第163話 雪の下の記録
朝、厨房の窓に向かいの屋根が戻っていた。
雪は残っている。けれど、昨日のように雪が横へ走ってはいなかった。
道では、除けた雪を橇へ載せて運ぶ人がいる。
ミナは窓から離れ、朝食の器を取った。
「昨日は助かった」
受け取りに来た男が言った。
昨夜、手袋を外すのに苦労していた職人だった。今日は自分で器を持ち、隣の人の場所を空ける。
「今日は、外へ行かれるんですか」
「町の中からだ。戸が閉まらなくなった家がある。まず、そっちを見てくる」
男はパンを取り、窓の外へ目を向けた。
「道の方は、まだ確認が済んでいないからな」
ミナは頷いた。
風が止んだから、すぐ元通りになるわけではない。
それでも、昨夜ここへ戻った人が、朝食を食べて次の仕事へ向かう。
空になった器を受け取ったとき、少し嬉しかった。
*
オルヴェンが案内された部屋には、昨日持ち帰った箱が並んでいた。
町の設備を管理する建物の一室だった。
長い卓の上に記録紙が広げられ、窓から離れた場所へ測定器が置かれている。
暖房の熱を直接当てないよう、壁からも少し離してあった。
「移動中の分と、小屋へ着いてからの分はこちらです」
現地の調査担当者が、紙を分けて示した。
オルヴェンは記された時刻を読み、測った場所を地図で確かめる。
谷へ入ったところから、魔力の値が何度か大きく動いていた。
高いまま続くのではない。
上がり、下がり、また近いところまで戻る。
「一台だけですか」
「いえ。少し離して置いた方にも、同じ頃に変化があります。ただ、動いた幅は違います」
担当者が、もう一枚を並べた。
「寒さが原因かもしれません。帰り道では揺れもありますから、そこは別にしてあります」
「はい。止めて測ったところから見ましょう」
オルヴェンは椅子へ腰を下ろした。
机の上の数字を見ただけでは、装置の周りで何が起きていたのかまではわからない。
「近くで暖房や魔法を使った時刻は、残っていますか」
「小屋では記録しました。谷での測定中は、護衛が一度、身体強化を使っています」
その時刻にも印をつける。
説明できる変化と、まだ説明のつかない変化を、先に分けることにした。
*
昼前、別室の連絡用水晶へ接続の知らせが入った。
アルセリア側と相談する時刻は、あらかじめ決めてあった。
オルヴェンは現地の担当者と一緒に席へ着き、共有する記録の範囲をもう一度確かめた。
許可された写しと、装置の状態をまとめた紙を手元へ置く。
水晶の中に、リゼの姿が映った。
彼女の前にも、同じ型の測定器が置かれている。
『まず、持ち帰ったものは、蓋を開けていないわね?』
「はい。教わった通り、外側を拭いてから、そのまま置いています」
『なら、今はそれでいいわ。冷えたまま暖かい部屋で開けると、中に水気がつくことがあるから』
リゼは自分の装置を指し、窓の内側を見る場所を示した。
担当者が同じ箇所を確かめ、曇りがないと答える。
『衝撃を受けた跡と、留め具の緩みも見て。測る部分には触れないでね』
オルヴェンが水晶の向きを調整した。
担当者は箱を持ち上げず、卓の上でゆっくり回す。
リゼは継ぎ目を一つずつ見てから頷いた。
『外からわかる傷はなさそう。次は、持ち出していない方との比較ね』
別の水晶から、レオンの声がした。
『エルディアで使ったときも、運んだ直後の値は落ち着かないことがありました。置いてから、最初の測定まで、どれくらい待ちましたか』
担当者が記録を読み上げる。
レオンは手元の紙へ目を落とし、もう一つ尋ねた。
『地面へ直接置いていますか。それとも、台の上に?』
「同じ高さの台を用意しています」
『それなら比較しやすいですね。雪の上では、傾きも変わりますから』
オルヴェンは、谷の記録を水晶へ向けた。
「止めて置いた後にも、この変化が出ています。二台とも、ほぼ同じ時刻です」
レオンの顔から、先ほどまでの穏やかさが薄れた。
リゼも、紙を近づけるよう頼んだ。
*
『これだけでは、まだ原因は決められません』
レオンが言った。
『ただ、一台の故障として片づけるのも早い。周囲で使われた魔法と時刻が合わないところは、残しておくべきです』
「私も、そこをもう少し見たいと思っています」
オルヴェンは印をつけた箇所を示した。
「設備の動作で説明できるところはありました。しかし、谷で使っている暖房を止めていた時間にも、変わっているようです」
『なら、次に測る前に調整し直さないで』
リゼが言った。
『違う値が出たからと基準を動かすと、何が変わったのかわからなくなるわ。まず、二台を同じ場所へ置いて比べる。その後、一台を残して、もう一台を動かす』
担当者が頷き、手順を書き留めた。
『外へ戻すときも、急いで箱を開けないこと。温度に慣らしてから使って。今から、その条件も送るわ』
レオンは地図を見た。
『この谷へ、今すぐ入り直す必要はありません。近くの安全な地点からで十分です。人が行けるかどうかは、そちらの護衛に判断してもらってください』
「はい。道が確かめられるまでは、町での比較を進めます」
答えたのは、現地の担当者だった。
オルヴェンも頷いた。
連絡を終える前に、グレンにも写しを送ることを確認した。
彼は国内の巡回中で、この時刻は調査地点へ出ているという。
返事を待ってから動く必要はない。
今日確かめられたことと、まだわからないことを分け、後から読んでも同じ状況がわかるようにまとめることにした。
*
午後、卓へ新しい帳面が届いた。
新しいといっても、紙は黄ばんでいた。
角が丸くなり、表紙の紐は何度か替えられた跡がある。
「道の管理所から持ってきました」
届けた男が、慎重に頁を開いた。
橇が通った日。荷車の通行を止めた日。雪を除く人を増やした日。
短い記述の横に、担当した者の名前が並んでいる。
「今年だけなら、ここです。ですが、昔の分も必要だと聞いたので」
「ありがとうございます。普段はどうだったか、知りたかったんです」
オルヴェンは頁の端を押さえ、今年の記録と並べた。
谷の道を閉じた日は、例年より早かった。
一方、隣の尾根を回る道では、その後もしばらく荷車が通っている。
「谷の方が、雪は深くなるものですか」
「場所によります。吹き溜まりは毎年できます。ただ、今年は何度除いても、同じ辺りがすぐ埋まった」
男は地図の一点を指した。
測定値が変動した場所と近かった。
オルヴェンは、すぐには印を重ねなかった。
「そのときの風向きは、残っていますか」
「細かくは。でも、見張り所の控えにあるかもしれません」
担当者が、確かめるものを書き足した。
今は二つの出来事が近い場所で起きたとわかっただけだった。
同じ理由で起きたかどうかは、まだ別に調べる必要があった。
*
ミナが食事を届けたとき、卓の半分は紙で埋まっていた。
炊事班の女性と一緒に、隣の休憩用の卓へ器を置く。
今日は食べる人が揃ってから、蓋を開けるよう頼まれていた。
「こちら、使っても大丈夫ですか」
「ええ。今、手を洗ってきます」
現地の担当者が立った。
オルヴェンも筆を置き、紙が風で動かないよう重しを載せる。
そのそばの古い帳面を、ミナは少し気にした。
「昔の記録ですか」
「うん。道を管理している人たちが、残してくれていたものだよ」
オルヴェンは帳面を閉じた。
「昔に書いたものも、今のお仕事に使えるんですね」
「今年の雪が多いと言っても、何と比べて多いのかがわからないと、調べる場所を決めにくいからね」
ミナは、雪を押していた町の人を思い出した。
ここでは毎年雪が降る。
それでも、今年は違うと、暮らしている人たちは話していた。
「いつもはどうだったか、ということですか」
「そう。困ったときだけでなく、何事もなく通れた日の記録も役に立つんだ」
ミナは自分の採取帳を思い浮かべた。
同じ葉を採りに行って、同じ場所を歩いた日もある。
その日の天気や、道で見たものを、短くしか書かなかったこともあった。
「何も変わっていないと思った日も、書いておいていいんですね」
「後から比べる人には、知りたいことかもしれないね。ただ、全部を一人で書こうとしなくていい」
オルヴェンは、卓へ戻ってきた道の管理者を見た。
「道を見る人も、設備を見る人もいる。それぞれが続けてくれたものを、今日は借りているんだよ」
男が少し照れたように椅子へ座った。
「読めない字があったら言ってください。書いた奴に聞きますから」
皆が笑った。
ミナも笑い、食事の蓋を開けた。
*
夕方までの比較では、町へ置いた二台に、大きな違いは出なかった。
午前に届いた手順に従い、置く場所と待つ時間を揃えてある。
測定中に暖房を使った時刻も、職人が記録した。
「少なくとも、今ここでは同じように動いています」
担当者の言葉に、オルヴェンは頷いた。
「この結果も残しましょう。谷での変化が消えた、という書き方にはしないでください」
場所が違う。
天候も、置かれた条件も違う。
わかった範囲だけを、確かめた結果として書く。
翌日以降の測定は、アストリッドたちの通行確認を待つことになった。
現地の調査員が続けられるよう、使用する装置と記録の項目を揃える。
オルヴェンが帰った後にも、比較できるものが必要だった。
報告の写しができる頃には、窓の外が暗くなっていた。
机の上へ灯りを寄せ、担当者が最後の一行を読み直す。
「原因は未確認。継続して観測する地点を、谷の周辺に絞る。これで」
「はい。こちらからも、同じ内容を伝えます」
オルヴェンは自分の名前を書き入れた。
*
夜、ミナは記録帳を開いた。
今日届けた食事の数と、使った器の置き場所。
厨房で教わったことを書いてから、少し手を止める。
変わっていなかったことも、役に立つかもしれない。
けれど、わからなかったものを、知っているように書くことはできない。
ミナは、宿舎の前の道について一行足した。
朝には雪を除く人がいて、昼に通ったときには、昨日と同じ通路を使えた。
道が使えた理由も、思い出せるようにしておきたかった。
窓の外を見た。
向かいの家では、まだ灯りがついている。
ミナは記録帳を閉じた。
明日も見えるものを、自分の目で確かめようと思った。
*
グレンが報告書を受け取ったのは、調査地点から町へ戻った夜だった。
地方のギルドが用意した部屋へ入ると、机の上に写しが置かれていた。
外套を脱ぎ、まだ土のついた靴を入口へ揃える。
昼間見てきた谷川では、魔物の新しい群れは見つからなかった。
測定値にも、目立った変化はない。
グレンはその記録を脇へ置き、北から届いた報告を開いた。
異例の積雪。谷で繰り返す変動。
装置の比較結果と、今後の観測地点。
断定を避けた文章の間に、何を確かめたのかが順に書かれていた。
グレンは国内の地図を広げた。
同じ原因とは、まだ言えない。
ただ、変わった後に一度測るだけでは、変わり始めを拾えない。
継続して見てもらっている場所へ、追加の連絡を書いた。
異常のない日も時刻を揃えること。変化が出たら、その直前の記録も残しておくこと。
新しい場所を増やす前に、今ある観測を続けてもらう。
地図の一点へ、次に確認する日を書き添えた。
「次は、変わる前から見ておこう」
明日は、見張りを続けている者たちへ会いに行く。
グレンは報告書を畳み、濡らさないよう革の袋へ収めた。
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