第165話 この町で、もう少し
食堂の壁に、新しい紙が貼られていた。
帰国する者は、荷物の数を担当者へ知らせること。
交代で来る者へ渡す道具は、持ち帰るものと分けておくこと。
出発日は道の状態により変更する場合がある。
朝食を運んできたミナは、その前で少し足を緩めた。
昨夜、部屋で数えた日付が、壁にも書かれている。
「私は、次ので帰るよ」
隣に立った炊事班の女性が言った。
ミナと一緒に、調査の部屋へ食事を届けた人だった。
「もう、荷造りですか」
「使わないものからね。家を長く空けたから、戻ったらまず掃除だなあ」
女性は紙を見上げて、少し笑った。
「子どもに頼んできたけど、どこまでやってあることやら」
ミナも笑いかけて、自分の家のことを考えた。
リュネールには、帰れば迎えてくれる人がいる。
ラグの料理も、また食べたい。
セリカには、北で見たものを話したかった。
けれど、昨日の林を思い出すと、まだ帰り支度へ手が動かなかった。
*
昼の片づけを終え、ミナはベンノが注文の控えを閉じるのを待った。
「少し、お話してもいいですか」
「ああ。昨日の採取か?」
「それも、なんですけど」
前掛けの端をつまみかけて、手を下ろした。
「私、もう少し、こちらで働くことはできますか」
ベンノが顔を上げた。
ミナは、言い足す前に一度息を吸った。
「雪の中でも採れる葉を、昨日初めて見せてもらいました。厨房でも、まだ教わりたいことがあって。帰る日までに、全部というのは難しいと思うんですけど……」
「そりゃあ、全部は難しいな。俺も、全部は知らん」
真面目な顔で言われ、ミナは少し笑った。
「だから、もう少し覚えてから帰りたいです」
ベンノは椅子の背へ身体を預けた。
「ここで働いてもらえるなら、俺は助かる。だが、泊まるところも、帰る便もある。俺がいいと言えば済む話じゃない」
「はい」
「それで、どれくらい残りたい?」
ミナは口を開き、閉じた。
もう少し。
そう思っていたが、何日というところまでは決めていなかった。
「……一度、日程を見てきてもいいですか」
「見てこい。働く日も、休む日も入れてな」
ベンノは当番表を指で叩いた。
「休みを全部、採取の仕事で埋めるつもりなら、そこは相談だ」
ミナは、少しだけ目を逸らした。
次の休みも、天気がよければロルフに頼めないかと思っていた。
「……何もしない日も、入れます」
「何かしてもいい。働きっぱなしにするなという話だ」
言われて、町をゆっくり歩いてみたいことも思い出した。
門と厨房の間だけでも、まだ入ったことのない店があった。
*
部屋へ戻り、ミナは机に紙を三枚並べた。
支援団の日程。
自分の当番を書き写した紙。
それから、財布の中身を数えたもの。
報酬の一部には、まだ手をつけていなかった。
採取でもらった硬貨も加える。
けれど、それを全部使ってよいわけではない。
帰る途中で宿が必要になるかもしれないし、道具が壊れることもある。
帰りのために残す分を、別に書いた。
その横へ、一か月、と書いてみる。
今までと同じくらいの間隔で休めるなら、林へ行ける日は何日かある。
天気が悪ければ、その日は図鑑を読める。
料理も、同じものをもう一度作って、教わった通りにできるか確かめたい。
思いつくものを書き出すと、紙の半分が埋まった。
最後に書いた『魚の料理』を見て、ミナは首を傾げた。
食べたことのない魚の名前さえ、まだいくつもあるのだった。
窓の向こうで、荷車の車輪が石を踏む音がした。
通りの一部では、雪の下から道が現れている。
軒先の雪を落とす男に、向かいの店から声が飛んだ。通行人が待ち、雪が落ちきると、また歩き出す。
ミナは窓を離れた。
紙の上の一か月に、小さな丸をつけた。
*
支援団の担当者との相談には、ベンノも来てくれた。
残る仕事は、まだあった。
修理を終えた設備でも、使う人へ扱いを伝える必要がある。交代で来る職人もいれば、もうしばらく残る者もいる。
厨房の人数も、それに合わせて組み直しているところだった。
「一か月を目安に、ということですね」
「はい。厨房の仕事を続けながら、休みの日に、こちらの採取も教わりたいです」
担当者はベンノへ目を向けた。
「仕事の方は?」
「下ごしらえと配膳は任せられます。戻ってくる人数が変わったときも、まず確認して動く。いてくれると助かります」
ミナは、膝の上で揃えていた手を少し握った。
自分の前で言われると、何と返せばよいのかわからない。
「では、受け入れ側とも確認します。同じ宿舎を使えるか、報酬と食事の扱いも含めて。決まるまでは、帰国予定は元のままにしておきましょう」
担当者は日程の紙を寄せた。
「それから、帰りを考えるときは早めに相談してください。この時期は、一人分だけ馬車を頼んでも予定通り出られるとは限りません」
「わかりました」
希望を言えば、その場で残れるわけではなかった。
それでも、ミナの話は、相談する予定として紙に書き込まれた。
*
夕方、廊下でオルヴェンに会った。
手に持っていた箱を卓へ置き、彼はミナの話を最後まで聞いてくれた。
「一か月くらい、もう少し働けないか、お願いしてきました」
「そうか。昨日は、いいものを見られたんだね」
「はい。雪の下に葉があって……ここに来る前は、冬の採取がどんなものか、考えてもいませんでした」
ミナは言ってから、少し迷った。
「オルヴェンさんは、まだいらっしゃいますか」
「今のところはね。調べる仕事と、引き継ぎが残っている。ただ、君と同じ日に帰れるかは、まだわからないよ」
ミナは頷いた。
行きは同じ支援団だった。
帰りも、当然一緒なのだと、どこかで思っていたかもしれない。
「帰るときのことも、担当の方に相談します」
「うん。必要なら、私も一緒に話を聞こう」
オルヴェンは箱の持ち手を直した。
「ここで覚えたいことは、決まった?」
「まだ増えそうです」
答えると、彼は笑った。
「それは、帰る日を決めるのが難しくなるね」
「……はい」
「まずは、相談した一か月で何ができるかだね」
ミナは部屋へ戻ったら、書き出したものをもう一度見ようと思った。
全部でなくても、今、やってみたいものから選べばよかった。
*
返事が来たのは、二日後だった。
まず一か月、厨房の仕事を延長できることになった。
宿舎と食事は、働く期間中は引き続き利用できる。休日の外出は、これまでと同じように行き先と帰る予定を知らせる。
帰路の相談は、期間が終わる前に改めてすることになった。
ミナは説明を聞き、報酬の額と当番を確かめてから、紙へ名前を書いた。
北へ向かうときに書いた名前より、少し落ち着いて書けた。
厨房へ戻ると、ベンノが当番表の先の欄へ名前を書き足した。
「次の連中が来たら、器を返す場所を教えてやってくれ。洗う前のものと、拭いたものを混ぜる奴がいる」
「はい。蓋も、別に置くんですよね」
「そうだ。お前も最初、探してたな」
ミナは頷いた。
大きな厨房では、物の置き場所を覚えるだけでも時間がかかった。
今は、人が通るところを避けながら、必要な器を出せる。
「それから、落ち着いた日に一品、考えてみるか。お前の国で作っていたものを、ここの材料で」
「私が、ですか」
「まず俺たちで食べる。皆に出すかは、その後だ」
何を作ろう。
まだ答えは出なかったが、ミナは当番表の空いた日を見た。
帰るまでの残り日数だった欄に、新しく準備する仕事ができた。
その晩、セリカへ手紙を出した。
『お姉ちゃんへ。
北の町で、もう少し働かせてもらうことになりました』
そこまで書いて、ミナは筆を止めた。
この書き方だと、人手が足りないから帰れないと思わせるだろうか。
次の行へ続けた。
『私から、残りたいってお願いしたんだよ。まずは一か月。泊まるところも、帰りの相談をする人も決まっているから、心配しないでね』
手袋で葉を切るのが難しかったこと。
雪の下には、ちゃんと緑の植物が残っていたこと。
厨房で、仕事を任せてもらえるようになったこと。
書いているうちに、紙の残りが少なくなった。
ミナは最後の行を、少し小さくした。
『帰ったら、お姉ちゃんにも作ってあげたい料理が増えたよ』
ラグにも手紙を書いた。
滞在が延びることを知らせ、教わった魚料理の話を少し添える。
あの人なら、魚の種類が違っても、手に入るもので試してみるかもしれない。
封をして、差し出す場所へ持っていく。
帰る予定を知らせるときには、また書こうと思った。
*
配信を始めたのは、その次の休みの午後だった。
部屋の卓に採取帳を置き、窓から離した水晶へ顔を向ける。
今日は外へ出ず、道具を拭いて、覚えたものを整理していた。
「しばらく、こちらでお仕事を続けることになりました」
文字板に、夕餉係さんの名前が出た。
〈夕餉係:北のお料理も、まだ見せてもらえそうですね〉
「はい。作るところをお見せできるものも、相談してみます」
次に、針しごとさんから文字が届いた。
〈針しごと:今度は何を覚えてくるのかしら〉
「それが、まだ決めきれなくて」
ミナは書き出した紙を見せた。
魚料理の名前の隣には、聞き取った音をもう一度確かめるための印がついている。
〈針しごと:一か月で、これ全部?〉
「……できる分からにします」
文字板に、小さな笑いを表す文字が続いた。
ミナも笑って、紙を下ろした。
「昨日、厨房で使っている漬け野菜を見せてもらったんです。同じものでも、漬けた日で酸っぱさが違って。煮るときに使い分けるって聞きました」
〈谷のかまど:うちでは古い方から鍋へ入れるよ。新しいのはそのまま〉
「そうなんですね。私のいた食堂では、酸っぱいものを添えることはありましたけど、こちらでは料理の中にもよく入るんですね」
全部の家が同じかどうかは、まだわからない。
それでも、教えてくれる人がいると、次に聞きたいことが浮かんだ。
配信を終えてから、ミナは漬け野菜の頁を開いた。
夕食まで、まだ少し時間がある。
今日は当番ではないけれど、混み始める前なら、一つだけ質問できるだろうか。
立ち上がりかけて、机に置いた道具へ目を戻した。
拭いた小刀を収め、手袋の紐を整える。
それから帳面だけを持った。
廊下へ出ると、焼いた玉ねぎの匂いがした。
ミナは覚えたばかりの料理の名前を、小さく口の中で繰り返しながら、厨房へ向かった。
*
その手紙がアルセリア南部の国境へ届いた頃、セリカは討伐任務の野営地にいた。
膝の上には、封筒が二つ。
前に届いた、北へ行くという手紙。
そして今度は、北に残るという手紙だった。
「……帰ってきたらご飯を作ってくれるって」
「よかったじゃない」
弩の点検をしていたニーナが答えた。
「帰ってきたら、なの」
「そりゃ、ここには届けられないでしょう」
セリカは二枚を読み直し、丁寧に畳んだ。
「私、もうスヴァルトに行く」
「ここ、南の国境なんだけど」
「知ってる」
「知ってる人の発言じゃないのよ」
見張りから、対象の群れを見つけたと声が来た。
セリカは手紙を濡れない内袋へしまい、立ち上がった。
*
グレンが現場へ着いたとき、三体目が倒れた。
南部を巡回していた彼は、案内の兵とともに討伐状況を見に来たところだった。
街道脇の林から、牙を剥いた魔物が飛び出す。
セリカが半歩踏み込んだ。
一閃。
倒れる身体を避け、既に次へ向き直っている。
「右、二体。後ろへ回さないで」
声は落ち着いていた。
仲間が退路を押さえたのを確かめると、セリカは残る魔物との距離を一息に詰めた。
枝が揺れ、短い悲鳴が途切れる。
グレンは、腰の武器へ伸ばしかけた手を戻した。
「……何かあったのか」
隣へ来たニーナに聞く。
「妹が、北でもう少し勉強したいんですって」
「それは、いいことじゃないか」
「私もそう言ったんだけどね」
また一体が崩れた。
グレンは口を閉じた。
最後の気配が消えると、セリカは周囲と仲間の人数を確かめてから振り返った。
「これで、今日の分は終わり?」
「確認と報告と帰還まで!」
「……わかってる」
グレンに気づくと、彼女は少しだけ顔を明るくした。
「グレン。北の様子、何か聞いてる?」
先ほどまでの剣の速さと、声の柔らかさがまるで違った。
グレンは、念のため答えを選んだ。
「まず、この仕事を終えてから話そう」
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