ラグの位置を見る。
戻る道も、確かめる。
ミナは帳面を袋へ入れた。
明日の分のパンを、台所へ取りに行く。
用意する包みは、今度は二人分だった。
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