第22話 お料理の先生ではありません
リゼが研究室へ来たとき、オルヴェンは古い記録帳も机に出していた。
新しく組み直した術式の図。
その隣に、身体の動きを補助する試験の記録。
リゼは上着を椅子へ掛け、二つを見比べた。
「荷を持ち上げるときと、立ち上がるとき。まずは、そのくらいから?」
「ああ。歩く間ずっと力を足すより、必要な動きに絞りたい」
オルヴェンが、図の一部を指した。
「働きの切り替えに、今回の仕組みを使えると思う。力を要らなくなったところから、外していく」
リゼは紙を自分の方へ寄せた。
「動くときだけ補助するのはいい。でも、使う人が止まりたいときは?」
「止まれば、こちらも——」
「立とうとして、途中で座り直すこともあるでしょう。荷物を持ちかけて、やめることも」
オルヴェンは、答えかけた口を閉じた。
記録にある動作は、持ち上げるところまで行う試験だった。
その途中でやめたときの数値は、少ない。
「……先に、確かめる必要があるね」
「体を助けるものが、予定どおり動けと押してしまったら困るわ」
リゼが別の紙へ線を引く。
身につける帯と、力を受ける位置。
留め具は、片手でも外せるところへ置いた。
オルヴェンは、その横へ術式の印を書き足した。
「補助を止める方は、動作の切り替えとは別にしておこう」
「ええ。使う人が迷ったら、一度止められる方がいい」
魔法を小さく、安定して働かせること。
それを、人が使う形へ収めること。
二つの紙の間に、少しずつ線が増えていった。
*
その日の夕方、オルヴェンは筆を置いた。
「すまない。今日は、ここまでにしたい」
リゼが時計を見た。
「お出かけ?」
「家へ帰る約束をしていてね」
リゼは少し驚いたが言葉を返した。
「それなら、続きは明日ね。こちらも工房で用意してくるものがあるから」
図をまとめ、二人は研究室を出た。
オルヴェンは帰宅のために手配した馬車へ乗る。
膝の上に置く荷物を、いつもより少なくした。
家へ着いたのは、六時より少し前だった。
玄関のそばの鉢が、増えていた。
知っているものもある。
知らない花も咲いていた。
「ただいま」
扉を開けると、妻が台所から顔を出した。
「おかえりなさい。手を洗ってきて」
食卓には、二人分の皿があった。
オルヴェンは、いつもの席へ座った。
椅子の背を手で確かめてから、膝へ布を広げる。
煮た豆と、焼いた魚。
湯気が、まだ上がっている。
「今日は、何をしていたんだい」
妻が匙を取る前に、尋ねた。
彼女は少し目を上げた。
「午前中は買い物。午後は庭の手入れを。玄関の花、見た?」
「ああ。あれは、いつから?」
「先月。娘が持ってきてくれたの」
知らなかった。
娘が家へ来ていたことも、鉢を持ってきたことも。
オルヴェンは、魚を一口食べた。
身は温かく、皮に塩の味がした。
「よく咲いていたね」
「水をやっているもの」
妻はそう言い、豆を取り分けた。
当たり前のことを、当たり前に話している。
オルヴェンは、その続きを聞いた。
研究の話をしたのは、皿の中身が半分ほど減ってからだった。
*
翌日から、工房と研究室の間を、試作品が行き来した。
初めは台に固定し、重りを持ち上げる。
途中で止める。
重りを戻し、違う高さからやり直す。
身につける帯へ組み込んでからは、低い出力で、人の動作を確かめた。
椅子から立つ。
軽い箱を持つ。
持とうとして、やめる。
「立つ方は、少し楽です。でも、座るとき、腰のところが当たります」
研究員の言葉を聞き、リゼは帯の位置を直した。
「ここ?」
「そこです」
補助を切って、同じ動きをする。
もう一度つけ、違いを記録する。
魔力を減らせても、留め具が肌を挟めば使ってもらえない。
帯を柔らかくしても、力を受ける場所がずれれば、動きにくくなる。
試験の間には、待つ時間があった。
使った後に違和感が残らないかも聞く。
その日のうちに変えたところを、次の日にまた確かめる。
オルヴェンは、毎日、試験を終える時刻を先に決めた。
帰れない日は、夕飯の前に連絡をした。
帰る日は、記録帳を机へ置いていった。
幾日か過ぎて、リゼが試作品を持ち上げた。
「この範囲なら、研究室の動き方を知らない人にも試してもらえそうね」
「ああ。説明する側が慣れすぎていて、抜かしてしまうこともある」
オルヴェンが、試用の手順を見直した。
「依頼するとしたら、思い当たる相手がいるんだ」
*
「採取の仕事を始めた子でね」
オルヴェンは、机の器へ目を向けた。
「今回の研究のヒントをくれた。お礼も伝えたが、もし興味があれば、こちらにも意見を聞いてみたい」
リゼは留め具を確かめていた手を止めた。
「研究のヒントを?」
「ああ。料理の手順を見て、考え方を変えられたんだ」
「……その子、配信で料理をしていません?」
オルヴェンが顔を上げた。
「しているが」
「小さな鍋を使って。包丁は、かなり使い込んだものを」
「君も、こなべさんを知っているのかね」
リゼは、試作品を机へ置いた。
「……湯のみさん?」
オルヴェンの眉が上がった。
その名前を、研究室で呼ばれたことはなかった。
「そういう君は」
「針しごとです」
二人は、しばらく顔を見合わせた。
リゼが先に、息を漏らした。
「この前、研究の話を聞いていたのに」
「私も、道具の話をする人だとは思っていたよ」
「それで、今日も私に説明していたのね」
「君が見ていたとは、思わなかったからね」
リゼは椅子へ座り直した。
丁寧で、返事までに少し間のある文字。
あの言葉を、目の前の老魔術師が打っていたのか。
「灰ねこと、こぐまは?」
オルヴェンが尋ねた。
リゼは口元へ指を当てた。
「それは本人たちから聞いてください。私も、配信の中で勝手には呼べないもの」
「なるほど」
オルヴェンも笑った。
半年に一度、王城で顔を合わせる相手とは、研究や仕事の話をしてきた。
小さな夕飯の鍋を、別々の場所で見ていたとは知らなかった。
「君は、何がきっかけで?」
「初めは、料理。今は、道具も気になるわ」
「道具?」
リゼは、手袋の修繕を助言したことを話した。
使い手が直したものを、その後も使っているのが嬉しいと。
「それと、包丁」
言葉が、少し強くなった。
「画面だけでは、確かめられないところがあるの」
オルヴェンは、机の上の補助帯を見た。
「試用の調整へ行くなら、君にも来てもらいたいと思っていた」
「ええ。もちろん」
返事が、早かった。
*
その晩、ミナの配信へ来たのは、湯のみさんだった。
食事を終え、机の上で採取袋の仕切りを直している。
先日の葉がずれたので、布の厚さを変えてみたかった。
〈湯のみ:今日は、少し相談があるのだが〉
ミナは針を置いた。
「はい」
身体の動作を助ける道具を、試しているという。
荷物を持つときや、立ち上がるときの負担を軽くしたい。
低い出力での試用に、興味があるだろうか。
ミナは、自分の採取袋を見た。
行きには軽く、帰りには重くなるもの。
「使ってみたいです。でも、私で、何かわかるでしょうか」
〈湯のみ:使ってみて、どう感じたかを聞かせてほしい。合わない、わからないということも、役に立つ〉
視聴者が、二になった。
〈針しごと:製作と調整は、私が担当しているの〉
「針しごとさんも?」
〈針しごと:ええ。詳しい内容を読んでから、決めてもらっていいわ〉
文字を読んでいるうちに、ミナは姿勢を直していた。
いつもの夕飯の話より、確かめたいことが多い。
どこで使うのか。何をするのか。自分の魔力でもよいのか。
〈湯のみ:普段使っているギルドを通して、案内を渡せるだろうか〉
「明日、受付で聞いてみます。受け取れるようにしてから、お伝えしますね」
今夜、全部を決める必要はなかった。
まず、話を読めるようにする。
ミナは記録帳へ、案内を受け取ることを書いた。
続けて、針を持つ手を止めたときの袋の重さも書いておいた。
*
ギルドへの取り次ぎを頼んでから、数日後。
ミナは受付で、自分宛ての案内を渡された。
登録名と、配信名。
あらかじめ伝えていた二つが、封筒の宛名に書かれていた。
「ミナさん。こちら、ご相談の案内です」
「ありがとうございます」
受け取ろうとすると、受付の女性が、もう一枚の確認用紙へ目を落とした。
次に、ミナの顔を見る。
「営生冠オルヴェン様と、匠冠リゼ様からです。……お心当たりは、ありますか」
ミナの手が止まった。
「冠位、ですか」
女性も、少し止まった。
「はい」
封筒の中には、試用内容と連絡先が書かれた紙が入っていた。
添えられた短い文の最後に、見慣れた名前がある。
湯のみ。
針しごと。
ミナは、二度読んだ。
湯のみさんは、研究をしている人だった。
針しごとさんは、道具を直すことに詳しい人だった。
それは、知っていた。
その上に、冠位という言葉が載っている。
「……この方たち、です」
ようやく答えると、受付は少し声を落とした。
「失礼ですが、お二人とは、どういったご関係で?」
「配信を、見てくださっています」
「配信」
「料理の」
「……料理」
女性は確認用紙を見た。
研究への試用協力。
応募者を広く募る案内ではなく、相手を指定した依頼だった。
「以前から、お会いになっていたわけでは?」
「いえ。お会いするのは、初めてです」
「では、ご親戚など……実は、オルヴェン様のお孫さんだったり?」
「違います。湯のみさんです」
「湯のみ?」
「あっ。配信でのお名前が」
ミナは紙の端を示した。
女性が、そこへ目を寄せる。
「こちらで、研究の役に立ったと教えていただいて。でも、私がしたのは、パンを温めただけで」
「パンを」
「はい。鍋から出して、お湯をお茶に使いました」
説明は、正しかった。
受付の顔は、さっきより考え込んでいた。
「オルヴェン様とリゼ様……お料理好きなのかしら……」
小さな独り言が、机の向こうから聞こえた。
彼女の頭には、鍋の前で手順を教える小さなミナと、その両側で真剣に聞く冠位二人が浮かんでいた。
営生冠が筆を持ち、匠冠が包丁の動きを覗き込む。
ミナが芋を一枚切るたび、二人がうなずく。
ありそうで、なさそうだった。
「……私が、教えているわけではないです」
ミナは、少しだけ付け足した。
自分が聞いて、助けてもらうことの方が、ずっと多い。
「失礼しました。まず、内容を確認しましょう」
受付が背筋を戻した。
同じ紙を、ミナにも読める向きへ置く。
*
試用は、ギルドの練習室で行う予定だった。
初めは、椅子から立つ動作と、軽い荷物を持つ動作。
身体に合わせて帯を調整し、補助のない場合とも比べる。
その日に採取へ持ち出すことは、予定に入っていなかった。
「長い距離を歩くわけでは、ないんですね」
「案内では、そうなっています。最初の説明と調整も含め、このくらいの時間を見てほしいと」
示された時間なら、午前に納品を終えてからでも間に合う。
ミナは、次に受けるつもりの依頼を思い出した。
引き受けて、行けなくなることはない。
その日は新しい採取地へは行かず、町へ戻れる仕事を選べばよい。
「こちらの日なら、伺えます」
「では、お返事を取り次ぎますね」
女性が日付を記録し、紙の最後へ目を動かした。
「それから、リゼ様より追伸が。差し支えなければ、いつもの包丁も持参してほしいそうです」
「あ、包丁なら、いつも持っています」
ミナは少し安心した。
用意したことのないものばかりではなかった。
受付は、採取袋と、案内の名前を交互に見た。
冠位二人に招かれ、持ち物は包丁。
やはり、料理の話もするのだろうか。
ミナは封筒を袋の内側へ収めた。
薄い紙なのに、さっきより重く感じた。
*
リゼは、工房で持参する道具を選んでいた。
補助帯の部品。
調整用の工具。
寸法を取る紐と、替えの留め具。
その横へ、細かな付与の線を見るための拡大具を置く。
角度を変えて照らせる小さな灯りも。
観察の記録に使う、薄い紙まで揃えた。
「ずいぶん、細かく測るんですね」
工房の弟子が、道具の列を見て言った。
「使う人に合わせるんだから、当然でしょう」
リゼは補助帯を包んだ。
包丁を見る道具も、別の布へ収める。
念のため、と言って、一度開き直した。
灯りの向きを確かめ、もう一度閉じる。
今度は、画面の向こうではない。
あの刃を持つ手ごと、確かめられる。
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