第161話 そちらにも、雪は降りますか
裏返すには、少し早かった。
ミナが薄いへらを差し入れると、丸くまとめた麦の端が崩れた。
焼けたところだけが鉄板へ残り、その上の柔らかい部分がずれてしまう。
「あ……」
「まだだな」
隣で見ていたベンノが、短く言った。
「焼き固まる前に触りすぎだ。そっちのは、そのまま待ってみろ」
ミナはへらを引いた。
もう一つの丸い麦から、油の弾ける小さな音がしている。
縁の色は変わっていたが、下がどうなっているか気になった。
持ち上げて確かめたくなる手を止め、ベンノを見る。
「火は、このくらいでいいんですか」
「今はな。焦げそうなら弱める。強い火にすれば、早く返せるってもんでもない」
ミナは頷いた。
今度は、教えてもらったところまで待つことにした。
*
ベルクへ来てから、幾日かが過ぎていた。
厨房の扉を開けたとき、誰に声を掛ければよいかは、もうわかる。
洗った器を置く棚や、使い終えた布を入れる籠も覚えた。
ただ、根菜の種類や、樽ごとに違う漬け野菜の味は、まだそのたびに確かめていた。
今日は昼の仕込みを終えた後、少し時間があった。
夕食用に炊いた麦の一部を取り分け、ベンノが別の食べ方を見せてくれることになった。
炊き上がった麦を少し潰し、卵と、つなぎになる粉を混ぜる。
全部を潰さず、粒も残す。
それを薄い丸形にまとめて焼くと、外が香ばしく、中には麦の柔らかさが残るのだという。
「朝に出す家もある。肉を入れたり、香草を混ぜたりな。今日は、このまま食べてみよう」
材料を混ぜるところまでは、うまくいった。
厚みも、見本に合わせられたと思う。
けれど、焼く段階で、ミナは最初の一枚を崩してしまった。
ベンノは散った麦を端へ寄せ、焦がさないように焼いていた。
「これも食べられる。失敗したからと、そっちを忘れるなよ」
「はい」
ミナは小さくなった麦も見た。
もう、香ばしい匂いがしていた。
*
「今、やってみろ」
言われて、ミナはへらを入れた。
今度は、底が一枚につながったまま持ち上がった。
慎重に返すと、きつね色の焼き目が現れる。
「できました」
「見えない方が気になるだろうが、動かさない時間もいるんだ」
ベンノは空いた皿を近くへ置いた。
反対側も焼けたところで移し、細く切った漬け野菜を添える。
ミナは匙で端を割った。
外側がかすかに音を立て、中から湯気が出る。
麦の甘みと、焼けたところの香ばしさがあった。
「おいしいです」
「野菜も、一緒に食べてみな」
ミナは酸味のある野菜を少し載せた。
さっきより、油の味が軽く感じる。
もう一口食べたくなって、今度は自分で野菜を足した。
「横にあるのを、別に食べると思っていました」
「好きに食べればいい。ただ、合わせると違うだろう」
「はい。これなら、少し多くても食べられそうです」
ベンノは笑い、崩れた方も皿へ寄せた。
細かな粒には、焼き目が多くついていた。
「こっちの方が、かりかりしています」
「丸いのを頼まれたら、それじゃ困るけどな」
ミナも笑った。
食べられることと、頼まれた通りに作れることは別だった。
*
夕方の仕事が終わってから、ミナはもう一度作らせてもらえるか尋ねた。
配信でも、教わった料理を紹介してみたかった。
材料を分けてもらう分の代金と、使ってよい場所を確認する。
仕事の道具を片づけ終えた後なら、とベンノが頷いた。
「ただし、今夜は少しだけだぞ。炉を使うのも、火を落とすまでの間だ」
「はい。片づけまで終わらせます」
ミナは自分の夕食にする分だけ、材料を受け取った。
水晶は台の端へ置き、人が通る側が映らない向きへ直す。
許可をもらってから始めると、少しずつ視聴者の名前が出てきた。
「こんばんは。今日は、こちらで教わった料理を作ります。炊いた麦を、丸くして焼くんです」
混ぜる前の麦を、小さな器へ取って見せた。
水晶へ近づけすぎない位置を探し、粒が残っていることを説明する。
「全部を滑らかにするのではなくて、少しだけ潰します」
〈夕餉係:麦は汁物に入れることが多いので、これは気になります〉
「私も、今日初めて作りました。一枚目は、返すのが早くて崩してしまって」
〈夕餉係:それも聞けると助かります。先に知っておけますから〉
ミナは少し笑い、へらを見せた。
「今日は、ちゃんと待ちます」
油を引き、小さくまとめた麦を置く。
焼ける音がすると、ついへらを持ちたくなる。
ミナは一度、台へ置き直した。
*
〈谷のかまど:うちでは、中に刻んだ干し肉を入れるよ〉
見覚えのない名前だった。
ミナは文字板を見てから、焼いている麦へ目を戻した。
「こちらの国の方ですか?」
〈谷のかまど:そう。ベルクより東。家では、もう少し小さく作る〉
「そうなんですね。干し肉は、混ぜる前に戻すんでしょうか」
少し間が空いた。
ミナは火を確かめ、焼き目がつくのを待つ。
〈谷のかまど:硬いのは戻すね。細かく刻んで。塩は肉の分を見て減らす〉
「ありがとうございます。それも食べてみたいです」
同じ料理でも、入れるものや大きさが違う。
ルガンで教わった食べ方を思い出した。
一つ覚えたからといって、その国の料理を全部知ったことにはならない。
けれど、初めて話す相手にも、聞いてみたいことがすぐに浮かんだ。
「今日教わったのは、酸っぱい漬け野菜を添える食べ方です」
〈谷のかまど:合うよね。うちの父は、麦より野菜を多く食べる〉
ミナは笑い、器の中の野菜を見た。
「少しずつ載せるつもりだったのに、私も、つい足してしまいました」
へらを差し入れると、底がきれいに離れた。
裏返した麦へ、焼き目がついている。
「……今度は、崩れませんでした」
〈夕餉係:いい色ですね〉
その一行を見て、ミナの口元も緩んだ。
*
焼き終えた料理を皿へ移し、使った場所を片づける。
火を落とす担当の人へ声を掛けてから、ミナは許可をもらっている窓際の卓へ移った。
文字板には、サフィナからの挨拶が届いていた。
「サフィナさん。こんばんは」
〈サフィナ:おいしそう! そっちでも、いろいろ覚えてるね〉
「はい。まだ作ったことのないものばかりで。サハルは、どうですか?」
〈サフィナ:今日は風が強かったよ。でも、あなたのところほど寒くないと思う〉
ミナは窓の外を見た。
道を挟んだ建物の灯りが、雪の上へ四角く落ちている。
「そちらにも、雪は降りますか」
〈サフィナ:降っているところは見たことあるよ。でも、積もったのは見たことない〉
ミナは水晶を動かす前に、外に人がいないか確かめた。
窓越しに、灯りの届く範囲だけ映す。
高く寄せられた雪の間に、細い通り道があった。
〈サフィナ:待って。道、どこ?〉
「真ん中の、少し低くなっているところです。人が通れるように、雪を除けてくださっています」
〈サフィナ:毎朝これを?〉
「降った後は、また積もるんです。入口も、開けられるようにしないといけなくて」
〈サフィナ:それだけで仕事になっちゃうね〉
ミナは頷いた。
町に着いたばかりの自分も、白い景色の大きさに驚いていた。
今は、雪を積んだ場所の横に、どれだけの道が空いているかを見るようになった。
「今年は、いつもより多いそうです。だから、ほかの仕事も遅れてしまうって」
水晶を戻すと、次の文字が届いた。
〈サフィナ:ハーシムも、無茶するなって言ってたよ〉
「ありがとうございます。今、一緒なんですか?」
〈サフィナ:ううん。昼に会ったとき。ミナの配信を見られたら伝えてくれって〉
ミナは、サハルの通りを歩く二人を思い浮かべた。
こちらが雪を見ている間も、あの町では仕事が続いている。
「こちらの方に教えていただきながら、歩いていますって、伝えてください」
〈サフィナ:わかった。料理の感想も伝えたいんだけど、味まではわからないんだよねえ〉
ミナは笑って、皿を少し水晶へ近づけた。
「外は香ばしくて、中には麦の粒が残っています。野菜と一緒だと、少しさっぱりして」
〈サフィナ:それ、余計お腹すく説明!〉
*
食べながら、ミナは今日教わったことを話した。
厚みを揃えても、早く動かすと崩れてしまうこと。
塩気のあるものを中へ入れるなら、味付けも変えること。
文字板には、野菜の切り方を尋ねる言葉も出ていた。
〈谷のかまど:家によっては、もっと粗く切るよ。歯応えが欲しいから〉
「今日いただいたものは、細かったです。そうすると、同じ野菜でも食べた感じが違いますね」
サフィナが、サハルでも漬ける家ごとに味が違うと書き込んだ。
谷のかまどから、どんな香草を入れるのかと質問が来る。
ミナが次の一口を食べている間に、二つの土地の食べ方が文字板の上で行き来した。
知らない名前と、よく知っている名前が並んでいる。
ミナは匙を置き、流れていく文字を読んだ。
自分が聞きたかったことを、今度は別の誰かが尋ねていた。
「それ、私もあとで書いておきたいです」
そう言うと、サフィナから笑うような短い返事が来た。
〈サフィナ:ミナの帳面、また厚くなるね〉
ミナは頷いた。
新しい記録帳には、まだ空いている頁がたくさんあった。
*
配信を終えた後、ミナは食器を洗い、借りた場所を拭いた。
ベンノは残りの確認を終え、外套を着ようとしていた。
「二度目は、うまくいったか」
「はい。東の方の方から、干し肉を入れる食べ方も教えていただきました」
「ああ、やるな。うちでも、入れる日がある」
ベンノは台へ目を向けた。
「まず、今日のを覚えてからだな」
「はい。次も、返す前に待ちます」
笑って見送ってから、ミナは記録帳へ作り方を書いた。
干し肉の話には、配信で教わったことと、まだ自分では作っていないことを添える。
サフィナたちには、雪の積もる道が新しかった。
自分には、この麦の食べ方が新しかった。
同じ一日でも、人に話せることは違っていた。
ミナは頁の端に、小さく焼き目を描いた。
次にサフィナへ会うとき、今夜の説明だけでなく、本物を皿へ載せて渡せたらと思った。
*
ルガンの宿で、イェルカは借りた水晶の記録を少し戻した。
窓の外を映していたところで、もう一度止める。
雪を除けた細い道が、建物の陰へ続いていた。
その脇には足跡らしい窪みがある。通路よりも、ずっと深く見えた。
イェルカは椅子へ背を預けた。
白い斜面のどこが固く、どこが深いのか、見ただけではわからない。
岩場なら足を置くだろう場所も、ここでは隠れていた。
「なるほど。これは、私も案内される側だね」
そばを通った宿の者が、北の景色かと尋ねた。
イェルカは頷き、場所を少し空ける。
「あの子、今度はずいぶん白いところへ行ったよ」
記録を進めると、ミナが現地の人に教わりながら歩いていると話した。
イェルカは口元を緩め、続きを見た。
*
ゼルが記録を見たのは、その翌晩だった。
川沿いの町の食事処で、壁際の水晶を使わせてもらっていた。
外では荷船から積み荷を下ろす音がしている。
水晶の中では、家の屋根も、道の端も白かった。
ゼルは、しばらく黙って見ていた。
雨なら川へ流れていくものが、そこに積もって残る。
木の枝の上にまで載っているのが、どうにも見慣れなかった。
やがて画面は台所へ戻った。
麦を焼く音がして、ミナがへらを持ち上げる。
ゼルの顔が、少し水晶へ近づいた。
丸い料理に焼き目が現れる。
ミナがほっとしたように笑い、酸味のある野菜を添えた。
「……次に会ったら、これを頼もう」
雪道を歩くことは、まだ想像がつかなかった。
けれど、あの皿を前に座ることなら、すぐに思い浮かんだ。
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