第162話 戻る場所を守ります
窓の外を、雪が横に走っていた。
厨房の窓から見えていた向かいの屋根が、白いものの向こうへ隠れる。
ミナは水を張った桶を台へ置き、戸口を見た。
入口が開くたびに、風が床の上を通っていく。
「外へ運ぶ分は、いったん止める。こちらへ来る人の分を先にしよう」
ベンノが、受け取った連絡の紙を台へ置いた。
近隣の設備を確かめに出ている作業班は、途中の避難小屋で待機しているという。
「戻れないんですか」
「今はな。小屋には入れたそうだ。無理に動かさず、向こうの護衛と相談している」
ミナは頷いた。
窓の向こうをもう一度見たが、道の端すらわからなかった。
昨日、配信で雪を見せた窓からは、灯りの落ちる場所が見えていた。
今日は、昼なのに見通せない。
「ミナ、こっちの芋を頼む」
「はい」
ミナは台へ向き直った。
洗ってある芋を取り、皮の傷んだところを確かめる。
切り始めると、風の音に包丁の音が重なった。
*
昼を過ぎて、受け入れる人数が増えた。
街道を進めなくなった旅人が、町の宿へ振り分けられていた。
荷運びをする者が泊まる建物も埋まり、支援団の宿舎にも寝る場所を作ることになったという。
「十二人。夕食と、明日の朝の分を追加で」
連絡に来た係が言った。
ベンノは食材の控えを見てから、棚へ向かった。
「パンの追加は、今ある分で足りるか確認してくれ。足りなければ、芋を使う。肉は煮込んである分を刻み直そう」
指示を受けた人が動き出す。
ミナは使える器を数えた。
十二人分を別にしてから、今夜帰ってくる作業班の人数を尋ねる。
「そちらは、増えていますか」
「作業員と護衛は、朝の連絡のまま。迎えに出る者もいるから、その分はまた知らせる」
ミナは名前の並んだ紙を勝手に写さず、人数と確認した時刻だけを自分の紙へ書いた。
炊事班の女性へ見せると、同じ数を指で確かめてくれた。
「ここは、まだ戻っていない人の分ね」
「はい。元から泊まっている方の分は、こちらです」
器を置く場所を分けた。
新しく来る人の方ばかり見て、普段の食事を忘れるわけにはいかなかった。
ベンノは切った芋を鍋へ入れ、煮汁の量を確かめた。
玉ねぎと根菜も加わり、鍋の中身が増えていく。
「水だけ増やしても、腹は満たせんからな」
そう言って、残す分の食材を別の籠へ戻した。
明日の朝も、人はここで食べる。
*
午後の半ば、アストリッドが宿舎へ来た。
外套の肩に雪がついている。
入口で払い落とすと、ベンノに向かって、迎えに出る者の人数を告げた。
「これから、作業班を連れて戻る。先の見張り所から、風が弱まっていると連絡があった」
「食事は用意する。着く時刻は?」
「小屋で動けるか確かめてから知らせる。遅くなると思っておいてくれ」
ミナは追加する器を取りに行った。
戻ると、アストリッドが卓の上の紙を見ていた。
「帰っていない人の分か」
「はい。こちらは、これから出る方の分です」
ミナが示すと、アストリッドは数を確かめて頷いた。
「助かる。では、行ってくる」
ミナは戸口までついていきかけ、足を止めた。
外では、すでに護衛たちが橇を確かめている。
自分が出ていっても、手伝えることはわからなかった。
「お気をつけて」
アストリッドが振り返った。
「そちらも頼む」
扉が閉じる。
ミナは、人数を書いた紙を持って厨房へ戻った。
*
町を離れると、雪の色が変わった。
建物から届く灯りがなくなり、道も斜面も灰白色に見える。
アストリッドは先頭の橇から降り、先行した兵の跡を確かめた。
地面へ立てた標の頭が、いつもより低い。
「ここから右へ寄せる。溝の側は踏まないように」
後ろへ伝えると、短い返事が続いた。
風は弱まったが、止んではいない。
林の切れ目では顔へ雪が当たり、息を吸うと鼻の奥が痛んだ。
避難小屋には、煙が上がっていた。
扉を開けると、作業班の護衛が顔を上げる。
中にいた者の人数を確かめ、歩ける者と、橇へ乗せる者を分けた。
炉のそばで足を休めていた職人は、立つと少しふらついた。
「急がなくていい。荷物はこちらで持つ」
アストリッドは言い、先に一人を外へ出した。
帰る道をもう一度確かめさせる。
持ち帰る道具は、橇の荷台へ収めた。
「全員いるな。進もう」
*
魔物が現れたのは、帰り道が林を抜ける手前だった。
馬が首を上げ、前へ進むのを嫌がった。
御者が手綱を引き締めるより先に、護衛の一人が斜面を指す。
雪の上を、低い影が動いた。
白灰色の毛に覆われた四足の獣だった。
太い前脚で雪を押し、頭を下げて近づいてくる。首の周りには長い毛が密に生え、口を開くと、曲がった牙が見えた。
「白牙だ。橇を先へ」
アストリッドは斜面側へ出た。
盾の留めを確かめ、短く両足の位置を変える。
膝まで埋まる場所へ踏み込まず、橇が固めた道の縁へ立った。
「前は二人。馬を落ち着かせて進め。後ろは、林を見ろ」
兵たちが動く。
魔物は、その動きを追って頭を振った。
アストリッドが半歩進むと、黄色い目が彼女へ戻る。
次の瞬間、白い塊が跳んだ。
アストリッドは盾を前へ打ち出した。
硬い音が響き、飛びかかってきた獣の鼻先が止まる。
衝撃を受けた腕を引かず、そのまま肩を乗せた。
盾を、下へ叩き込む。
宙にあった獣の頭が押し下げられ、顎から雪へ落ちた。
白い飛沫が上がる。
アストリッドの靴も固い雪へ食い込んだが、腰は浮かなかった。
獣が前脚を突っ張り、起き上がろうとする。
彼女は足を踏み広げ、盾越しにその力を押さえ込んだ。
盾の縁が軋む。その上で、斧を持つ腕が上がった。
長柄を短く握った刃が、露わになった首の付け根へ落ちる。
獣の体が激しく跳ねた。
アストリッドは踏ん張ったまま、盾を押す力を緩めなかった。
やがて前脚が折れ、腹が雪についた。
動きが止まっても、彼女はしばらく、その姿勢を保っていた。
「ほかは?」
「見えません」
「そのまま見ていろ」
先へ進んだ橇は、林の出口に近づいていた。
誰も降りていない。御者の手綱も緩んでいない。
アストリッドは一度息を吐き、斧を引き抜いた。
今は、町まで連れて帰ることが先だった。
*
宿舎では、食事を取る場所をもう一つ空けていた。
先に着いた旅人たちは、部屋へ案内されている。
ミナは空いた器を片づけ、卓を拭いた。
戻ってくる作業班には、医療担当が先に様子を見ると聞いていた。
「ここへ食事を置いても、大丈夫ですか」
椅子を動かしている係へ尋ねる。
入口のすぐ近くは空けてほしいと言われ、壁際の卓へ移した。
濡れた外套を脱ぐ人と、料理を運ぶ人がぶつからないようにする。
扉が鳴った。
ミナは顔を上げたが、入ってきたのは連絡の兵だった。
「町の手前まで戻った。歩ける者から入る」
ベンノが鍋の蓋を開けた。
ミナは器を持ち、入口の様子を見た。
少しして、本当に扉が開いた。
最初に入ってきた男は、眉にも雪がついていた。
手袋の留め具をつかもうとして、指を滑らせる。
隣の兵が手を貸し、椅子へ座らせた。
「食事は、この方からいいそうです」
医療担当の言葉を受け、ミナは器を運んだ。
男が手を伸ばす。
その指が、小さく震えていた。
ミナは器を差し出しかけ、卓の上へ置き直した。
「ここに置きますね。急がなくて大丈夫です」
匙も手の届く場所へ置く。
男は頷き、しばらく器を見ていた。
やがて、肩が少し下がった。
「……いい匂いだ」
ミナは顔を見てから、次の器を取りに戻った。
*
厨房と広間を往復するうちに、外の様子を見る暇がなくなった。
パンを一つ足す。
空の水差しを下げる。
まだ食べられない人の分は、渡したことにせず残しておく。
誰に渡したか迷ったときは、そばの人へ聞いた。
同じ人へ二度渡すことより、誰かを忘れることが怖かった。
ベンノが、厨房の入口から声を掛ける。
「ミナ、一度止まれ。今、残りは何人だ」
ミナは紙を見た。
医療担当の確認を待つ人と、外で荷物を片づける護衛。
数え終えて伝えると、ベンノも鍋の中身を見た。
「合っている。水を飲んでから、こっちを運んでくれ」
「はい」
器を置いて、一口飲む。
自分の喉も乾いていたことに、そこで気づいた。
広間では、戻ってきた人たちが少しずつ話し始めていた。
避難小屋の薪が残っていて助かったこと。
道具を橇へ載せてもらったこと。
「途中で、白牙まで出たんだ」
その声に、ミナの手が止まった。
「魔物が?」
「護衛の隊長が止めてくれた。こっちは、そのまま進めと言われて」
ミナは戸口を見た。
アストリッドの姿は、まだなかった。
「怪我をされた方は……」
「そっちでは、誰も。俺は小屋の前で滑っただけだよ」
男が自分の膝を示した。
ミナは頷き、残してある器の数を確かめた。
*
オルヴェンも宿舎へ戻り、入口近くの暖房設備を現地の職人と確かめていた。
人が出入りするたびに、部屋の端が冷えてしまう。
仕切り布を掛ける位置を変え、濡れた衣服を置く場所と、座って休む場所を分けている。
ミナが料理を運んで通ると、オルヴェンは布の端を押さえてくれた。
「ありがとうございます」
「こちらは通れるようにしておくよ」
布の向こうでは、世話役が乾いたものを配っていた。
洗い場で湯が戻った日、籠を運んでいた女性もいる。
「次は、この方の分ね」
呼ばれて、ミナは卓へ向かった。
自分ができる仕事は、まだ残っていた。
*
アストリッドが厨房へ顔を出したときには、広間の声は落ち着いていた。
外套の肩は濡れて、暗い色になっている。
武器は入口の決められた場所へ預けてきたらしい。手袋を外した手に、小さな擦れがあった。
「まだ、私の分はあるかな」
「はい。残してあります」
ミナはすぐに答えた。
ベンノへ一声掛け、温めていた鍋から器へ盛る。
芋と根菜、細かくした肉を、偏らないように取った。
「皆さん、戻れたんですか」
「全員いる。今、最後の確認をしてきた」
アストリッドは椅子へ腰を下ろした。
ミナは卓へ器を置き、パンを添えた。
隊長は匙を取り、湯気へ息を吹きかける。
一口食べて、目を伏せた。
「……戻ってきてよかった」
大きな声ではなかった。
ミナは空の盆を持ったまま、ようやく息を吐いた。
「魔物が出たって、聞きました」
「ああ。でも、そちらまで来ることはなかった」
アストリッドはもう一口食べ、ミナを見た。
「戻った後に、すぐ座れて、食事があった。助かったよ」
ミナは頷いた。
何と返せばよいか考えていると、ベンノが別の器を卓へ置いた。
「ミナも食べろ。片づけは交代だ」
その声で、急にお腹がすいていることがわかった。
盆を戻し、手を洗ってから席につく。
窓の外では、まだ風が鳴っていた。
自分では歩けない雪の道を、今日、アストリッドたちは通ってきた。
ミナはその道へ出なかった。
けれど、戻ってきた人たちの前へ、食事を置くことはできた。
匙を入れると、芋が柔らかく崩れた。
「温かいです」
思わず言うと、アストリッドが頷いた。
「ああ」
二人で、少しの間、黙って食べた。
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