第21話 温かいうちに
浄化の灯りが、消えた。
オルヴェンは、机の上の器から目を離さなかった。
水に沈めた測定用の細い棒は、まだ、同じ目盛りを指している。
保温の灯りも消えていない。
隣に座る研究員が、記録へ数字を書き込んだ。
「消費量が下がりました」
「保温の方は」
「変わりません。揺れも、今のところは」
オルヴェンはうなずいた。
白く長い眉の下で、目が少し細くなる。
「では、このまま」
王都の研究棟には、水の入った器が幾つも並んでいた。
同じ術式でも、水の量や初めの温度が違えば、働き方は変わる。
きれいになった水を温め、必要な間だけ保つ。
それぞれなら、すでに使える魔法だった。
問題は、一つの設備として繋いだときに起きた。
浄化を終えても、その部分が魔力を使い続ける。
そこだけ止めようとすると、熱を保つ方も乱れる。
使う側の魔力を減らすために組み合わせたものが、組み合わせたせいで、余計な力を求めていた。
繋ぎ方を変えた。
出力を落とした。
止まる順番も変えた。
何冊もの記録に、似た結果が残っている。
今日の器では、もう仕事のない部分が静かだった。
必要なところだけが、働いている。
「再開を試しますか」
研究員に聞かれ、オルヴェンは首を振った。
「先に、この状態が続くことを確かめよう」
指を、古い記録の端へ置いた。
以前の試験では、ここから崩れた。
わずかな揺れを、成功の喜びで見逃すわけにはいかなかった。
窓の光が、机の上をゆっくり移った。
器の水は、温かいままだった。
*
夕方、最後の試験を終えた。
停止した働きを再び動かしても、隣の働きは乱れない。
水量を変えた器でも、同じ結果が得られた。
生活の中で長く使うには、まだ確かめることがある。
それでも、行き止まりだった場所に、道ができていた。
「先生」
研究員が、記録を持ったまま笑った。
「今度は、先へ進めますね」
「ああ」
オルヴェンは、器を一つずつ見た。
「皆にも、今日の記録を渡しておこう。明日は、条件を変えて続けられる」
紙を揃える手が、少し急いでいた。
そのまま次の試験を始めたくなる。
だが、机の向こうでは、研究員が自分の道具を片づけていた。
オルヴェンも筆を置いた。
「今日は、ここまでにしよう」
若い研究員が、一瞬だけ驚いた顔をした。
それから、いつもより明るく返事をした。
扉が閉まると、研究室は静かになった。
誰かに、話したかった。
この数字が何を意味するか、どんなところで役に立つか。
研究員には、何度も説明した。
それとは違う相手に、今日はうまくいったと言いたかった。
机の端に、冷めた茶があった。
朝、入れたものだったか。
覚えていなかった。
オルヴェンは、携帯用の水晶を手に取った。
保存していた記録の一覧に、少女の小さな鍋がある。
あの晩、パンの皿が鍋から外された。
パンは布へ包まれ、残った湯は茶へ使われた。
終わった方を、切り離す。
必要な状態が違うのなら、全部を同じまま保つ必要はない。
誰に教えられなくても、知っていることのはずだった。
実際、独立して動く術式も、切り替える技術も、自分の記録にあった。
ただ、繋いだまま一緒に安定させることへ、目を向け続けていた。
鍋から皿を外す、小さな手。
その動きが、積み重なった記録の、別の開き方を教えてくれた。
配信の欄に、灯りがついていた。
*
「今日は、昨日残しておいた肉を使いました」
ミナは、小さな椀を机へ置いた。
肉と玉ねぎを炒め、少しの湯で鍋についた旨味を集めたものを、焼いたパンへ載せてある。
台所での作業は、もう終わっていた。
今日は町で買い物をし、道具の手入れをした。
明日使う布も乾いている。
夕飯を食べながら、採取地の地図を見直すつもりだった。
視聴者は、一人。
名前を確かめ、ミナは顔を上げた。
「湯のみさん、こんばんは」
少しして、文字板に返事が出た。
〈湯のみ:こんばんは。先に、お祝いを言わせてもらってもよいかね〉
「はい?」
〈湯のみ:試験の合格、おめでとう〉
ミナは笑った。
「ありがとうございます。昨日の記録も、見てくださったんですか」
〈湯のみ:うむ。新しい道も、選べるようになったそうだね〉
「はい。行く前に調べることは、増えそうですけど」
折った地図を、椀の横から少し離した。
食べ物の汁がつかない場所へ置く。
〈湯のみ:それと、もう一つ。以前の蒸しパンの話が、私の研究の助けになった〉
ミナは、匙を持つ手を止めた。
「蒸しパン、ですか?」
〈湯のみ:硬くなったパンを温めた晩のことだよ。皿を外し、湯を別に使っていたね〉
あのときは、図鑑の続きを読もうとしていた。
新しく来た人と、初めて話した晩でもあった。
「はい。でも、私、魔法のことはほとんどわかりません。研究って、魔法の研究ですか?」
〈湯のみ:そう。水をきれいにして、温めておく仕組みを調べている〉
返事が、幾つかに分かれて届いた。
ミナが読んでいる間、次の文字は来なかった。
〈湯のみ:きれいにする仕事が済んでも、そこが力を使い続けていた。止めると、温める方まで乱れてしまう〉
「お湯を置いておきたいのに、パンの方も、ずっと蒸しているみたいなことですか?」
〈湯のみ:そのたとえなら、近いね〉
ミナは、あの晩の鍋を思い出した。
パンは食べる分だけだった。
管理人にも茶を飲むか聞こうと思って、湯を残した。
〈湯のみ:一緒に動かすことに気を取られていた。終わった仕事を外してよいのだと、あの手順を見て、考え直せた〉
「……それで、できたんですか」
〈湯のみ:今日、確かめたいところを一つ越えられた。使ってもらうまでには、まだ仕事があるが〉
ミナは、文字板を少し見つめた。
「私のは、夕飯だったんですけど」
〈湯のみ:うむ。おかげで、見られたのだろうね〉
知らない人のために、何かを考えたわけではなかった。
店で覚えたことを、自分の鍋でやっていた。
それを見た人が、別の場所で役立ててくれた。
「お役に立てたなら、嬉しいです」
言ってから、口元が緩んだ。
「湯のみさんも、おめでとうございます」
返事が来るまで、少し間があった。
〈湯のみ:ありがとう〉
*
研究室で、オルヴェンは水晶へ目を向けたまま笑っていた。
少女は、何を作っている研究か、知らない。
机に並ぶ器も、何度も失敗した記録も、見たことがない。
それでも、できたことを喜んでくれた。
そうか。
今日、うまくいったと話すだけでも、よかったのか。
水晶の向こうで、パンが小さく切り分けられた。
ミナが一口食べ、少し考える。
「玉ねぎ、もう少し炒めてもよかったかもしれません。でも、昨日と違う味になりました」
オルヴェンは、自分の茶へ手を伸ばしかけた。
指先に触れた器は、冷たかった。
*
視聴者が、二になった。
〈針しごと:こんばんは。もう夕飯?〉
「はい。今日は、部屋で食べながらです。湯のみさんの研究が、一つ進んだそうですよ」
〈針しごと:研究をなさっているのね。おめでとうございます〉
〈湯のみ:ありがとう。こなべさんの料理に、助けてもらった〉
〈針しごと:それは、何を見つけたのか気になるわ〉
ミナは、蒸しパンの話をもう一度した。
自分にわかった範囲で、仕事が終わった方を止められるようになったのだと説明する。
〈針しごと:必要なところだけ動かせるなら、使う人も楽になりそう〉
〈湯のみ:そうなってほしいと思っている〉
ミナは、二人の文字を順に読んだ。
湯のみさんは、いつもより長く話してくれる。
針しごとさんも、作る人として聞きたいことがあるらしい。
「水をきれいにするの、魔力が少なくてもできるようになるんですか」
〈湯のみ:それを目指している。必要な力が少なければ、使える人も増えるからね〉
「私にも、使えるものが増えたら嬉しいです」
ミナにできる魔法は、小さな火を出すくらいだった。
それだけでも、火をつけるときには助かる。
水を用意することまで楽になれば、できることが変わるかもしれない。
〈湯のみ:私も、最初は水を運ぶ手間を減らしたかった〉
文字の続きを待ってから、ミナは聞いた。
「ご自分の、ですか?」
〈湯のみ:家の者の。朝から重い桶を運び、夜には薪を集める。少しでも軽くしたかった〉
ミナは、店の大きな鍋を思い出した。
水が入ると、一人では持ち上げられないものもあった。
「毎日することですもんね」
〈湯のみ:そうだね〉
ミナは、残ったパンをもう一口食べた。
「お祝いの料理、姉にも作ってあげたいです」
〈針しごと:昨日の包み焼き?〉
「はい。それか、店でよく作っていたものを。姉が帰ってくると、いつもより多く用意していました」
向かいに座る人の分まで、具を切る。
皿を二つ並べる。
店の客へ出す料理とは、少し違う嬉しさがあった。
「今度は、今の暮らしのことも、話したいです。手紙だと、書き忘れることがあって」
返事は、まだ来ていない。
届くまでの日数も、姉がいる場所によって違う。
ミナは椀を両手で持った。
「会えたら、温かいうちに食べてもらいます」
*
オルヴェンは、家の食卓を思い出していた。
向かいの席に、妻がいる。
娘と息子がまだ小さかった頃は、食卓の上を、いろいろな手が行き来した。
自分の話が長くなりすぎると、妻が先に食べなさいと言った。
いつから、研究が終わってから帰ることになっただろう。
一つの仕事が終わると、次に確かめたいことが見つかった。
そのたびに、もう少しだけと伝えた。
家の者は待ってくれた。
やがて、帰らない日の方が多くなった。
困らないよう、必要な金は送っていた。
便りも、来ていた。
孫が大きくなったと聞けば、贈り物も選んだ。
だが、自分がいない夕飯が、どんなものかは知らなかった。
ミナが、姉の皿を思い浮かべている。
作り終わることより、その先で誰と食べるかを楽しみにしている。
水運びを軽くしたいと思った家族と、自分は、いつ最後に朝の茶を飲んだだろう。
思い出そうとして、具体的な日が出てこなかった。
〈針しごと:食べ終わる前に冷めないよう、今日は地図を後にしたら?〉
「はい。ちょっと、話しすぎました」
少女が笑い、匙を持ち直した。
オルヴェンも、冷めた茶から手を離した。
〈湯のみ:私も、食事をしてこよう〉
「これからですか? ぜひ。今日は、お祝いですから」
水晶を置く前に、もう一つだけ文字を送った。
〈湯のみ:温かいうちに、いただくことにするよ〉
*
家の連絡先を開くとき、オルヴェンの指は、試験の器を扱うときよりためらった。
何から話せばいいだろう。
研究が進んだことか。
帰るのが遅くなったことか。
考えている間にも、夜は更けていく。
連絡を入れた。
しばらくして、妻の声がした。
「何か、入り用?」
オルヴェンは、口を閉じた。
家に頼むことがあるときの連絡だと、思われていた。
「いや。明日は、家で夕飯を食べたいと思って」
返事がなかった。
通信具の小さな灯りは、消えていない。
「明日?」
「ああ」
「何時に?」
仕事が終わったら。
そう答えかけて、止まった。
それでは、今までと同じだった。
「六時には、着くようにする」
妻が、少し息をついた。
「私は、六時に食べますよ」
「ああ。一緒に、食べたい」
短い沈黙の後、わかりました、と返ってきた。
何を食べたいかは、聞かれなかった。
明日の食卓は、もう妻の暮らしの中にあった。
「今日、研究が一つ進んだんだ」
「そう。よかったわね」
オルヴェンは、机の上の器を見た。
「明日、話してもよいかな」
「食べながらなら」
声の終わりに、昔と似た調子があった。
オルヴェンは、ゆっくりうなずいた。
連絡を終えてから、予定の紙へ帰宅の時刻を書いた。
そこまでに何を済ませ、何を研究員へ任せるかも書く。
明日から先の暮らしを、一度の約束で変えられるとは思わなかった。
まず、その席へ帰る。
*
夕食を取りに行く前に、別の記録帳を開いた。
身体の動きを助ける、補助術式。
荷を持ち上げるときや、立ち上がるときの負担を少し減らすため、以前から試していたものだった。
必要のない間も働かせれば、消耗が大きい。
止めたり動かしたりするたびに、使う人が操作していては、日々の手間が増える。
今日の仕組みを、そこへ組み込めるかもしれない。
オルヴェンは、試験の数字を写した。
すぐに人へ使えるものにはならない。
体へかかる力を、どこで、どれだけ受けるか。
術式だけ整っても、身につける道具が合わなければ、使い手を困らせる。
相談したい相手がいた。
冠位の仕事で使う連絡先から、匠冠リゼの工房宛てに、概要を送る。
浄化と保温の試験で得られたこと。
以前の身体補助の研究へ応用したいこと。
道具として形にできるか、一度意見を聞きたいこと。
配信の話は、書かなかった。
まずは、研究として確かめるべきことを伝える。
最後に、自分の名を入れた。
営生冠オルヴェン。
送信を確かめ、椅子から立つ。
今夜の食事を、今夜のうちに食べる。
明日の夕飯には、帰る時刻がある。
※近況ノートに挿し絵・キャラクター紹介イラストを掲載中です
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