第29話 お姉ちゃんに話すこと
セリカは、ミナが座るまで椅子の背から手を離さなかった。
向かいへ腰を下ろし、机の上へ出された左腕を見る。
「触ってもいい?」
「うん。ここは、まだ押すと痛いけど」
指で示すと、姉の手はそこを避けた。
布の端と、出ている指先を確かめる。
「ギルドでは、診てもらった?」
「帰ってからも、その次の日も。重いものは、まだ持たないようにって」
「今日は?」
「鍋は、管理人さんに運んでもらった。切るのも、少しずつ」
セリカはうなずいた。
手を引いた後も、目は腕に残っていた。
「どんな魔物だったの」
「鉤爪イタチ。講習で、絵を見たことがあったの」
ミナは、袋を閉じたところから話した。
葉が動いたこと。道へ戻ろうとしたこと。
けれど、向こうの方が速く、横から回られてしまったこと。
「それで、補助帯を使った」
セリカの顔が上がる。
「補助帯?」
「身体の動きを助けてくれるもの。ずっと使うものじゃなくて、帰れなくなるかもしれないときに、短く使うの」
ミナは部屋から持ってきた帯を、机へ置いた。
留め具と、止めるための印を見せる。
「今は、使わないよ。使った後、脚が重くなるから」
姉は帯へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「誰に、使い方を教わったの?」
「オルヴェン様と、リゼ様。最初は、別の補助帯を試すお手伝いをしていたんだけど」
ニーナの目も、机の上へ向いた。
「……その二人に?」
「うん。料理の配信を見てくださっていて。研究の役に立ったからって、お礼に」
セリカは、すぐには返事をしなかった。
ミナは、案内をギルドで確かめてもらったことや、使う前に練習したことも話した。
姉はその説明を最後まで聞き、帯をミナの方へ少し戻した。
「次の確認は、いつ?」
「使った記録と一緒に、ギルドから連絡してもらっているところ」
「じゃあ、それまでは指示通りにしておこう。私が勝手に触っていいものでもないし」
ミナはうなずき、帯を袋へしまった。
それから、盾を構えた後のことを話す。
爪をそらしても、腕へ響いたこと。
足が滑ったこと。
木を挟んで、飛びついてきた魔物の脚へ包丁を入れたこと。
「倒せたの?」
ニーナが尋ねた。
ミナは首を振る。
「森へ戻ったのは見えたけど、その後は、わからない。追わずに、道へ戻った」
「袋は?」
「置いてきた。拾いに戻ったら、また近くへ行かないといけなくて」
「うん」
ニーナは、それだけ言って続きを待った。
「人の声が聞こえたから、補助帯を止めたの。そうしたら、脚が重くなって。岩に座って、ギルドの人が来るのを待った」
配信を見ていた人が、連絡をしてくれていた。
文字板に届いた言葉を読みながら待ったことも、ミナは隠さなかった。
「水も、袋に入っていたから。帰ってから、持つ場所を考え直してる」
セリカは、机へ置いた手を握った。
ミナの話が止まると、ゆっくり息を吐く。
「戻ってこられて、良かった」
「うん」
「袋を取りに戻らなかったのも、魔物を追わなかったのも、良かったと思う」
ミナは姉の顔を見た。
「でも、もし、声が聞こえるところまで行けなかったら」
その先は、言わなくてもわかった。
脚が重くなった後、自分だけで歩けたかどうか。
岩のそばへ、もう一度魔物が来たら。
「……私も、帰ってから考えた」
セリカの唇が動いた。
けれど、声にはならなかった。
しばらくして、違う問いが出てきた。
「どうして、採取の仕事にしたの」
*
ミナは、膝に置いた右手を見る。
「最初は、食堂で働けないか、探していたんだ」
コルナを出た後のことを、手紙よりも詳しく話した。
店で聞いた返事。住む場所。自分にできそうな仕事。
採取なら、知っている草もあった。
刃物を使う手にも、覚えがあった。
「姉さんが送ってくれたお金があったから、すぐに決めなくても良かった。でも、ずっと何もせずに待つのも、落ち着かなくて」
「何もしていなかったわけじゃないでしょう」
「うん。……今なら、少しわかる」
見習いの札を取ったこと。
足の置き方を習い、帰る時間を決めるようになったこと。
試験で迷ったことも、依頼の葉に小さな傷があったことも話した。
「知らない草でも、ちゃんと見て、教えてもらえば、わかるものが増えるんだ。納めた葉が、香油になるって聞いたのも、嬉しかった」
姉は、途中で話を止めなかった。
「料理は、やめたくなった?」
「ううん」
それは、すぐに答えられた。
「作ってるよ。配信でも。帰ってから何を食べようか考えるの、楽しいし」
台所から、蓋の動く音がした。
管理人が、こちらへ顔を出す。
「話の途中だけど、そろそろ食べ頃だよ」
ミナは立ちかけた。
セリカも、同時に立つ。
「私が運ぶ」
「器に入れるのは、できるよ」
姉がミナの腕を見た。
「重い鍋は、そこに置いたままにするから」
少し考えて、セリカはうなずいた。
「じゃあ、入った器を運ぶ」
管理人が台所で、笑っていた。
*
ミナが煮込みをよそうと、姉は両手で器を受け取った。
ニーナが机の上を空け、匙を並べ直す。
切ったパンを置くと、三人分の夕飯になった。
セリカは、湯気の上がる器を見ていた。
それからミナを見る。
「熱いから、気をつけてね」
「姉さん。それ、私が作ったんだよ」
「……そうだった」
ニーナが、パンを持ったまま肩を揺らした。
セリカは匙を取ったが、すぐには口へ運ばなかった。
「なんだか、ミナが大人になっちゃったみたい」
「そうかな」
「夕飯も作ってくれるし。姉さん、って呼ぶし」
ミナは、匙の柄を指でなぞった。
手紙では、いつからかそう書いていた。
久しぶりに会っても、そのまま口に出た。
セリカが、少し身を寄せる。
「昔みたいに、ねーねでも、お姉ちゃんでもいいんだよ。お姉ちゃんは、そっちの方が嬉しいな」
「……人がいるよ」
横を見ると、ニーナはパンをちぎっていた。
顔は器へ向いているのに、口元が笑っている。
「私のことは、気にしなくていいよ」
そう言われると、余計に気になった。
「じゃあ、後でもいいけど」
姉の声が、少し残念そうになった。
ミナは器へ目を落とす。
湯気だけではない熱が、頬へ上がった。
「……お姉ちゃん」
セリカが笑った。
玄関で見たときよりも、もっと嬉しそうだった。
「うん」
「早く食べて。冷めちゃうから」
「いただきます」
今度は、匙が煮込みへ入った。
柔らかくなった芋と、肉を少し。
セリカは一口食べ、もう一度器を見た。
「おいしい」
ミナの肩から、力が抜けた。
「こっちで買えるものだと、少し違うけど。香草は、同じようにしてみたんだ」
「食堂の匂いがするね」
「うん」
ニーナも、汁を含んだ芋を食べた。
「これは、帰ってきたくなるね」
ミナは、鍋に残った量を思い浮かべた。
もう一度ずつよそっても、足りそうだった。
「まだ、あります」
「嬉しい。じゃあ、後でお願いしてもいい?」
「はい」
セリカは、二人のやり取りを見ていた。
ミナが匙を取ると、それにつられたように自分も食べ始める。
*
「お姉ちゃんとは、長く一緒に仕事をしているんですか」
「何度かね。行く先が同じだったり、同じ依頼に呼ばれたり」
ニーナの言葉に、ミナは姉を見た。
「お姉ちゃん、けっこうズボラだから……ご迷惑、かけてませんか?」
セリカの匙が止まった。
「ミナ」
「だって、脱いだ服とか」
「ああ」
ニーナが、思い当たる顔をした。
セリカは、今度はそちらを見る。
「いやいや、迷惑なんて。セリカがいなかったら、私たちが帰れなかったこともあるよ。仕事では、本当に頼りになる」
ミナは、少し安心した。
姉は黙って、パンをちぎる。
「ただ、宿ではね。椅子に掛けたはずの上着が、床に——」
「ニーナ」
セリカが目を細めた。
ニーナは一瞬口を閉じ、煮込みをすくう。
「……香草、いいね」
「やっぱり落としてるんだね」
ミナが言うと、姉は視線をそらした。
「毎回じゃないよ」
「食堂でも、そう言ってた」
ニーナが笑いをこらえきれなくなった。
セリカは、困った顔でミナを見る。
「今日はちゃんと、掛けるから」
「うん」
ミナも笑った。
離れていた間に変わったことは多い。
でも、姉の上着を拾って、椅子へ掛け直したことは覚えていた。
*
二杯目をよそいに立つとき、ミナは鍋の取っ手へ目を向けた。
いつも、そこに布が掛かっていた。
熱いものを持つ前に探さなくて済むように、店主が決めた場所だった。
「店主さん、最後の方は、ここまで運ぶのも大変そうだった」
口にしてから、姉の方を見た。
セリカは、椅子へ座ったまま聞いている。
「だから、先に器を近くへ並べるようにしたの。冷めないうちに、お客さんに出せるように」
匙を動かす。
芋が崩れないように、鍋の縁からすくう。
「そのやり方、今も使ってる」
「……そう」
ミナは器を渡した。
姉の手が、それを受け取る。
「手紙、遅くなってごめんね」
ミナは首を振った。
「何度も転送されたんでしょう」
「それも、あるけど」
セリカは、器を机へ置いた。
「次に行けば会えるって、思っていた。ミナにも、店主さんにも」
鍋の火は、もう消していた。
台所が静かになると、姉の声はよく聞こえた。
「会いに行くって書いたのに、何度も先へ延ばして」
ミナは、姉の隣へ戻った。
「手紙、嬉しかったよ。お金も、助かった」
全部平気だったとは、言えなかった。
閉めた食堂の中で、姉の返事を読みたかった夜もあった。
「でも、話したいことは、たまってた」
セリカが顔を上げた。
「うん」
「今日は、聞いてほしい」
「聞くよ」
姉は、自分の器を少し脇へ寄せた。
机のこちら側へ、身体を向ける。
「帰る前に、店主さんのことも話して」
「うん。」
*
食べ終わる頃、セリカは採取の話へ戻った。
「仕事を続けたい気持ちは、わかった」
ミナは、机の下で膝を揃えた。
「でも、ミナが採っている間、周りを見る人はいた方がいいと思う。何かあった後も、一人にならないように」
「一緒に行く人?」
「うん。戦える人と組むことも、考えてみてほしい」
ミナは、依頼板で見た報酬を思い浮かべた。
必要な量を揃えて、二人で分ける。
往復の時間は、同じだけ掛かる。
「私の仕事だと、分けたら、少なくなっちゃわないかな」
「そのまま半分にして割に合うかは、依頼によるね」
ニーナが答えた。
「だから、最初に相談するの。何を採るか、どこまで行くか、誰が何をするか。報酬も、荷物も」
「守ってもらうだけじゃ、悪い気がして」
「ミナは、葉の状態を見られるでしょう。私が同じ依頼を受けたら、たぶん、いちいち確かめに呼ぶよ」
ニーナは、空になった器を指で示した。
「それに、食べる支度ができる人がいると助かる。野外で、この煮込みを作ってって意味じゃないけどね」
ミナは、少し笑った。
鍋を持って歩く重さは、よく知っている。
「採ったものを、傷めず持って帰るのも仕事。それが得意な人と、周りを見るのが得意な人なら、一緒に働けるかもしれない」
セリカは、ミナが考えるのを待っていた。
「お姉ちゃんと、ずっと一緒には行けないよね」
「今回は、何日かいられる。でも、また仕事へ戻らないといけない」
姉は、そこを曖昧にしなかった。
「その間にも、安心して送り出せる方法を、一緒に考えたい」
ミナは、左腕の布へ目を落とした。
帰る時間を決めても、盾を持っても、わからなかったことがあった。
もう少し先の採取地へ行くなら、なおさらだった。
「……一度、探してみたい」
声にしてから、続きを考える。
「まず、近いところで。一緒に行ってみて、ちゃんと相談できる人か、確かめたい」
セリカがうなずいた。
「明日、ギルドへ聞きに行こうか」
「うん。腕が良くなってからの仕事で、相談する」
ニーナが、机に置いた自分の器を持った。
「じゃあ、私はこれを運ぶ。洗う場所、教えてくれる?」
「ありがとうございます。こっちです」
セリカも立ち、残りの器を重ねようとした。
ミナは、姉の手を止める。
「匙は先に取って。底が汚れちゃうから」
「……はい」
ニーナが、また笑った。
ミナは台所で、残った煮込みへ蓋をした。
明日、温めればもう一度食べられる。
「お姉ちゃん。明日の朝も、食べる?」
「食べたい」
返事は、すぐに来た。
ミナは鍋のそばへ、布を掛け直した。
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