第27話 次の一歩が、間に合う
採取地の葉は、朝露が乾き始めていた。
ミナは道の端で一度止まり、斜面と、その上の茂みを見た。
動くものは見えない。
来た道も、木の間から確かめられた。
盾を下ろし、袋の隣へ置く。
布を広げてから、目当ての株へしゃがんだ。
「今日は、花の開く前の葉です。茎は、あまり混ぜないように持ち帰ります」
水晶は肩紐へ固定してある。
自分の顔より、手元と、その向こうが映る角度だった。
文字板を見ると、数字が一になっていた。
〈こぐま:おはよう。道の具合はどうだ〉
「おはようございます。ここまでは、歩きやすかったです。帰りの坂には、少し砂利がありました」
〈こぐま:荷を持った帰りも、同じ足で歩けるようにしておけ〉
「はい」
ミナは、傷のない葉を一枚取った。
裏を見て、布へ並べる。
包丁は、次の株へ触れる前に鞘へ戻した。
採れるものは多かった。
それでも、今日は決めた量だけにする。
盾の重さは、来る道で十分にわかった。
*
半分ほどそろったとき、斜面の上で音がした。
乾いた葉が、続けて擦れた。
ミナは手を止める。
風なら、頭の上の枝も揺れる。
そちらは動いていなかった。
もう一度、低いところで葉が鳴った。
「……何か、います」
ミナは立ち上がった。
音のした方から目を離さず、布の端を寄せる。
全部をきれいに包み直す時間は取らなかった。
草を布ごと袋へ収め、口を閉じる。
小盾へ腕を通す。
帰る道の方へ、ゆっくり移った。
茂みの下から、細長い頭が出た。
茶色い毛。
短い耳と、尖った鼻先。
それから、長い胴が続いた。
普通のイタチより、ずっと大きい。
前足の爪は、草から持ち上がったときにも曲がった先が見えた。
講習で見せられた絵を思い出した。
鉤爪イタチ。
木へ登り、低い姿勢で走る魔物だった。
ミナは、もう一歩下がった。
魔物も、草の外へ出てきた。
逃げる方を見る。
道までは、数歩。
けれど、その先はしばらく開けている。
休憩所まで、走り続けられる距離ではなかった。
魔物は頭を低くしたまま、斜めに動いた。
ミナが下がる方へ、先回りするように。
腰の印へ、右手を当てる。
帰れなくなる可能性があるとき。
今、使う。
印が光った。
ミナは次に足を置く場所を見て、膝を少し曲げた。
軽くなったからといって、遠くまで跳ぼうとはしなかった。
*
王都の訓練場で、バルドは水晶を台へ置いた。
休憩の間に見始めた配信だった。
最初は、草の上を動く小さな手が映っていた。
今は、その向こうに低い頭がある。
「次の組は、少し待たせてくれ」
補助役へ言い、文字を打った。
〈こぐま:背を向けて走るな。木を間に置け。足を止めるな〉
少女は荷物を下ろしていた。
魔物を見る目を外さず、足元へ落とさないよう袋を脇へ置く。
印に触れたことも、バルドには見えていた。
こちらの言葉が出る前だった。
自分で、必要だと決めた。
バルドは通信具へ手を伸ばし、リュネールのギルドへ救援を取り次ぐよう連絡した。
配信の場所と、魔物の姿。
伝える間も、目は水晶へ戻った。
*
文字は、後ろへ下がる途中で読めた。
木。
来るとき、道の脇に太い幹があった。
左へ動けば、その向こうへ回れる。
ミナが足を出すと、イタチの胴が縮んだ。
前足が、一瞬、止まる。
跳んだ。
思ったより近かった。
ミナは左へ体をずらした。
盾を上げる。
爪が革へ掛かり、腕が後ろへ押された。
痛い。
顔のすぐ横を、毛のある胴が通った。
盾を引き戻そうとして、右足が砂利を踏む。
靴が少し滑った。
魔物は、地面へ着いていた。
その頭が、こちらへ向く。
止まってはいけない。
ミナは盾を胸の前へ戻し、木の方へ足を出した。
後ろの脚で体を送る。
上体だけが、先へ逃げない。
幹が、ミナと魔物の間へ入った。
ミナは息を吸った。
左腕が、じんじんする。
爪が触れただけで、この痛さだった。
正面で受けていたら、立っていられなかったかもしれない。
右手で包丁を抜く。
握った柄に、汗がついた。
木の向こうで、爪が樹皮を擦った。
*
魔物は、幹を回ってきた。
こちらから見て、右。
ミナも、その動きに合わせて位置を変える。
木へ背中をつけない。
次に動くところを、狭くしすぎない。
回り続けても、先には開けた道がある。
この魔物の方が、速い。
帯を使っている間なら、いくらでも逃げられるとは思えなかった。
イタチが、片方の前足を木へ掛けた。
長い胴が、斜めに持ち上がる。
上から来る。
ミナは、一歩離れた。
盾の上を見て、鼻先の向きを確かめる。
包丁を持つ手を、遠くへ伸ばさない。
毛のある背中を見た。
あそこへ刃を当てても、今の自分には、どこをどう切ればいいかわからない。
ガマとは、違った。
前足が木を離れた。
肘が伸び、胴の下に、毛の薄い折れ目が見えた。
ミナは、その場所を見た。
店主の声を、思い出した。
硬いところへ、無理に押すな。
曲がるところと、動く向きを見ろ。
でも、台の上の肉ではない。
こちらへ向かって、爪が来る。
イタチの体が、木から離れた。
ミナは、足を出した。
*
バルドの指が、文字板の上で止まった。
画面が、横へ動く。
少女が、相手の正面から外れる。
盾を伸ばして、そこで待ってはいなかった。
木へ近づきすぎず、離れる側へ体を運んでいる。
爪と体の間に盾を残したまま、右手を動かした。
以前なら、足を置いた後で、体を乗せ直していた。
その短い遅れの間に、相手は着いてしまう。
今は、選んだ場所へ体が来ていた。
次の足も、出ている。
「……追いついたな」
声が漏れた。
何でもできるようになったわけではない。
左腕は痛めた。
早く動く魔物の前で、危ない距離にも入った。
それでも、あの一歩には、間に合った。
バルドは、画面の向こうで足が止まらないことを見ていた。
*
盾へ、また爪が触れた。
ミナは面を少し傾け、足を動かした。
強く押し返そうとはしなかった。
爪が縁を擦り、外へ抜ける。
右手の刃が、伸びた前脚の付け根へ入った。
抵抗があった。
押し込まず、相手の動く向きへ短く引く。
柄が手の中でずれかけたが、握り直すより先に、刃を離した。
イタチが、鋭い声を上げた。
地面へ着いた前足が、崩れた。
胴が斜めに流れ、落ち葉が散る。
傷の深さは、わからない。
まだ、動いていた。
ミナはもう一歩離れた。
倒れたところへ近づかなかった。
魔物が顔を上げる。
歯が見えた。
でも、すぐには跳んでこない。
木を間に置き直し、道へ向かう。
目を外しきらず、足を運んだ。
袋は、斜面の脇にあった。
取りに戻れば、もう一度近づくことになる。
そのまま、離れた。
魔物の姿が木の陰へ隠れた。
見えなくなったからといって、終わったと思わない。
追ってくる音がないか聞きながら、道の曲がりまで進んだ。
左腕へ盾の重さがある。
右手には、包丁。
補助帯の光が、まだ腰で灯っていた。
*
次の標識まで来ると、文字板へ短い言葉が出た。
〈こぐま:ギルドへ伝えた。場所を知らせて、道を外れるな〉
ミナは、標識の番号を声に出した。
「ここまで、来ました。魔物は、さっきの木の方です。袋は、置いてきました」
言い終えるまで、息が続かなかった。
短く吸い直す。
周りを見る。
道は、曲がりの向こうから続いている。
すぐ脇に、腰を下ろせる低い石があった。
周囲をもう一度確かめ、包丁を鞘へ収めた。
それから、停止の印へ触れる。
光が弱まった。
脚へ、重さが戻った。
膝が震えた。
ミナは盾を持った腕を体へ寄せ、石に腰を下ろした。
さっきまで動けていた脚が、急に細く、頼りなく感じられた。
強く地面を蹴ったところが、張っている。
息を吐く。
もう一度、吐く。
〈こぐま:傷はあるか〉
「腕が、痛いです。脚は、疲れています」
袖を少し上げた。
盾の帯が当たっていたところは赤い。
爪で皮膚を切られた様子はなかった。
「血は、出ていません。盾は、外してもいいですか」
〈こぐま:周りを見てから。すぐ持てるところへ置け〉
ミナは道の曲がりへ目を戻し、帯を緩めた。
手を開くと、指も少し震えていた。
水筒は、袋の中だった。
ミナは、背中へ手を伸ばしかけて、止めた。
置いてきたことを、今になってはっきり感じる。
けれど、あの場所へ戻ることはできなかった。
*
待っている時間は、長く感じた。
こぐまさんの文字が、ときどき届いた。
道の向こうは見えるか。
息は、少し落ち着いたか。
足へ体重をかけられそうか。
ミナは、短く答えた。
普段の配信のように、何を話そうか考える余裕はなかった。
やがて、町の方から二人の職員が来た。
一人は護衛の装備をつけていた。
もう一人がミナの前へしゃがみ、名前と、痛むところを確かめた。
「連絡を受けて来ました。ここで待てたんですね」
ミナは、うなずいた。
答えたら、声が変になりそうだった。
水を渡された。
両手で持ち、少しずつ飲む。
「歩けるか、一度確かめましょう。無理なら、ここで休んでからにします」
職員に支えてもらい、立った。
脚は重い。
それでも、ゆっくりなら足を出せた。
護衛役が、来た道と魔物のいた方を見る。
回収と周辺の確認には、別の担当を向かわせるという。
「袋の中には、包んだ草と、水筒があります」
「わかりました。今は、あなたが戻る方を先にしましょう」
ミナは盾を持った。
職員が、代わりに運ぼうかと尋ねる。
少し迷ってから、渡した。
左腕には、まだ力を入れたくなかった。
「……ありがとうございます」
水晶へ顔を向ける。
「ギルドの方が、来てくださいました。これから、戻ります」
〈こぐま:ああ。ついて帰れ〉
ミナはうなずき、公開配信を終えた。
位置の共有と記録は、そのまま続けた。
*
ギルドでは、腕と脚を診てもらった。
左腕は衝撃で痛めていた。
今日は盾を持つ練習をせず、様子を見るように言われる。
脚にも、急に強く動いた疲れが残っていた。
補助帯を使ったことを伝え、説明の紙を出した。
試用の連絡先へ、実際に使った状況と、使った後の具合も知らせてもらうことになった。
報告では、魔物を見つけた場所を地図へ示した。
初めに聞こえた音。
帰ろうとしてから、距離を詰められたこと。
木を間に置いた場所と、離れた道。
「魔物は、倒しましたか」
ミナは首を振った。
「傷をつけました。でも、まだ動いていました。追ってこなくなったところで、離れました」
「わかりました。傷を負った個体として、確認する担当へ伝えます」
依頼の草は、まだ全部そろっていない。
袋も、その場にはなかった。
事情を記録し、依頼をどう扱うかは回収後に確認することになった。
ミナは机の上の札を見た。
今日は、完了の印をもらって帰る日にはならなかった。
けれど、ここへ戻って、話すことができた。
*
王都の訓練場で、バルドは通信具を置いた。
ギルドへ収容したとの連絡を受け、ようやく肩から力を抜く。
休憩は、予定より長くなっていた。
補助役が、次の組の順番を調整してくれている。
「待たせた。ありがとう」
バルドは水を一口飲んだ。
水晶の記録には、最後に少女がうなずく姿が残っていた。
腕は痛めた。
荷物も置いてきた。
相手へ刃を入れる距離は、短い武器ではどうしても近くなる。
考えなければならないことは、多かった。
それでも、自分で使うと決めた。
盾の陰に立ち止まらず、習った足を動かした。
相手が崩れた後、確かめに近づかなかった。
バルドは水晶をしまった。
今夜、話せるなら、まず戻れたことを言おうと思った。
*
下宿へ戻ると、管理人が椅子を引いてくれた。
「今日は、こちらで少し休んでおいき」
ギルドから、帰る前に連絡が入っていたらしい。
ミナは座り、預かっていた盾を膝の横へ置いた。
表の革には、新しい傷があった。
細い線が、縁まで続いている。
爪が滑った跡だった。
ミナは、その線へ右の指を近づけた。
触れる前に、左腕を見た。
袖の下は少し赤い。
でも、同じ線はついていなかった。
買うときに確かめた重さ。
何度も直した足の位置。
袋を外す練習。
どれも、今日の道に持っていけていた。
ミナは盾を椅子の脇へ立てかけた。
左腕へ、そっと手を当てる。
痛かった。
それでも、腕はここにあった。
「……買って、練習しておいて、よかったです」
管理人は、うなずいた。
「帰ってきてくれて、よかったよ」
温かい椀が、机へ置かれた。
ミナは右手で匙を持った。
今は、ゆっくり食べられた。
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