第23話 この手に合わせたもの
練習室の扉の前で、ミナは袋の紐を持ち直した。
午前の納品は、予定どおり終わった。
手も洗った。
持ってくるように言われた包丁も、鞘へ収めてある。
それでも、扉へ手を伸ばす前に、もう一度、案内の紙を見た。
営生冠オルヴェン。
匠冠リゼ。
紙に書かれた名前は、何度読んでも変わらなかった。
「どうぞ。お二人とも、いらしています」
案内してくれた職員が、扉を開けた。
広い部屋の中央に、椅子と小さな机がある。
机には布の帯と、幾つかの工具。
窓際で記録を確かめていた老紳士が、顔を上げた。
「こんにちは。来てくれて、ありがとう」
白い眉が長かった。
声は穏やかで、配信の文字を読むときに思い描いていた声と、少し似ていた。
「オルヴェンです。いつもは、湯のみと名乗っているね」
「ミナです。あの、いつも、ありがとうございます」
頭を下げると、横から明るい声がした。
「こちらこそ。針しごとです」
短く整えた赤茶色の髪と、落ち着いた色の上着。
女性の手には、留め具が一つあった。
「リゼと呼んでね。今日は、ミナさんでいい?」
「はい」
返事をしてから、ミナは顔を上げた。
「……お二人とも、本当に」
「冠位?」
リゼが笑った。
「ええ。でも、今まで話していたのも私たちよ」
ミナは、机の工具を見た。
手袋の縫い方を教えてくれた文字を思い出す。
あのときも、この手で道具を使っていたのだろうか。
隣の老紳士は、椅子を一脚、こちらへ向けてくれた。
「まず、荷物を置こう。話す間は、座っていてくれるかね」
言われてから、まだ袋を背負っていたことに気づいた。
ミナは紐を外した。
*
机の上の補助帯は、思ったより薄かった。
幅のある布に、革の当てが縫いつけてある。
短い帯が二本、そこから伸びていた。
留め具のそばには、小さな魔石を収める部分があった。
「今日使う力は、この魔石から取る」
オルヴェンが、指で示した。
「君の魔力を使う試験は、今日はしない。まず、どのくらい補助が入ると動きやすいかを確かめたい」
ミナはうなずいた。
自分にできる魔法は、小さな火を出すくらいだと伝える。
「それも、道具を選ぶときの大事な情報だね」
オルヴェンは記録へ書き込んだ。
リゼは帯を持ち、腰と脚へどう当てるかを説明した。
動作の途中でも補助を止められる印と、帯そのものを外す留め具。
ミナは、つける前にどちらも試した。
「印を押すと、力が止まるんですね」
「そう。留め具は、帯を外す方。押す場所は、手が届きやすいところへ合わせるわ」
腰の位置を確かめ、脚の帯を調整する。
リゼの指は、布の縁を何度か撫でた。
「ここ、当たる?」
「今は、大丈夫です」
「動いた後にも聞くから、変わったら教えて」
職員が、部屋の端で時刻を記録した。
今日は試験を受ける日ではない。
わからないことを言っても、できなかったことを伝えてもいい。
ミナは、椅子へ座り直した。
*
初めは、補助を入れずに立った。
足を少し引き、体を前へ移す。
座面から腰が離れた。
立ち上がってから、同じ椅子へ戻る。
「今度は、一番低いところから」
オルヴェンが言った。
帯の印が、小さく光る。
ミナは同じ場所へ足を置いた。
息を吐いて、立つ。
思ったより、腰が早く浮いた。
「……軽いです」
声にすると、二人がこちらを見た。
「どのあたりが?」
「立つときの、ここが」
ミナは、腰と太腿の間を示した。
椅子が少し高くなったような気もする。
でも、椅子の脚は変わっていない。
「もう一度、座ってみて」
リゼに言われ、膝を曲げる。
途中で、腰の帯が少し上へずれた。
「あ、ここが」
手を当てると、リゼがしゃがんだ。
「今の動きでずれたわね。いったん外すわ」
帯を直し、同じ動作をする。
今度は座る途中で、わざと一度止まった。
もう一度立ち、印を押して補助を切る。
体が重くなった気がした。
元に戻っただけだとわかっていても、違いははっきりしていた。
「今、少し急に感じました」
オルヴェンの筆が動いた。
「切れたときに、支えがなくなった感じかね」
「はい。自分で立っているんですけど、思っていたより力が要りました」
「その感覚も、覚えておきたい。補助を受けた後は、元の力を少なく見積もってしまうことがある」
ミナは椅子を見た。
もう一度、補助のない状態で立ってみた。
できる。
ただ、さっきと同じつもりでは、いけない。
*
軽い箱を持つ動作も、試した。
床へ置いたものを、そのまま腰だけ曲げて取ろうとすると、リゼに足の位置を直された。
膝を曲げ、箱へ近づく。
補助が入ると、持ち上げるときの負担が少し減った。
それでも、箱の角が腕へ当たる感じは変わらなかった。
「持ちやすい形かどうかは、別なんですね」
「ええ。そこまで魔法で片づけたことにしたら、道具の方を直せなくなるもの」
リゼは箱を机へ置いた。
休憩を挟んでから、帯のずれを確かめるため、足を踏み替えた。
横へ一歩。
戻って、反対へ。
「いつもどおりでいいわ。大きく動く必要はないから」
ミナは足元を見た。
防御講座で、何度も直した場所。
足を交差させず、体を置くところを先に空ける。
ゆっくりなら、できるようになっていた。
リゼが、帯から顔を上げた。
「その足の置き方、講座で?」
「はい。盾を持っていないときの動きです」
もう一度、横へ動く。
前の足へ体を移すとき、後ろの脚に力が入る。
すぐに戻ろうとすると、上体だけが先に揺れた。
「そこで、一度止まろう」
オルヴェンが言った。
ミナは足を揃え直した。
「次に足を置くところは、決めていたのかね」
「はい。でも、早くしようとすると、そこへ体を持っていけなくて」
リゼが、補助帯の記録を見た。
「今日の補助は、その動きには合わせていないわ。立ち上がるときに軽くなったからといって、横へ退くときも同じにはならないの」
ミナは帯の印へ触れた。
さっき感じた軽さが、どんな動きにも使えるものだと思いかけていた。
「こういう動きも、楽にできるようになりますか」
「確かめたいことは増えるけれど、歩き出しや踏ん張る動作へ広げることは考えられる」
オルヴェンは、新しい欄を作った。
「採取の帰りに足場が崩れたときや、避けなければならないときにも、役立つかもしれないね」
リゼが、ミナの足の位置をもう一度見た。
「動き方は覚えていたのね。今日は、体に無理をさせず、ここまでにしましょう」
ミナはうなずいた。
まだ、思ったようには動けなかった。
でも、できなかったところを、見てもらうことができた。
*
帯を外した後、座って脚の具合を確かめた。
痛いところはない。
少し疲れていることは、二人へ伝えた。
職員が試用の終了時刻を書いた。
リゼも、調整した場所を記録する。
それから、机の上を片づけ始めた。
「では、もう一つ。包丁を見せてもらってもいい?」
ミナは袋へ手を伸ばした。
いつも使っている鞘を出し、机の空いたところへ置く。
リゼの手が、止まった。
さっきまで帯を包んでいた布を脇へ寄せ、別の布を広げる。
灯りと、拡大具が出てきた。
机に並ぶまでが、妙に早かった。
「触っても?」
「はい」
リゼが包丁を持った。
刃より先に、柄の重さを確かめる。
次に、灯りへかざした。
ミナは、彼女の顔を見た。
笑みが消えていた。
怖い顔ではなかったが、話しかけてよいか、少し迷った。
「……ここまで細かいの」
リゼが、息を吐いた。
角度を変える。
もう一度、拡大具を寄せる。
オルヴェンも、席を動かした。
「見えるかね」
「働きの大きな区切りは。でも、この細かな繋ぎ方を読むには、時間が要るわ」
リゼが刃の端を指した。
「薄く刻めばいいというものではないの。重ねた働きが、使うときに邪魔をしないように収めてある」
道具を作る最高峰の人が、包丁から目を離さない。
ミナは、自分の膝へ手を置いた。
「これ、切れやすくしてあるんですか」
「ええ。ただ、何でも同じように切る仕組みではなさそう。あなたが普段、どう使うかも見たいの」
*
確認に使うための、硬く乾いた肉が用意されていた。
厚いところと、筋の向きが違うところがある。
ミナは手を洗い、包丁を受け取った。
まな板へ肉を置く。
繊維の向きを見て、最初に入れる場所を決めた。
少し斜めから、刃を入れる。
抵抗が増えたところで、角度を直した。
押す力を大きくする前に、切れる場所を探す。
肉が分かれた。
リゼは、切り口よりも、ミナの指を見ていた。
「いつも、そこで持ち直すの?」
「はい。無理に押すと、刃がずれるので」
「誰かに教わった?」
「店主さんに。最初は、押せば切れると思っていました」
ミナは柄を握り直した。
「この包丁も、手が痛いと言ったときに、持つところを直してくれました」
リゼが、柄の形へ目を落とす。
使い込んで滑らかになった木。
小さな手を置くところに、わずかな膨らみがある。
「そう。これも、合わせてあったのね」
彼女は自分の手を柄へ置き、すぐに戻した。
ミナが握るときとは、指の収まる場所が違っていた。
「刃の通り道を、あなたが選んでいる。術式は、その働きを助けているのよ」
「私が、ですか」
「ええ。いい道具でも、使い方まで全部代わってはくれないわ」
ミナは切った肉を見た。
岩背ガマを前に、手が震えたことも思い出した。
包丁がすごいから、あのとき助かった。
けれど、握った手のことまで、無かったことにはならないらしい。
*
「その店主さんの名前を、聞いてもいい?」
リゼが尋ねた。
ミナは少しだけ迷ってから、答えた。
「エドガーさんです」
二人の顔が、こちらへ向いた。
リゼが、もう一度包丁を見た。
今度は、確かめる場所を知っているような目だった。
「……やはり」
ミナは記録帳を出した。
後ろの方に、冊子から写した言葉がある。
「前に、冠位の本を読みました。同じ名前の方がいて。でも、絵は若い人だったので、わからなくて」
頁を開き、机へ置く。
刻冠エドガー。
「この人と、同じ方ですか」
リゼは、写された文字を見た。
「私が見たことのある、刻冠の道具と同じ組み方があるわ。線を閉じるところと、働きを逃がすところ。図だけ真似ても、こうは刻めない」
包丁を、布の上へそっと置いた。
「名前も、手仕事も一致している。この包丁を直して、あなたに渡したのがその人なら、刻冠エドガー様だと思う」
オルヴェンが、静かにうなずいた。
「細かな付与を扱う技術では、私たちも頼った方だよ。食堂をしていたことは、知らなかった」
ミナは二人を見た。
店主は、冠位だった。
同じ名前を見たときには、遠い本の中の話だった。
今、その人を知る手が、自分の包丁を持っている。
「……私には、料理を教えてくれました」
出てきた言葉は、それだった。
「味を見てから塩を足すこととか。切ったものを、置く場所を先に空けることとか」
リゼは、黙って聞いていた。
「包丁を置く場所も、決めるようにって。探している間に、手を切るから」
古い厨房の棚を思い出す。
手を伸ばせば、いつもの場所に柄があった。
店主が立っているときも、自分が一人で仕込みをするときも。
その人が、王城で認められるほどの技術を持っていた。
驚いた。
でも、急に違う人の顔にはならなかった。
リゼが、鞘をミナの方へ寄せた。
「その手で使えるように、渡してくれたのね」
ミナは包丁を取った。
柄の手触りは、さっきと同じだった。
*
リゼは、見てわかったことを紙へ書いてくれた。
さらに調べるなら、別に時間を取って、ミナの了承を得てからにしたいという。
今日は、包丁を預けなかった。
夕飯を作るときにも、明日の採取にも使う。
リゼは、それを聞いてうなずいた。
「使いながら残っている道具だものね」
補助帯も、持ち帰ることにはならなかった。
今日の感想をもとに、次の調整をする。
改めて試す日を決め、ミナは記録へ書き込んだ。
「率直に話してくれて、助かったよ」
オルヴェンが言った。
「こちらこそ、ありがとうございました」
ミナは立ち上がった。
今度は、自分の脚の力だった。
袋を背負い、包丁の位置を確かめる。
冠位の作ったものでも、入れる場所は変わらない。
練習室を出る前に、リゼへ顔を向けた。
「店主さんのこと、また聞いてもいいですか」
「ええ。私が知っていることなら」
ミナはうなずいた。
知らなかったことは、まだたくさんあった。
聞ける人が、今日は二人増えた。
*
扉が閉まり、ミナの足音が遠ざかった。
リゼは、包丁を置いていた布を見ていた。
拡大具を片づける手が、途中で止まる。
「エドガー様の付与術式は、完全には伝承されていないわ」
オルヴェンが顔を上げた。
「図も、解説も遺されている。だが、あの密度で刻み、干渉を抑えて働かせる技術まではね」
「ええ。私にも、今見たものをそのまま作れるとは言えない」
リゼは記録の端へ、細い線を一本引いた。
紙に描くことと、実際の刃へ刻むことは違う。
今日、見えたのは、その一部だった。
「あの子も、知らないはずよ。自分が毎日使っているものが、どれほど希少なのか」
「作者の名を知ったばかりだからね」
「それもあって、今では遺された術式つきの装備は、伝説の品のように扱われている。保管されて、使うところさえ見られないものもあるのに」
ミナは、明日の採取にも使うと言った。
夕飯を作るため、持って帰った。
リゼは、自分の指を見た。
あの柄は、彼女の手には少し小さかった。
ミナが握ると、指が自然に収まった。
「もし、あの包丁に刻まれた術式を、剣に合わせて組めたら」
オルヴェンは、すぐには答えなかった。
硬いところへ無理に押し込まず、構造の境へ刃を通す。
少ない力で、その働きを助ける。
切る場所を選ぶ手が、先ほど目の前にあった。
「国宝級だろうな」
静かな声だった。
「もちろん、持つだけで何でも切れるわけではない。境を見極め、正しく刃を通せる者が要る」
リゼはうなずいた。
肉を分けるために使った技量が、別の目的へ向けられたら。
刃を当てる場所を、迷いなく選べる者に渡ったら。
「そして、持つ人によっては」
オルヴェンの言葉を、リゼが引き取った。
「……悪魔の武器になる」
練習室に、短い沈黙が落ちた。
机の上には、包丁を包んでいた布が残っていた。
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