第28話 迎える日の支度
翌朝、ミナは寝台の端へ座ってから、ゆっくり立った。
脚は、まだ少し張っていた。
左腕も、袖へ手を通すときに痛んだ。
けれど、昨日の石の上で感じたような、膝の頼りなさはなかった。
今日は採取へ行かない。
机へ置いた補助帯も、つけなかった。
階段を下りると、管理人がパンを切っていた。
「先に食べておいき。ギルドへ行くのは、その後でいいよ」
「はい。昨日は、ありがとうございました」
椀を受け取り、机へ置く。
右手でできることでも、少し時間がかかった。
管理人は、次の器を洗いながら待ってくれた。
ミナはパンを汁へ浸した。
今日は、仕事の前に急いで食べる必要がない。
そのことを、何度か自分へ言い直した。
*
ギルドへ行くと、袋は戻っていた。
外側に少し土がつき、口の紐には細い枯れ枝が絡んでいた。
水筒も、中の道具もあった。
ミナは礼を言い、布の包みを開いた。
葉の端が折れていた。
重なったところには、傷んだ色が出ている。
急いで閉じたとき、押しつぶしたものもあった。
「必要な量には届いていません。状態の良い分だけなら、買い取りに出せます」
職員が、受注した依頼の紙を示した。
「今回の依頼は未達として、事情も記録します。残りの手配はこちらでしますから、今から取り直しに行く必要はありません」
ミナはうなずいた。
自分が名前を書いた隣には、完了の印が入らなかった。
使える葉と、出せない葉を分ける。
受け取った硬貨は、予定していた報酬より少ない。
それでも、水筒を握ったときには、戻ってきてよかったと思った。
「回収してくださった方にも、お礼を伝えていただけますか」
「はい。伝えます」
魔物のいた斜面は、確認が済むまで立ち入りを止めるという。
ミナは掲示された地図を見た。
昨日歩いた場所へ、印がついていた。
自分が帰った後にも、仕事を続けた人がいる。
そう思うと、硬貨をしまう手が少しゆっくりになった。
*
腕をもう一度診てもらい、補助帯の記録を預けた。
強い動作や盾の練習は、まだ休む。
道具の点検も、ギルドからリゼへ取り次いでもらうことになった。
包丁と鞘の手入れは、職員に手伝ってもらった。
刃に傷がないか、刻まれた印の近くも確かめる。
自分では読めない線を削ったり、勝手に直したりはしない。
道具屋では、小盾を見せた。
表の革は傷んでいたが、木の割れはなかった。
擦れた縁を直してもらい、腕の帯も確かめる。
「ここへ強く掛かったんだな」
店の人が、爪の跡を指した。
ミナは左腕を見た。
「はい。滑ったんですけど、痛かったです」
「握りも緩んではいない。腕が良くなったら、もう一度持って確かめな」
受け取った盾には、直した場所が一つ増えた。
昨日ついた線は、全部なくなったわけではなかった。
*
下宿へ戻ると、水筒を袋から出した。
荷を置いて逃げた後、これがなかった。
腰へそのまま吊るすと、歩くたびに大きく揺れた。
補助帯の印へも、触れそうになる。
ミナは、そこで手を止めた。
袋に入れなければいい、だけでは決まらなかった。
記録帳へ、ひとまず書く。
荷を離した後も、水を持てるように。
印と、足の邪魔にならないところ。
次に職員へ相談するとき、持っていこうと思った。
今日は、家の机に水の椀があった。
手を伸ばせば、飲めた。
*
夕方、短い配信を始めた。
今日は鍋を映さなかった。
ミナは机へ水晶を置き、包丁の布と、戻った袋を脇へ寄せる。
「こんばんは。昨日は、途中で終わったので。帰ってからのことを、お話しします」
数字が、一になった。
〈こぐま:腕はどうだ〉
「まだ痛いです。でも、昨日より少し動かせます。練習は休むように言われました」
〈こぐま:ああ。よく帰った〉
ミナは、その文字を見た。
昨日も、こぐまさんは帰る方のことを話していた。
今は、もう帰った後だった。
「連絡してくださって、ありがとうございました。職員の方が来るまで、見ていてくださったのも」
〈こぐま:伝わってよかった。来た人にも話せたな〉
「はい」
少しして、数字が二になった。
〈灰ねこ:こんばんは、こなべさん。記録を見たよ〉
「こんばんは。袋も、回収していただきました」
〈灰ねこ:そう。それは助かったね〉
ミナは袋の口へ触れた。
「草は、少し傷んでいました。依頼の量も、そろっていなくて」
言ってから、昨日の斜面を思い出す。
戻れば、袋へ手が届いたかもしれない。
でも、その近くには魔物がいた。
「……取りに戻らなくて、よかったと思っています」
〈灰ねこ:うん。こなべさんが離れる間に、相手も動けるからね〉
〈こぐま:荷のために、もう一度近づく必要はなかった〉
ミナはうなずいた。
受け取れなかった報酬のことを、考えなかったわけではない。
それでも、次に同じことが起きたら、あの袋は置くと思った。
*
「補助帯は、文字が来る前に使いました」
ミナは、膝へ置いた手を見た。
「道へ戻っても、追いつかれそうだったので」
〈灰ねこ:自分で相手と道を見て、決めたんだね〉
「はい。……怖かったです」
静かな部屋で、声にすると、昨日よりはっきりわかった。
最初に爪が当たったときには、習った順番も飛びそうになった。
「でも、木へ動くときに、足を止めないことは思い出せました。次に置くところも、見えました」
〈こぐま:そこは、使えていた〉
文字が届いた。
ミナは少し顔を上げた。
〈こぐま:盾だけ出して、体を残さなかった。二度目は、足も動いていた〉
「最初は、滑りました」
〈こぐま:ああ。だから、良かったところまで消すな〉
ミナは、記録帳の新しい頁を開いた。
腕が痛かったこと。
水筒がなかったこと。
そこまでは、もう書いてある。
その下に、足、と書く。
次の場所を見て、動けた。
灰ねこさんの文字が出た。
〈灰ねこ:今日は、そこまででいいと思う。道具のことは、腕が落ち着いてから一緒に考えよう〉
「はい。姉にも、聞いてみます」
〈灰ねこ:もうすぐ来るんだったね〉
「はい。夕飯を、作りたいです」
〈こぐま:鍋は、無理に持つな〉
「……管理人さんにも、言われました」
同じことを言われたので、ミナは少し笑った。
今夜は、そのまま配信を終えた。
*
街道の宿で、ニーナは弩の弦を確かめていた。
焦げ茶色の髪は、短い三つ編みにまとめてある。
旅の上着を椅子へ掛け、赤茶の首布を緩めた。
向かいでは、セリカが届いた手紙を読んでいた。
さっきまで、次の区間の道を調べていた顔だった。
封を開けた後から、目の動きが少し変わった。
「妹さん?」
「うん」
「会える?」
セリカがうなずいた。
同じ行へ、もう一度目を戻す。
「夕飯を、一緒に食べたいって」
ニーナは弩を布へ置いた。
「それは、楽しみだね」
セリカは返事をしなかった。
けれど、手紙をしまう前に、紙の折れ目を指で整えた。
濡れないよう、別の包みへ収める。
仕事で何度も一緒に旅をしていた。
剣と手紙だけは、いつも置くところを決めている人だった。
「私もリュネールまで一緒だし。都合がよければ、挨拶してみたいな」
セリカが顔を上げた。
「ミナに、聞く」
「もちろん。急に食卓へ一人増えたら困るもの」
街道の便が出る時刻を確かめ、セリカは短い便りを書いた。
仕事を一緒にした仲間が、町まで同行すること。
会っても構わないか。
食事の用意が増えるなら、無理はしなくていいこと。
最後の一行を書くときだけ、少し筆が止まった。
*
翌日、ミナの下宿へ、その便りが届いた。
ニーナという名前を読んでから、ミナは台所の鍋を見た。
一人増える。
鍋は、三人分なら十分に入った。
「お姉さんのお仲間も?」
管理人が、紙の端を見た。
「はい。来ていただけるなら、嬉しいです」
「じゃあ、椅子をもう一つ出そうか」
ミナはうなずいた。
昨日まで二人分を考えていた机が、少し広く見えた。
返事は、ギルドの街道便で宿へ回してもらった。
姉がどこを通るか、今度はわかっている。
会える日も、延びるとは書かれていなかった。
*
休む日が、二日続いた。
脚の張りは薄くなった。
腕も、軽い器なら持てるようになったが、重いものはまだ避ける。
診てもらったときに巻かれた薄い布は、外へ出る際には服の下へ収めていた。
ミナは、料理に使うものを少しずつ買った。
肉と芋。
甘くなる根菜と、玉ねぎ。
店主の煮込みによく入っていた香草も、小さな束が手に入った。
同じ味になるかは、まだわからない。
ここで買える肉も、野菜も、コルナのものとは違う。
それでも、姉と食べるなら、この鍋にしたかった。
店に預けられた最初の夜、ミナの器へ入っていた煮込み。
姉に作れるようになったと、手紙で何度も書いたもの。
今日は、紙に味を書く日ではない。
*
予定の日の午後、ミナは共同台所へ立った。
切った芋と根菜を、鍋へ入れる。
肉は、小さくしすぎない。
火が通れば、匙でも分けられるように煮る。
「そこからは、私が持つよ」
管理人が、鍋の取っ手へ手を掛けた。
「ありがとうございます」
ミナは通る場所を空けた。
少し前なら、自分でできますと言いたくなったかもしれない。
今日は、作ったものをこぼさず食べてもらう方が大事だった。
鍋が火へ掛かる。
湯が温まり、肉の匂いが上がった。
匙で少しすくい、味を見る。
まだ薄い。
塩を足す前に、もう少し煮ることにした。
器を三つ、乾いた布へ並べる。
匙も、三本。
パンは、来てから切る。
配信は、始めなかった。
今日は、画面の向こうへ話すより先に、話したい人が来る。
*
「あと、どれくらい?」
町へ続く街道で、ニーナが尋ねた。
「一刻」
「さっきも、そう言わなかった?」
「歩けば縮む」
「はいはい」
ニーナは背負い紐を直した。
宿で受け取った返事には、夕飯もぜひ、とあった。
セリカはそれを読んでから、歩く速さを少し上げていた。
「ねえ。そんなに急ぐと、汗だくで着くよ」
セリカは足を緩めた。
言われれば調整するところは、仕事中と同じだった。
町の屋根が見えてきた。
ニーナは、セリカの横へ並ぶ。
「妹さん、あんたのことは、どこまで知ってるの?」
「冒険者だってこと」
「冠位なのは?」
「まだ、話していない」
ニーナは、隣の顔を見た。
「じゃあ、私からは言わない。挨拶のついでにする話でもないしね」
「ありがとう」
セリカは、下宿の住所を確かめた。
何度も見た紙だった。
道を尋ねるときには、番地まで迷わず言えた。
ニーナは先に近くの宿へ荷物を預けた。
弩も部屋へ置き、上着の埃を払う。
セリカは入口で待っていた。
「待たせた?」
「大丈夫」
返事は短かった。
けれど、いつもなら壁へ預ける背中が、今日はまっすぐだった。
*
扉を叩く音がした。
ミナは匙を置いた。
台所の入口まで来てから、火を弱めたことを思い出す。
鍋の蓋も、少しずらしてある。
大丈夫。
手を拭き、玄関へ向かった。
足は、廊下で少し速くなった。
扉を開ける。
旅の上着と、肩に掛けた荷物。
見上げた先に、姉の顔があった。
「……姉さん」
「ミナ」
声を聞いて、やっと、本当に来たのだと思った。
手紙に書かれていた人が、目の前にいる。
セリカは荷物を下ろした。
ミナを見て、少し膝を曲げる。
以前のように顔を確かめようとして、思ったより高いところへ目を戻した。
「背、伸びたね」
「少しだけ」
ミナは笑った。
姉も、口元を緩めた。
横にいたニーナは、その顔を見た。
仕事を終えた後にも、宿で手紙を読んだときにも、ここまで柔らかくはなっていなかった。
「……あんた、そんな声も出るんだ」
小さく漏れた言葉に、セリカが横を向く。
「何?」
「何でも。初めまして、ミナ。ニーナです。お姉さんと一緒に仕事をしてきました」
笑うと、片方の頬にえくぼができた。
ミナは頭を下げる。
「ミナです。来てくださって、ありがとうございます」
「こちらこそ。招いてくれて、ありがとう」
*
管理人が、台所から顔を出した。
「いらっしゃい。よく来てくれましたね」
セリカは向き直り、頭を下げた。
「妹が、お世話になっています」
「ちゃんと自分で暮らしているよ。今日は、朝から夕飯の支度をしてくれていた」
ミナは、少し落ち着かなくなった。
そんなふうに言われると、まだ鍋の味を確かめたくなった。
「煮込みを、作ったんだ。まだ、もう少し火に掛けているけど」
「ミナが?」
「うん。手紙に書いたもの。姉さんに、食べてもらいたくて」
セリカは、台所の方へ目を向けた。
肉と香草の匂いが、廊下まで来ている。
「……楽しみ」
短い声だった。
ミナは、それだけで嬉しかった。
台所へ案内しようとして、左手で扉を押さえ直す。
袖口が上がった。
セリカの目が止まった。
腕に巻かれた、薄い布。
ミナは、姉の視線を追ってから気づいた。
「その腕、どうしたの」
姉の手が伸び、触れる前で止まる。
顔は、まだ近かった。
けれど、さっきの笑みは消えていた。
「少し、痛めたの。もう、前よりは良くなっていて」
「何をして?」
ミナは、左腕を下ろした。
大丈夫だと言って、鍋へ戻りたい気持ちもあった。
せっかく、会えた日だった。
でも、ここまで聞いてくれる姉が、今は目の前にいた。
「採取に行ったとき、魔物に遭って。盾で、爪をそらしたんだけど」
セリカの指が、ゆっくり曲がった。
ミナへ触れないまま、一度、手を下ろす。
「……そう」
ニーナが、廊下の脇へ荷物を寄せた。
管理人は台所へ戻り、鍋を見ていてくれると言った。
セリカは、もう一度ミナの顔を見た。
「座って、聞かせて」
強い声ではなかった。
それでも、すぐに大丈夫で終わらせてはいけない気がした。
ミナはうなずいた。
「うん。……話したいこと、たくさんあるんだ」
姉が、机の椅子へ手を掛けた。
ミナの座る場所を、先に空けてくれる。
鍋の中では、煮込みが静かに煮えていた。
まだ、三人分の器へは入っていなかった。
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