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第167話 釣りをしました…

 湖は、どこにあるのだろう。


 ミナは道の先を見てから、もう一度、教えられた方角を確かめた。

 緩い坂を下った先には、広い雪原があった。

 向こう側に針葉樹が並び、その間から山の斜面が立ち上がっている。水らしいものは、どこにも見えなかった。


「そこだよ」


 隣を歩く炊事班の女性が言った。

 ミナは雪原を指した。


「……全部ですか」

「全部。私も初めて来たとき、同じことを聞いた」


 よく見ると、白い平らな場所の上に、人が座っていた。

 小さな橇があり、低い風よけがあり、岸に近いところには煙を上げる小屋もある。

 人々の足元の、さらに下に魚がいるのだという。


 ミナは、少しだけ歩く速さを落とした。


     *


 きっかけは、魚のすり身だった。


 配信で教えてもらった料理を試したくて、厨房へ魚を届けに来た男に、どんな魚が向いているか尋ねた。

 男は箱の中から何種類かを示し、湖で釣れるものについても話してくれた。


「町の近くなら、道具を貸しているところがある。魚を買うだけでもいいが、釣ってみるか?」


 採取の途中で魚を捕ったことはある。

 けれど、氷に開けた穴から釣るというのは、想像がつかなかった。

 話を聞いていた炊事班の女性が、次の休みに行くつもりだと教えてくれたので、ミナも一緒に行かせてもらうことにした。


 出かけると聞いたベンノは、小屋の魚料理も食べてくるよう勧めてくれた。


「釣れなかったら、買った魚でも焼いてくれる。昼飯の心配はいらん」


 そのときミナは、そこまで釣れないこともあるのだろうかと思った。

 まだ、竿も持っていなかった。


     *


 小屋で料金を払い、短い竿と腰掛けを借りた。


 今朝、使える範囲を確かめたばかりだという男が、二人を案内してくれる。

 目印の立つ道を進み、岸からそう離れていない風よけの内側へ入った。


「今日はここまで。ほかの穴が見えても、勝手に移らないでくれ」


 ミナは頷いた。

 雪が除けられた場所には、丸い穴が二つ並んでいた。

 縁は厚い氷で、その下は暗い水だった。


 覗き込むと、自分の顔がぼんやり映った。

 今立っているところの下にも、この水が続いている。

 ミナは靴の裏を、そっと踏み直した。


「落ち着かない?」

「少し……。地面だと思っていたので」


 女性が笑って腰を下ろした。

 ミナも隣へ座り、竿を受け取る。

 男が餌のつけ方と糸を下ろす深さを教え、手元でゆっくり竿先を動かして見せてくれた。


「少し動かして、待つ。ずっと動かさなくていい」

「はい」

「寒くなったら小屋へ戻れよ。竿は置いていけばいい」


 糸が水へ沈んでいった。

 ミナは、穴の真ん中へ目を向けた。


 動かして、待つ。

 少し待って、また動かす。


 風よけの布が、ぱた、と鳴った。

 向こうから話し声が聞こえたが、遠くの雪に吸われるように、小さくなった。

 いつもなら何かを切るか、洗うか、次の分を揃えている時間だった。

 今は、竿を持って座っていればよかった。


 五回ほど動かしても、何も起きなかった。


     *


 隣で、竿が曲がった。


「来た」


 女性が糸を引き上げる。

 水の中から、銀色のものが現れた。

 掌より少し長い魚が、光を弾きながら身をひねる。


「わ……!」


 ミナは思わず身体を向けた。

 女性は手早く魚を外し、容器へ収める。


「今日はいいかもね」


 ミナも竿へ向き直った。

 同じくらいの深さへ下ろしているはずだった。

 餌も、同じ箱から取った。


 竿先を、少しだけ動かした。


 来ない。


 もう少し待ってみる。

 やはり来ない。


 隣で、二匹目が上がった。


「そちらに、集まっているんでしょうか」

「そうかもしれないね。魚に聞ければいいんだけど」


 女性が答えた。

 ミナは穴を見つめた。

 魚が近づく気配は、水の上からではわからなかった。

 こちらにも餌があるのに。


 手首が、さっきより大きく動いた。


     *


 配信を始めたのは、一度、小屋で温まった後だった。


 周りの人を映さなければよいと聞き、腰掛けの横へ水晶を固定した。

 画面には、自分の手元と穴、それから遠くの白い湖面が入っていた。


「今日は、お休みなので、釣りに来ています」


 サフィナの名前が出た。


〈サフィナ:待って。その下、全部水なの?〉

「はい。湖なんです。私も、最初は雪の積もった広場だと思いました」


〈サフィナ:知ってから見ると、なんだか怖いね〉

「歩いていい場所を、教えてもらっています。ここなら大丈夫だそうです」


 ミナは穴を示してから、竿を持った。


〈潮待ち:氷に穴を開けるんですね。こんな釣りは初めて見ました〉

「私も、初めてです」


〈サフィナ:もう釣れた?〉


 ミナは少し間を置いた。


「……まだです」


 その横で、小さな水音がした。

 三匹目だった。


〈サフィナ:今、隣で釣れた?〉

「はい。お隣では、釣れています」


 言ってから、自分の声が少し硬くなった気がした。

 ミナは口を閉じ、竿先を見た。

 隣の人が悪いわけではない。

 もちろん、魚も悪くない。


 でも、一匹くらい、こちらへ来てくれてもいいと思った。


     *


 巡回してきた男が、ミナの手元を見て足を止めた。


「そんなに動かさなくていいぞ」

「はい」


 ミナは竿を止めた。

 しばらくしてから、少し上げる。

 下ろす。

 また、上げる。


「魚を誘ってるのか、追い払ってるのか、わからん動きになってるな」


 隣で女性が笑った。

 ミナは竿を握り直した。


「教わった通りに、しているつもりなんですけど……」


 最後が、小さくなった。

 男は責める様子もなく、ミナの隣へしゃがんだ。


「最初は、ちゃんと待ててたよ。今は魚より先に、お嬢ちゃんが食いつきそうだ」


 ミナは、熱くなった頬を襟へ隠した。

 文字板に、サフィナのコメントが出る。


〈サフィナ:ミナ、ちょっと怒ってる?〉

「怒っては、いません」


 すぐ答えてしまった。

 男が水面の薄い氷をすくい取っている間、ミナは自分の空の容器を見た。


「……ちょっとだけ、悔しいです」


〈潮待ち:うちの父も、釣れない日はだんだん口数が減ります〉


 ミナは文字を読み、少し笑ってしまった。

 遠い国にも、同じように穴ではなく海を睨んでいる人がいるらしかった。


 男に言われて糸を上げると、餌が小さくなっていた。


「食われてるな。全く来てないわけじゃない」

「食べたんですか」


 自分でも、思ったより強い声が出た。

 釣れていないのに、餌だけは食べていた。

 ミナは暗い水へ目を戻した。


「……食べるなら、もう少し、ちゃんと」


 そこで口をつぐんだ。

 魚に何を頼んでいるのだろう。

 隣の女性が顔を背け、肩を揺らしていた。


     *


 新しい餌をつけ、もう一度糸を下ろした。


 動かす幅を小さくする。

 止めるときには、自分が思っているより長く待つ。

 男は一度だけ竿先を指し、今のくらい、と言った。


 ミナは頷いた。

 待っている間に、左の手袋を握ったり開いたりする。

 竿を持つ右手まで動かさないよう、膝の上で落ち着かせた。


 水晶へ新しい文字が出たが、今度は後で読むことにした。

 糸が、ほんの少し震えた。


 風だろうか。

 また、動いた。


「今」


 低い声に、手を上げた。

 軽かった竿に、急に重さが乗った。


「あ、あの、これ」

「そのまま。引き続けて」


 糸の先で、小さなものが抵抗している。

 引くたびに手元へ伝わる動きが、確かだった。

 水面の下に白い影が現れ、くるりと向きを変えた。


 銀色の魚が、穴から上がった。


「釣れました!」


 思ったより大きな声が出た。

 女性が、うん、見てるよ、と笑った。

 ミナは魚をぶつけないよう竿を下げ、男に手伝ってもらいながら外した。


 隣で釣れた魚より、少し小さかった。

 それでも、容器へ入ると、ちゃんと一匹だった。


〈サフィナ:今の顔、ハーシムにも記録を見てもらうね〉

「……お願いします」


 さっきのところまで見られるのだろうか。

 そう思ったが、もう戻すことはできなかった。


     *


 もう一度だけ。

 そう言って糸を下ろしたが、次は釣れなかった。


 小屋の男が、昼を過ぎると風が変わりそうだと知らせに来た。

 女性が竿をしまい始める。

 ミナは穴と容器を交互に見てから、最後の糸を上げた。


「また来ればいいよ」

「はい。……次は、もう少し待てると思います」


 配信を終え、借りたものをまとめた。

 風よけを出ると、頬へ冷たい風が当たる。

 白い湖面の上を、細かな雪が低く走っていた。


 岸の小屋は、戸を開けた途端に温かかった。

 壁際に手袋が並び、長椅子の下には濡れた靴の跡がある。

 奥で油が鳴り、魚の焼ける匂いが漂ってきた。


「その一匹、どうする?」


 料理をしていた女性に聞かれ、ミナは容器を差し出した。


「食べたいです。ここで、焼いていただけますか」

「もちろん。少し待っててね」


 魚は下処理をされ、薄く粉をまとって鍋へ入った。

 ミナは卓から、その手元を見ていた。

 ついさっきまで暗い水の下にいた魚が、今、目の前で料理になっている。


 運ばれてきた皿には、香ばしく焼かれた一匹と、温かい芋が載っていた。

 白いソースは別の小皿だった。


「酸味のある乳に香草を混ぜてある。好きならつけて」


 まず、何もつけずに食べた。

 薄い衣の下から、柔らかな白い身がほぐれる。

 息を吹きかけたつもりだったのに、まだ熱くて、ミナは少し口を開けた。


「おいしい?」


 向かいの女性に聞かれ、何度も頷いた。

 次はソースを少しだけつける。

 酸味が加わると、魚の脂の香りが軽くなった。


 すり身に向く魚も聞いてみると、店の女性は別の魚の名を教えてくれた。

 今日の一匹は、小さいから、このまま食べる方がいいという。


 ミナは頷いて、また皿へ戻った。

 今は、今日釣った魚を食べたかった。


 骨のそばに残った身も、丁寧に外した。

 芋へソースをつけて食べ、空いた皿を見る。

 魚屋で見かけたなら、小さいと思ったかもしれない。

 けれど、竿が重くなった瞬間を思い出すと、口元が勝手に緩んだ。

 向かいの女性に見られていることに気づき、ミナは温かな飲み物の器を持ち上げた。


     *


 町へ戻る坂で、女性が聞いた。


「楽しかった?」

「はい」


 ミナはすぐ答えてから、少し考えた。


「途中は、あまり楽しくなかったです」


 女性が声を立てて笑った。

 ミナもつられて笑う。


「でも、釣れて、嬉しかったです」


 坂の上から、湖を振り返った。

 同じ白い場所なのに、行きに見たときとは違っていた。

 あの下には、水があって、魚が泳いでいる。

 ミナの餌を食べて逃げた魚も、まだいるのかもしれなかった。


 次は、二匹くらい。

 そう思ってから、まずは一匹、と心の中で言い直した。



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