第164話 厚い手袋の向こう
吹雪から数日が過ぎ、厨房へ食材を運ぶ橇が戻ってきた。
ミナが空の木箱を返しに出ると、薬屋の使いが、炊事班の女性へ小さな包みを渡していた。手荒れに使う塗り薬を頼んでいたらしい。
使いの背負った籠には、濃い緑の葉が入っていた。
乾いたものには見えない。
「その葉は、どちらから来たんですか」
「町の南だよ。昨日、採ってきてもらったんだ」
「冬でも、採れるんですか」
ミナが尋ねると、使いは籠を少し傾けた。
小さな葉が、浅い仕切りの中に並んでいる。
「今の時期にも頼むものはあるよ。もっとも、今年は道が使えなくて、予定通りにはいかないけどね」
採取帳は、部屋の荷物に入っていた。
北へ来てから開くたびに、仕事の合間に見たものを書き留めている。けれど、実際に採って確かめたものは、まだ一つもなかった。
「私も採取の仕事をしているんです。こちらのものも、教わることはできますか」
使いは少し驚いてから、いつも葉を納めに来る男の名を教えてくれた。
*
その日の仕事を終えてから、ミナはベンノへ相談した。
休みの日に、地元の採取人について、町の外へ行ってみたい。
話を聞いたベンノは、まず当番表を確かめた。
「次の休みなら、厨房は足りている。だが、俺には外の道がわからん。行けるところかどうかは、ギルドで聞いてこい」
「はい」
「支援団の方にも行き先を届けておくんだぞ。食事が要らないなら、それもな」
翌日、仕事の合間に訪ねたギルドで、登録札と採取帳を見せた。
職員は札を確認し、ミナがこれまで扱った素材の頁にも目を通した。
資格があっても、知らない土地を一人で歩けるわけではない。初めての雪の中なら、なおさらだった。
「一人での依頼ではなく、地元の採取人に同行して教わりたい、ということですね」
「はい。こちらでの採り方も、まだわからないので」
紹介されたロルフは、その場でミナの帳面を覗き込んだ。
ベルクの薬屋へ素材を納めている採取人だった。
「葉の選別と、持ち帰るまでの扱いはやっているんだな。なら、俺の注文の分を一緒に採るか。教えながらだから、量は当てにしないが」
行き先は町の南、林の縁だった。
職員が通行確認の済んだ道を地図で示す。谷へ向かう道はまだ制限されていたが、そちらとは反対だった。
ロルフは午前のうちに戻るつもりで、出発前にも天候と通行状況を確認するという。
納品できた分の代金は分ける、とも言ってくれた。
ミナは支援団の担当者へ行き先と同行者、戻る予定を届けた。
それから部屋へ戻り、しまっていた採取道具を取り出した。
*
当日の朝、門脇の腰掛けで、紐の先がミナの指から逃げた。
袋を膝へ載せ直す。
親指と人差し指で輪を作ったつもりなのに、革の手袋の先には、小さな隙間が残っている。
厨房では、こんな結び目に困ることはない。
向かいのロルフが笑った。
「それ、外ではもっと言うことを聞かなくなるぞ」
「……今でも、あまり聞いてくれません」
男の日に焼けた頬は、帽子に隠れるところだけ白かった。腰の道具入れには、柄の太い小刀と、先の曲がった短い棒が収まっている。
今朝も道が使えると確かめてから、こうしてミナの準備を待ってくれていた。
ロルフはミナの袋を指した。
「開け閉めする紐は、こっちか」
「はい。これは、手袋でも引けるようにしてもらいました」
「それはいい。中の小袋も同じようにしておけば、毎回脱がなくて済む」
ミナが持っていたのは、普段、葉を分けて入れる小袋だった。
大きな袋の紐ばかり気にして、中までは変えていなかった。
予備の紐を取り出し、口の左右に大きめの輪をつける。
今度は、手袋の指が入った。
「できました」
「じゃあ、空のうちに閉じてみろ」
閉じる方は、まだ少し引っかかった。
ロルフは急がせず、門の柱へ背を預けて待ってくれた。
*
町を離れてしばらくは、橇の跡が続いていた。
両側へ寄せた雪が低い壁になり、その上から枯れ草の先が出ている。朝日を受けた枝には細かな氷が光っていたが、木陰へ入ると、足元の白さが青く変わった。
ミナは、前を歩くロルフの靴が沈んだ場所を踏んだ。
雪に覆われていても、歩けるところの幅まで同じではない。
「あの枝の下は通らない。落ちると、首から雪を入れられる」
ロルフが顎を上げた。
針葉樹の枝に、分厚い雪が載っている。
「教えてもらいました。休む場所も、枝の下を避けるようにって」
「なら、今日は実物を見て覚えるといい」
少し先で、枝から白い塊が落ちた。
柔らかな粉が広がり、その下に硬い雪がごろりと残る。
ミナは襟元へ触れた。あれが中へ入るのは、想像するだけで冷たかった。
林の縁に、石を積んだ低い境が見えた。
上の石が二つだけ顔を出している。
ロルフはそこで足を止め、ミナにも近づきすぎないよう手で示した。
「この向こうに浅い溝がある。夏なら跨げるが、今は縁がわからない。今日はこっちだけだ」
目の前には、なだらかな雪の面しかなかった。
ミナは町へ戻る方角を確かめてから、石の位置を帳面の簡単な絵へ書き足した。
*
最初に見せてもらったのは、雪の下の葉だった。
ロルフが短い棒で表面を崩し、端から少しずつ雪を除ける。
茶色の土が出ると思っていたところに、濃い緑が現れた。
葉は小さく、革のように厚い。縁を丸めて、地面へ伏せるようについていた。
「シモバネだ。薬屋から頼まれている」
「こんなに、緑なんですね」
「全部が冬に枯れるわけじゃないからな」
ロルフは一枚を裏返した。
白っぽい細かな毛が、葉脈の間を埋めている。
ミナはしゃがみ、見せてもらった葉と、隣の株を比べた。
「裏の毛と、この縁を見ますか」
「それと、葉のつき方。色だけで選ぶなよ。傷んでも緑が残ることがある」
持ってきた図鑑の写しにも、同じ特徴が書いてあった。
けれど、絵だけで見たときよりも、葉はずっと小さかった。
ミナは指を添え、どこから切るのかを尋ねた。
「根元ごと掘るんじゃない。今日は外側の葉だけ。真ん中は残す」
ロルフが一枚切った。
ミナも隣の株へ手を伸ばす。
押さえたつもりの葉が、手袋の下から滑った。
「あ」
刃を止めた。
もう少し強くつまめば、今度は折ってしまいそうだった。
素手なら、葉がどれくらい動くのか指先でわかる。今は革が間に挟まり、力を入れたところと、葉のあるところが少し離れて感じられた。
「脱ぎたくなるだろう」
「……はい」
「一枚のために脱いで、一枚ごとに冷やしていたら、帰る頃には紐も結べなくなるぞ」
ロルフは自分の左手を開いた。
「つままなくてもいい。下から支えてみろ」
葉の下へ指を入れ、その上に載せる。
ミナは刃の向きを変えた。手袋へ近づけず、茎だけを見える位置に出す。
短く引くと、一枚が手のひらへ落ちた。
「それでいい」
ミナはほっとして、葉を小袋へ移した。
次の一枚は、さっきより少し早くできた。
*
同じところで採り続けていると、膝の裏が張ってきた。
立ち上がるとき、雪を踏み直す。
足腰へ通す魔力を少し整えたが、足場まで固くなるわけではない。重心を戻してから、ゆっくり膝を伸ばした。
「腰は大丈夫か」
「はい。少し、姿勢を変えたかったので」
「その方がいい。寒いと、肩も上がりっぱなしになる」
言われてみれば、首が外套へ埋まっていた。
ミナは肩を下ろした。
息が白く広がり、林の暗い幹の前で消えていく。
採った葉を見直すと、何枚かに細かな雪がついていた。
いつもの癖で布を出しかけたところで、ロルフに声をかけられる。
「強く擦るな。今は、ついた雪を軽く落とすだけでいい」
「水気を、取っておこうと思って」
「室内へ戻したら、また湿る。そのとき広げる。暖房の前へ置いて急がせると、葉が悪くなるからな」
ミナは布を畳み直した。
ここでは、採ったときに乾いて見えるだけでは足りない。
どのくらい重ねてよいのか尋ね、袋の中を浅く仕切った。
ロルフはそれを見て、手を止めた。
「もう分けたのか」
「さっきのところで採ったものと、こちらのものです。こちらは、少し葉が小さかったので」
「混ぜても今回の注文には困らないが……薬屋は見比べやすいな」
ミナは、袋の口につけた札を見せた。
場所と、採った順番だけを書いてある。
「細かくしすぎでしょうか」
「あとで何を分けたかわからなくなるより、ずっといい」
ロルフは、自分の袋から葉を一枚出した。
「俺は長くやっているから、見れば大体思い出せる。それで済ませることもある。だが、受け取る方が同じだけ見ているとは限らないからな」
札を返す指が、丁寧だった。
ミナは少し嬉しくなり、袋を閉じた。
*
帰る前に、ミナは雪を除けた場所を振り返った。
葉の残った株が、丸く露出している。
「ここは、このままでいいんですか」
「よく気づいた。周りの柔らかい雪を少し戻す。押し固めなくていい」
ミナは短い棒を借り、端の雪を寄せた。
全部見えなくしてしまうのが、少し惜しかった。
せっかく覚えた葉を、また隠すようだったからだ。
「次に来たら、探せるでしょうか」
「石と、あの二股の木を覚えておけ。雪の形は、明日には変わっているかもしれない」
ミナは顔を上げた。
木の枝は、右側だけ低く伸びていた。
帳面の絵へ書き足してから、もう一度、雪の下へ戻した株を見る。
今度は、何もない白い地面には見えなかった。
帰り道では、足の先が少し冷えた。
それでも、行きに通った橇の跡へ戻ったとき、まだ周りを見る余裕があった。
遠くの屋根から煙が上がり、風に押されて横へ細く伸びている。
ミナは手袋のまま水筒を取り出した。
紐は、一度でほどけた。
*
薬屋の裏には、網を張った浅い棚が並んでいた。
ロルフが納品の話をする間、ミナは許可をもらって葉を広げた。
窓際でも、火の近くでもない場所だった。
少し経つと、葉の表面に薄く水気が浮いた。
「本当だ……」
外で拭いてしまえば終わりだと思っていた。
ミナは葉同士の重なりを直し、下へ敷いた布の様子も確かめた。
店の女性が、札と帳面を交互に見る。
「これは、あなたが?」
「はい。名前は、教えていただいたものを。葉の形は、こちらにも描いてあります」
「採ったものと、書いたものがすぐ結びつくのね。助かるわ」
女性は小さな葉を一枚持ち上げた。
「乾かしてから、こちらで使う分と、ほかの町へ送る分に分けるの」
「この葉も、町の外へ行くんですね」
「ええ。道が開いたらね。それまでは、傷ませずに置いておかなくちゃ」
棚の端には、既に乾いた葉を入れた箱があった。蓋には町の名と数が記され、荷造りの紐が掛けてある。
ミナは自分の並べた葉を見た。
雪の下からこの棚へ運んで終わりではなく、まだ先の道がある。ロルフが持ち帰った後の扱いまで教えてくれた理由が、少しわかった。
「これなら、次に頼むときも話がしやすい。ロルフは『いつものところ』で通じると思っているから」
「今日はちゃんと場所も言っただろう」
「この子が分けてくれたからでしょう」
二人のやり取りに、ミナは笑った。
葉の選び方も、雪の下の探し方も、今日は教えてもらってばかりだった。
それでも、持ってきたものを受け取る人に喜んでもらえると、胸の辺りが温かくなった。
同行の取り決め通り、納めた分の代金を受け取った。
見学だけではなかったのだと、財布へ収めるときに改めて思った。
「また来るなら、次は袋を増やす前に相談しろよ」
帰り際、ロルフが言った。
「別のものを採る日は、持っていく道具も変わる」
「はい。……また、教えていただきたいです」
すぐに答えると、男は口元を緩めた。
*
宿舎へ戻ったミナは、手袋を乾かす場所へ掛けた。
指先には土の色がつき、小袋の紐には、朝より大きな輪が残っている。
帳面へ今日の葉を描き直した。
表と裏。切る位置。雪を戻したこと。
持ち帰ってから広げる場所も、忘れずに足す。
厨房の窓から見えていた林に、採れるものがあった。
そのことを知っただけで、明日見る景色が少し変わりそうだった。
ミナは次の休みが書かれた予定表を見た。
それから、出発前にもらった支援団の日程を、袋から取り出した。
最初に予定されていた仕事の区切りが、近づいていた。
指で日付を数える。
まだ、あの林を一度歩いただけだった。
*
マルタが手を離すと、講師は患者の指を一本ずつ動かしてもらった。
「痛みは?」
「さっきより楽です。ここを曲げると、まだ少し」
作業中に手を傷めた男が答えた。
マルタは、もう一度魔力を通そうとして、講師の手に止められた。
「ここからは私が見る。今、何が変わったか言える?」
王都で受けている治癒の講習だった。
実際の患者に触れさせてもらえるようになっても、任される範囲は小さい。
マルタは耳を少し伏せた。
「腫れているところは、あまり変わっていません。でも、指を伸ばすときの痛みは減りました」
「そうね。楽になったことと、仕事へ戻れることは分けて考えて」
男が苦笑した。
今日のうちに作業へ戻るつもりだったらしい。
講師は残る傷を確かめ、必要な処置と休ませる時間を説明した。
マルタは隣で聞きながら、自分が痛みの減った顔を見て、もう喜びかけていたことを思った。
講習の後、宿で家への手紙を書いた。
患者に触れたこと。まだ、先生が横にいないとできないこと。
弟へは、包丁で指を切っても治す練習になるなんて考えないよう、念のため書き添えた。
別の紙を出す。
ミナにも、知らせたかった。
『少しだけだけど、痛みを楽にできたよ』
書いてから、その下へ続けた。
『でも、痛くなくなったら動いていい、じゃないんだって。ミナも気をつけてね。私も、盾の練習をするときに気をつける』
マルタは窓の外を見た。
北へ向かう空の色は、ここからではわからない。
今度会ったら、どんなことを教わったのか聞きたいと思った。
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