第168話 隊長も、お休みですか
市場の屋根から、雫が落ちていた。
昼の仕事を終えたミナは、軒先を避けて通路へ入った。
太い柱の間に店が並び、頭上には板の屋根が続いている。外より風は弱かったが、店の人たちは膝に毛布を掛け、足元の小さな火鉢へときどき手をかざしていた。
干した魚の束の隣で、色のついた毛糸が揺れている。
奥からは、焼き菓子の甘い匂いがした。
ミナはそちらを気にしながら、乳製品を並べた店の前で止まった。
釣りに行った日に食べた、白いソースを作ってみたかった。
酸味のある乳なら厨房にもあったが、自分で試す分は買っておこうと、小さな容器を持ってきた。
「魚につけるんですけど、これで合っていますか」
店の女性が、蓋を一つ開けた。
「濃い方ならこっち。少し味を見る?」
小匙に取ってもらうと、なめらかな酸味が舌へ広がった。
湖の小屋で食べたものより、少し濃い気がする。
香草を混ぜる前に、これだけでも覚えておこうと思った。
「あまり多くなくていいです。この容器に――」
「ミナ?」
後ろから、聞き覚えのある声がした。
振り向いて、一度、その顔を見上げる。
灰金色の髪はきちんとまとめられていたが、肩にはいつもの防具がなかった。
「アストリッドさん」
厚手の編み服に、短い外套。
手には布の買い物袋を提げている。
斧も、大きな盾もなかった。
「隊長も、お休みですか」
「私にもあるよ。今日は買い物に来ただけ」
アストリッドは袋を少し持ち上げた。
中から、根菜の葉先が覗いていた。
*
代金を払うため、ミナは鞄から小さな袋を出した。
セリカにもらった、花の刺繍の入った袋だった。
中に入れていた財布を取り出し、硬貨を数える。
店の人へ渡して顔を上げると、アストリッドの視線が手元にあった。
「……それ、少し見せてもらってもいい?」
ミナは財布を見た。
「こっち。花のついている方」
言われて、袋を持ち上げる。
アストリッドは身をかがめ、布に触れる前に、もう一度ミナを見た。
ミナが頷くと、手袋を外した指で端をそっと支えた。
「可愛いね」
声が、思っていたより柔らかかった。
花びらの糸を潰さないよう、指が縫い目の外側に添えられている。
「お姉ちゃんにもらったんです」
「お姉さんが選んでくれたのか。よく似合う」
ミナは袋を見下ろした。
旅先でも、手元にあると少し嬉しくなるものだった。
「こういうの、お好きなんですか」
「うん。好きだよ」
アストリッドは、迷わず答えた。
「花も、小さい動物の模様も。この葉の曲がり方、いいね」
ミナは示されたところを見た。
花だけでなく、その横の葉の先まで、丁寧に見てもらっている。
自分が贈ったものではないのに、嬉しかった。
店の女性が、乳を入れた容器へ蓋をした。
「向こうの針仕事の店、新しいのが入ってたよ」
「そう。帰りに見ていこうかな」
自然な返事だった。
この店の人にとっては、珍しいことではないらしい。
アストリッドは袋を返し、手袋をはめ直した。
「大切に使ってるんだね」
「はい」
ミナは財布を戻し、花が折れないように袋を整えた。
*
用事のある方向が同じだったので、少し一緒に歩くことになった。
アストリッドは道具屋へ寄り、修繕を頼んでいた手袋を受け取った。
親指の付け根に、新しい革が当てられている。
その場ではめて、指を曲げ、握りを確かめる。
「ここ、前より動かしやすい」
「少し縫う位置を変えた。次に擦れたら、また持ってきて」
礼を言って、袋へ収める。
武器を持っていなくても、その手つきには見覚えがあった。
次に足を止めたのは、焼き菓子の店だった。
平たい籠に、茶色く焼けた菓子が並んでいる。
丸いものと、木の実を載せた四角いもの。それから、花の形に抜いた小さな菓子があった。
花の真ん中には、赤い果実の煮詰めたものが載っている。
アストリッドは丸い菓子を見て、花の方を見た。
少し考え、もう一度丸い方へ目を戻す。
「どちらも、おいしいんですか」
「丸い方は、蜂蜜が入っている。こっちは、まだ食べたことがない」
指が示したのは、花の菓子だった。
「形も、可愛いですね」
「そうなんだ」
返事が早かった。
ミナは笑いそうになり、唇を閉じた。
「……何か、おかしい?」
「いえ。どちらにされるのかなと思って」
アストリッドも少し笑った。
「甘いものは好きだよ。隊長になっても、そのあたりは変わらなかった」
結局、両方買った。
花の方は二つにして、別に包んでもらっている。
ミナも同じものを一つ買い、まだ温かい紙包みを受け取った。
*
市場の奥に、腰を下ろせる場所があった。
壁際に長椅子が並び、飲み物を売る店から湯気が立っている。
二人は温かな飲み物を頼み、通路を歩く人々から少し離れて座った。
ミナは冷たい乳の容器を、火から遠い足元へ置いた。
隣で、アストリッドが紙包みを開いた。
花の菓子を取り出し、少し眺める。
それから、花びらの端をひと口食べた。
「うん。おいしい」
ミナもかじってみた。
縁は軽く崩れ、真ん中へ近づくと、果実の甘酸っぱさが加わる。
蜂蜜の匂いとは違う、明るい香りがした。
「ここのお菓子は、よく買うんですか」
「町にいるときはね。帰りに寄ろうと思って、間に合わないこともあるけど」
アストリッドは包みの中を見た。
「今日は、残っていてよかった」
もう一つの花の菓子は、割れないよう袋の上の方へ置いた。
ミナがその手元を見ていると、彼女は少しだけ口元を上げた。
「夕方の分」
訊く前に教えられ、ミナも笑った。
*
手袋を外したアストリッドの手は、大きかった。
器を持つ指の節がしっかりしていて、掌には道具を使う人の硬さがあった。
ミナは自分の手と見比べ、あの雪の日を思い出した。
「一つ、聞いてもいいですか」
「何?」
「この前、戻ってきた人を守っていたときの、盾の使い方なんですけど」
アストリッドは菓子を飲み込み、ミナの方を向いた。
「魔物を下へ押さえていましたよね。私も、ああいう守り方ができるようになるでしょうか」
白牙の顎が雪へ落ちたところを覚えていた。
盾を押し出した腕も、そのまま動かなかった足も。
魔物が暴れているのに、後ろでは人が歩いていた。
「今、同じことをするのは勧めない」
アストリッドは、静かに答えた。
「私の盾は、君のものより重い。身体の重さも違う。押さえられずに足が止まれば、盾ごと持っていかれる」
ミナは頷いた。
身体強化を使っても、足場まで好きに変えられるわけではない。
雪の中で採取をしたときにも、立ち上がる前に踏み直した。
「あの日は、戻る人が通り終えるまで、あそこを空けたくなかったんだ」
アストリッドは空いた手で、卓の端を示した。
「私の横を通って、入口へ行く。だから、魔物を横へ流すより、その場で止めたかった」
「後ろに、人がいたから……」
「そう。相手の大きさと足場を見て、止められると思った。別の相手なら、違うやり方にしたよ」
ミナは、自分が魔物と盾ばかり見ていたことに気づいた。
人が通っていたのは覚えている。
けれど、その人たちのために、あの場所を選んだのだとは考えていなかった。
「私なら、どこで受けるか考えないといけないんですね」
「受けると決める前に、どこを通してはいけないか、どこなら退けるかを見るといい。味方がいるなら、その人にもわかるようにね」
グレンから教わったことと、少し繋がった気がした。
一緒にいる人を見て、自分がどうするか考える。
盾を前へ出すまでにも、見るものがあった。
ミナは頷き、膝の上の手を開いた。
同じ力は、まだ出せない。
でも、今度、誰かの後ろを歩くときには、立っている場所も見てみたいと思った。
*
「すみません。お休みの日まで、お仕事の話を」
言うと、アストリッドは首を振った。
「これくらいなら構わない。じゃあ、今度はこちらが聞こうかな」
「はい」
「厨房の玉ねぎ。中に肉が入っていたもの。あれは家の鍋でも作れる?」
ミナは顔を上げた。
「食べてくださったんですか」
「うん。麦の方にも汁がかかっていたね。おいしかった」
嬉しくなって、ミナは少し背筋を伸ばした。
「鍋に蓋があれば、蒸し焼きにもできます。ただ、玉ねぎが大きいと時間がかかるので、小さいもので試す方がいいと思います」
アストリッドは手で丸を作り、家にある鍋の大きさを示した。
ミナはそこに入る数を考える。
「底へ汁を入れて、焦げつかないようにします。中身を抜くときに、底まで取ってしまわないようにしてください」
「そこが、一番難しそうだ」
「最初は、厚めに残しても大丈夫です。取り出したところも刻んで使えます」
アストリッドが頷く。
いつも指示を出している人が、自分の話を聞いている。
不思議な感じがして、ミナは少し笑った。
「うまくいかなかったら、また聞いてもいい?」
「はい。私でよければ」
残っていた菓子を食べる。
ミナの方は、話している間に花の真ん中だけになっていた。
*
針仕事の店には、入口に小さな籠が置かれていた。
袋や布巾の隅へ縫い付ける飾りが、色ごとに分けられている。
アストリッドは籠の前で立ち止まり、小さな布包みを一つ取った。
角に、丸い鳥が刺繍されていた。
「これは、何を入れるものですか」
ミナが尋ねると、店の人は菓子やパンを包んでもいいし、細かいものをまとめてもいいと答えた。
アストリッドは布の端を開き、畳み直した。
「この鳥、少し太ってるね」
「冬だからね」
店の人が言った。
アストリッドは、もう一度鳥を見た。
「これをもらおう」
決めるのは早かった。
代金を渡し、受け取った布を買い物袋へ収める。
花の菓子の包みが傾かないよう、手を添えていた。
市場の出口で、二人は別れた。
アストリッドは家へ、ミナは宿舎へ戻る。
「乳、暖かいところへ置きっぱなしにしないようにね」
「はい。ありがとうございました」
片手を上げたアストリッドが、人の流れへ入っていく。
買い物袋には夕食の材料と、修繕した手袋。
それから、花の菓子と、丸い鳥の布包みが入っていた。
ミナは鞄の中へ手を入れ、姉にもらった袋に触れた。
今度手紙を書くとき、花の刺繍を褒めてもらったことも伝えよう。
宿舎へ着く頃には、夕食の支度が始まっていた。
ミナは買ってきた乳を冷たい保管場所へ収め、ベンノに器を借りてよいか尋ねた。
「試してみるか」
「はい。それと、玉ねぎの作り方を聞かれました」
「誰に」
「アストリッドさんです。おいしかったって」
ベンノが、ほう、と頷いた。
ミナはその先を言いかけて、やめた。
花の菓子や鳥の刺繍のことまで、今ここで話さなくてもよかった。
小さな器へ、買ってきた乳を取り分ける。
今日は魚を釣ってはいないし、新しい葉も採っていない。
それでも、出かけてよかったと思った。
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