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第19話 帰ってからのおめでとう

 トーマが、木の陰で足を動かした。

 灰色の獣も、同じ方へ回った。


 ミナには、その向こうの地面が見えていた。

 木の根元から斜めに伸びる、細い踏み跡。

 落ちた枝はある。でも、人の足を止めるほどのものではない。

 盾を持つ監督者の方へ、つながっている。


「……あそこ」


 前に立つ職員が、顔だけをこちらへ向けた。


「木の右側から、盾の人の後ろへ行けそうです。獣が、反対を向けば」


 声に出してから、ミナは唇を結んだ。

 自分から見える場所が、全部ではない。


「でも、向こう側は、見えません」


「わかりました。ここにいてください」


 職員は、通信具を口元へ寄せた。

 枝の向こうの監督者が、足元を見た。

 盾を前へ出したまま、少しずつ横へ移る。


 灰色の獣の背は、トーマの腰ほどまであった。

 太い首に、短い耳。鼻先を覆う毛は薄く、歯の間から唾液が落ちている。

 岩背ガマとは違う。

 見覚えがないことが、余計に怖かった。


 獣が盾へ飛びついた。

 鈍い音がして、監督者の靴が土を削った。

 トーマは木から離れず、獣の反対側へ回る。


 盾があっても、簡単には進めない。

 あの人は、自分の身だけを守っているのではない。


「退く道は確認できました」


 ミナの前の職員が言った。


「これから、奥の監督者が彼をこちらへ連れ出します。私は、この岩の前を守ります」


 剣を持つ手が、低く構え直された。


「合図をしたら、笛を一度だけ鳴らせますか。鳴らしたら、すぐ岩の奥へ下がってください。顔も手も出さないで」


 ミナは、笛を握った。


「はい」


「できなければ、そう言ってください」


 息を吸ってみる。

 胸は動いた。笛を口へ運ぶこともできる。


「できます」


 職員がうなずいた。

 ミナは袋を岩の内側へ寄せ、足を置く場所を確かめた。

 後ろに、枝はない。

 一歩下がれば、獣の姿は見えなくなる。


 通信具から、短い返事が来た。

 盾の監督者が、トーマへ何かを言う。

 トーマはうなずき、木の右側に足を向けた。


 獣は盾をにらんでいた。

 あちらの二人は、近い場所にいる。

 こっちから音がすれば、首だけでもこちらを向くかもしれない。


 職員の空いた手が、上がった。


「今」


 ミナは笛を吹いた。


 甲高い音が、岩と木の間を抜けた。

 獣の耳が動く。

 顔が、こちらへ向いた。


 ミナは下がった。

 最後まで見ようとはしなかった。

 講座で何度も直された足の置き方を、思い出す。

 脚を交差させず、岩の奥へ。


「こちらへ!」


 遠くの監督者の声。

 靴が地面を蹴る音が、続いた。


 ミナの前で、剣が鳴った。

 石に爪が当たる音もした。


 息を止めてしまい、慌てて吐く。

 手の中の笛が、歯に当たったところだけ湿っていた。


「そのまま、下がって」


 職員が言った。

 声は近かった。

 ミナは岩から離れすぎないよう、もう一歩動いた。


 そこへ、トーマが来た。

 肩で息をしている。腕に、細い擦り傷があった。

 その後ろから、盾の監督者も下がってくる。


「出口側へ。歩けますね」


「はい!」


 トーマが返事をした。

 ミナも、うなずいた。


 二人を迎えた分岐の職員が、出口へ続く道を示す。

 ミナはそちらへ歩きながら、一度だけ振り向いた。


 灰色の獣が、岩の端から姿を見せた。

 剣の職員が、その進路を塞ぐ。

 盾の監督者も、すぐ横へ並んだ。


 さらに向こうの道から、槍を持つ人が来ていた。

 後ろへ流れる角と、大きな耳。


「退避を続けて。こちらは引き受けます」


 ロゼッタの声がした。


 ミナは前を向いた。

 トーマの靴音が、隣で続いていた。


     *


 出口の待機所には、ほかの受験者も戻っていた。

 人数を数える職員が、一人ずつ名前を呼ぶ。

 返事をした人から、決められた場所へ座った。


 ミナは袋を足元へ置いた。

 指を開くと、笛の紐の跡が残っていた。


 トーマの腕を、救護の職員が洗っている。


「木の枝で?」


「はい。回り込んだときに。噛まれてはいません」


 袖の破れも確かめ、傷に布を当てる。

 トーマは少し顔をしかめたが、手当てが終わると頭を下げた。


 ミナにも、痛いところがないか聞かれた。

 首を振ってから、脚の重さはあると伝える。


「座って、水を少しずつ飲んでください」


 水筒の栓を開けると、指がうまく回らなかった。

 二度目で外れた。


「……ミナ」


 トーマが、隣の椅子へ腰を下ろした。


「笛、ありがとう」


「道が、見えたので。でも、職員さんが確かめてくれました」


「俺からは、見えなかったから。木から離れたら襲われると思って」


 彼は自分の手を見た。

 爪の間に土が入っている。


「袋、置いてきちゃったな」


 ミナは、道の奥に落ちていた袋を思い出した。

 あれを背負ったままだったら、木の周りを動くのも難しかったかもしれない。


「外せたんですね」


「うん。練習、しておいてよかった」


 トーマの口元が少し緩んだ。

 すぐに、目を伏せる。


「監督の人が、先に音に気づいて止めてくれたんだ。退こうとしたら、脇の藪から出てきた。……ちゃんと戻ろうとしてても、来るんだな」


 ミナは水筒を両手で持った。


「私も、見ていないところから来たら、わかりません」


 だから、決めた道を歩くだけでは足りない。

 周りを見ることも、誰かに伝えることも、要る。

 わかったつもりだった言葉が、今日は重かった。


 ロゼッタが戻ってきたのは、その少し後だった。

 槍を預け、先に職員から人数と怪我の報告を聞いている。

 全員が戻ったとわかると、受験者たちへ向き直った。


「今日の区域は閉鎖します。侵入した個体への対処は終わりましたが、ほかにもいないか確認が必要です」


 朝の見回りでは、あの獣の痕跡はなかったという。

 巡回中の職員が境界側で新しい足跡を見つけ、連絡を入れた直後の遭遇だった。

 どこから入り、何に押されて動いたのかは、周辺を調べてから判断する。


「課題として置いた魔物ではありません。危険を知らせ、退避してくれたことに感謝します」


 ミナは、自分の笛を袋へ戻した。

 何でもわかっている人が、全部を用意していたわけではなかった。


 ロゼッタの目が、こちらへ向いた。


「見えた道を伝えたと聞きました」


「はい。でも、反対側までは見えませんでした」


「そこまで伝えてくれてよかった。見えたところと、見えていないところを分けてくれると、確認する人が動けるから」


 ミナは、小さく息を吐いた。


「次も、同じように助けられるとは限りません。自分で岩を出ていたら、守る人はそちらにも動かなければならなかった」


「……はい」


「今日は、指示を聞いて動けました。まず、よく戻ってきたね」


 言われてから、ようやく出口の灯りを見た。

 朝と同じ場所に、戻ってきていた。


     *


 試験の結果は、ギルドへ帰ってから伝えられた。


 中断時に残っていた課題の扱いを、職員たちが確認していた。

 未実施の項目がある人には、別の日程が案内される。

 ミナは呼ばれるまで、採った薬草の包みを開いて待った。


 一枚、端が折れていた。

 岩へ袋を寄せたときか、退避の途中かはわからない。

 ほかの葉は、濡れても、蒸れてもいなかった。


「ミナさん」


 机の向こうへ座る。

 職員が、今日の記録を並べた。


「採取量は目標より少なかったですね。戻ると決めた理由を、もう一度聞かせてください」


 ミナは、斜面のことを話した。

 先に見つけた株が若かったこと。

 回り込む時間と、帰りに残す時間。


「休憩の分まで使えば、もう少し探せたと思います。でも、帰りの脚の具合がわからなかったので、残しました」


「持ち帰った分の見分けと状態は、確認できています。量の不足は採取の項目に記録しますが、時間を守って帰還する判断も評価します」


 全部が良かったわけではない。

 それでも、少なかったという一つの結果だけで決まるわけでもなかった。


 地図を使った道の確認。

 道具の取り出し方。

 遭遇対応で選んだ退路。

 先に受けた野営の実技も、順に確認された。


「今日の救援への協力については、試験の採点とは別に記録します」


 ミナはうなずいた。

 トーマが逃げられたことと、自分が必要なことをできたかは、別だった。


 職員が、最後の紙を置いた。


「必要な項目は、すべて確認できました。合格です」


 ミナは、その文字を見た。

 一度読んで、もう一度読む。


「……はい」


「おめでとうございます」


 胸の中から、息が抜けた。


「ありがとうございます」


 登録札の更新と、これから受けられる依頼について説明を聞く。

 新しい札を持っても、知らない薬草は知らないままだ。

 急に重い荷物を運べるようにもならない。

 依頼の条件を読んで、引き受けられるか確かめる必要がある。


 それでも、今まで見られなかった依頼の紙を、自分で選べる。


 札を袋へ収める前に、ミナは親指で縁をなぞった。

 角の手触りは、前のものと少し違っていた。


     *


 下宿へ戻ると、管理人が台所から顔を出した。


「おかえり。今日は試験だったね」


「はい。合格しました」


「まあ。おめでとう」


 いつもの声なのに、ミナはまた笑いたくなった。


「ありがとうございます」


「夕飯はこれから? 座って食べられるものにしなさいね」


 階段の前で、脚が少し重かった。

 今日は途中で止まった。

 袋を持ち直してから、残りの段を上る。


 部屋で道具を出し、布を分ける。

 水晶の記録を止め、公開の設定を確認した。

 試験の映像には、ほかの受験者も職員も映っている。

 今日は自分の言葉で報告することにした。


 顔を洗い、夕飯を食べ終えてから、机に水晶を置く。


 配信を始めたとき、視聴者はゼロだった。


 ミナは水を一口飲み、記録帳を開いた。

 昼のことを、書けるところから書く。

 合格の文字だけ先に書くと、そこが少し大きくなった。


 文字板が光った。


〈こぐま:戻ったか〉


「はい。戻りました」


 それから、何を先に言おうか迷った。


「試験、合格しました。途中で魔物が出て、中断になったんですけど、職員さんたちが守ってくれて。怪我はしていません」


 返事は、すぐには来なかった。

 ミナは記録帳の端を、指で押さえた。


〈こぐま:よく帰った〉


 短い文字を、声に出さずに読んだ。


「……はい」


〈こぐま:合格も、おめでとう〉


 ミナは笑った。


「ありがとうございます」


 もう一人、視聴者が増えた。


〈針しごと:おかえり。途中からだから、もう一度聞いてもいい?〉


 ミナは、合格したことをもう一度話した。

 退避したことも、順番に説明する。

 人の名前は出さず、同じ試験を受けていた人が木の陰にいたと言った。


「私の方から、道が見えました。でも、全部は見えないって伝えました。確認してもらってから、岩の後ろで笛を吹きました」


〈針しごと:自分で走っていかなかったのね〉


「動かないでって、言われていたので」


〈こぐま:それでいい〉


 机の上に出した手袋へ、目を落とす。

 指先に少し土が残っていた。


「音を出した後は、見たいと思ったんです。でも、下がれたので……そこは、練習してよかったです」


     *


 宿舎の椅子で、バルドは文字板を見ていた。


 膝に置いた手が、ようやく開いた。

 水晶の中の少女は、今日、試験で一枚の葉を折ってしまったと話している。


 岩の後ろで音を出した。

 聞いてから下がった。

 その短い説明だけでも、確かめたいことはいくつもある。

 岩の高さ。退く距離。守る職員の位置。


 今夜、それを全部聞く必要はなかった。

 本人の説明と、現場を見た者の記録を混ぜずに、後で確かめればいい。


 バルドは文字を打った。


〈こぐま:今日は休め。続きは、明日でも聞ける〉


 ミナが、こちらを向いた。


「はい。今日は、早く寝ます」


     *


 針しごとさんからは、合格のお祝いと、手袋を乾かしてからしまうようにと届いた。

 ミナは窓際へ布を広げた。


「灰ねこさんにも、今度お話しします。今日は、帰ってきた報告を残しておきますね」


 いつも見てくれる人が、今夜は来ていない。

 仕事かもしれないし、もう休んでいるのかもしれない。

 記録なら、後で見てもらえる。


 ミナは、新しい登録札を手に取った。

 名前や番号の面を隠して、縁だけを少し見せる。


「これから、選べる仕事が増えるそうです。次は依頼の紙を、ちゃんと読んできます」


〈針しごと:帰る分まで、選んできてね〉


「はい」


 今日は、できなかったこともあった。

 怖かったし、脚は疲れた。

 でも、戻って、話すことができた。


「聞いてくれて、ありがとうございました。おやすみなさい」


 配信を終えた。

 記録帳には、明日調べたいことを一つだけ書く。


 受けられる依頼。


 その下へ何を書くかは、明日、決める。


     *


 ギルドでは、まだ試験の報告がまとめられていた。


 ロゼッタは、職員と帰還の時刻を照らし合わせている。

 受験者の連絡用水晶の欄で、筆を止めた。


「普段、公開配信も使っているの?」


「はい。防犯や記録のために。この子は、料理も配信しているそうですよ」


 ロゼッタは、布へ葉を並べていた小さな手を思い出した。

 食べ物なら、扱ったことがあると言っていた。


「料理か」


 つぶやいてから、次の報告へ目を移す。

 まず、今日の仕事を終えよう。



※近況ノートに挿し絵・キャラクター紹介イラストを掲載中です

カクヨムでも連載中です

人物紹介やシーンの挿し絵なども掲載しています

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