第160話 お湯が戻った日
「飾り切りを教わりました」
朝の厨房で、ミナはベンノへ昨日の話をした。
根菜を花びらの形に切り、硬さを残して火を通すこと。魚と芋の重ね焼きは、一度に全部を焼いていなかったこと。
話しながら、洗った手を布で拭く。
「そうか。何か見つかると思っていたよ」
ベンノは頷き、台の上の籠を示した。
「今日はまず、こっちを頼む」
「はい」
今日は花を作るのではなく、昼食に使う玉ねぎだった。
ミナは包丁を取り出し、使う大きさを確かめてから皮をむいた。
ベンノが、刃をしまっていた布を汚れない場所へ寄せてくれる。
昨日、いい包丁だと言ってくれた人の台所で、今日も仕事をする。
玉ねぎの匂いが広がる頃、昼の食事を別の場所へ運ぶと聞いた。
共同の洗い場で設備の調整をする人たちへ届けるという。
「ミナも一緒に行ってくれ。戻ったら、午後の分をやろう」
ミナは頷き、運ぶ時刻を確かめた。
*
同じ頃、オルヴェンは洗い場の入口で靴についた雪を落としていた。
石造りの建物の中には、水を受ける深い槽が並んでいる。
天井近くの小窓は曇り、壁際には布を詰めた籠が積まれていた。
洗い終わったものではない。
入口から近い籠には、寝具をまとめた紐が掛かっている。
「温まるまで待って、少し使うと、また冷たくなります」
世話役の女性が、蛇口の下へ手桶を置いた。
出てきた湯へ、オルヴェンも指先を入れる。
冷水ではないが、温かいとも言いにくかった。
「いつ頃から、この状態に?」
「雪が増えてからです。普段、家で洗っていた人も来ますし、街道で足止めされた人たちの分もあって」
女性は、まだ洗えていない籠を見た。
「先に必要なものから回しています。でも、次の日の分も来るでしょう」
オルヴェンは頷き、奥へ案内してもらった。
設備を担当する職人が、壁を開けた場所で待っていた。
管の継ぎ目には新しい包みが巻かれ、床には外した古い部材が置かれている。
「漏れは塞ぎました。ここも、前より厚く覆っています。湯を使わず待てば、温度は上がるんです」
職人は手元の図を広げた。
湯をためる槽から、洗い場と、その隣の建物へ線が延びている。
「けれど、使い始めると追いつかない」
「ええ。加熱を強めれば、何とか。ただ、魔力石がもちません」
オルヴェンは図を受け取る前に、巻き直された管へ目を向けた。
「ここを直していただいたおかげで、ほかの部分を確かめられますね。まず、普段通りに使うところを見せてください」
*
洗い場で桶へ湯を取る。
少し後に、隣の建物でも使い始める。
職人が目盛りを読み上げるたび、オルヴェンは図の脇へ書き込んだ。
誰も使っていない管の温度も確かめ、戻ってくる流れへ手をかざす。
別の職人には、どの場所から測ったかを記録してもらった。
「隣では、何に使っていますか」
「療養している人たちの体を拭く湯と、布を洗う分です。そちらは減らしたくない」
「ええ。必要な分は残しましょう」
オルヴェンは世話役を呼び、作業の順番を聞いた。
大きな桶へ湯をためてから洗い始める場所と、少しずつ使い続ける場所があった。
朝は、どちらも同じ頃に使い始める。
「どの場所にも、同じように流そうとしているんですね」
職人が頷く。
「建てたときには、それで足りていました」
「今は、使う量も時間も変わった。まず、まとめて湯を取るところを分けてみましょう。作業を止める必要はありません。始める順番を少し相談できれば」
オルヴェンは図へ線を引いた。
さらに、流れて戻る間に失われる熱を減らすため、管の分かれ目へ手を置いた。
淡い光が、指先から輪のように広がる。
金属の表面をなぞった光は、継ぎ目の形に沿って細くなり、やがて見えなくなった。
「冷たい水が入った直後だけ、熱の渡し方を変えます。温まったところへ同じだけ送り続けないように」
職人が、術式の収まった場所を見つめた。
「これだけの幅で、流れを分けられるのですか」
「ここで使っているものに合わせました。動かしてから、もう一度見ましょう」
オルヴェンは手を離した。
魔力を注ぎ続けるのではなく、職人に普段の操作で設備を動かしてもらう。
最初の桶へ湯をためる。
隣の建物でも使ってもらう。
目盛りが下がりかけ、途中で緩やかになった。
「奥も開けてください」
世話役が、洗い場の一番奥へ向かった。
桶の底へ水音が響く。
湯気が、彼女の手の間から上がった。
女性はすぐには何も言わなかった。
少し待ってから、もう一度手を入れる。
「……温かい」
入口近くで待っていた人が、顔を上げた。
「今も?」
「うん。こっちまで、ちゃんと」
職人が大きく息を吐いた。
オルヴェンは目盛りを見ながら、しばらくそのまま使ってもらった。
*
ミナたちが食事を運んだとき、洗い場の入口には新しい籠が置かれていた。
行き先は、その隣にある休憩室だった。
炊事班の女性が蓋つきの容器を運び、ミナはパンと器を入れた籠を持っている。
道は雪が除かれていたが、端には高く積まれたところがあった。
「戸を開けるから、ここで待っていて」
「はい」
ミナは足を止めた。
急いで中へ入ろうとせず、先の人が荷物を置くのを待つ。
部屋へ入ると、暖かい空気に頬が少し痛くなった。
卓へ布を敷き、容器を置く。
今日の料理は、豆と玉ねぎを使ったとろみのある汁物だった。少量の塩漬け肉を細かく入れてあり、蓋を取ると香りが広がった。
作業を終えた人から来ると聞いていたので、ミナは器を並べすぎないようにした。
炊事班の女性が、それを見て頷く。
隣から、布を絞る音と話し声が聞こえた。
「これなら、今日のうちに寝具まで洗えるよ」
「乾燥室の方へ、次が行くって伝えてくる」
入口を横切った人の籠には、濡れた白い布が入っていた。
ミナが運んできた食器とは違う重さを、両腕で支えている。
温かい湯が出たら、そこで仕事が終わるわけではない。
洗って、絞って、乾かす。その先で、今夜使える寝具になる。
「食事、もう取れますか」
声を掛けられ、ミナは顔を戻した。
「はい。こちらからどうぞ」
*
オルヴェンが来たのは、最初の人たちが食べ始めた後だった。
「今日は、温かいうちに来られましたね」
ミナが器を渡すと、彼は笑った。
「約束したからね。続きは、食べた後にすることにしたよ」
隣に座った職人が、匙を持ったまま頷く。
「午後も確認していただきます。使う人が変わったときにも、同じように動くか」
「これで、ずっとお湯が使えるんですか」
ミナが尋ねると、オルヴェンは器を置いて答えた。
「前よりは使えるようになった。ただ、いくらでも湯が出るわけではないよ。使う順番も、皆さんと決め直したところなんだ」
職人が、卓の端に置いた紙を示した。
図の横に、新しい印と短い説明が書かれている。
「夜の担当にも伝えます。私たちが困ったときに戻せるよう、元の設定も残してもらいました」
ミナは紙を濡らさないよう、水差しを少し離した。
オルヴェンは礼を言い、汁物へ匙を入れた。
「隣の方、とても喜んでいました。寝具まで洗えるって」
「うん。間に合うといいね」
特別に誇らしげな声ではなかった。
けれど、オルヴェンはしばらく、洗い場から聞こえる音へ耳を向けていた。
*
午後、厨房へ戻ると、ベンノが空いた容器を確かめた。
「全部渡せたか」
「はい。戻る時刻が違う方の分は、向こうの担当の方へお願いしてきました」
「よし。こっちは洗い終えたら、もう今日は上がっていい」
ミナは外套を掛け、手を洗った。
温かい水が指の間を流れる。
朝は当たり前に使っていたものを、少し長く見てしまった。
すぐに水を止め、洗う道具をまとめる。
明日も使うものだった。
*
夜、ミナは宿舎の共有室の隅で水晶を置いた。
配信してよい場所は、先に確認してある。
ほかの人が映らない向きへ直し、仕事の資料を袋へしまってから始めた。
「こんばんは。今日は、作業をしている方たちへ、食事を届けました」
最初に文字を寄せたのは、夕餉係だった。
〈夕餉係:そちらでも、もうお仕事が始まったんですね〉
「はい。まだ、教えていただきながらです。豆と玉ねぎの汁物を運びました」
〈夕餉係:寒い日に、温かい汁物は嬉しいでしょうね〉
ミナは頷いた。
「お湯が使えるようになった場所にも行ったんです。皆さん、とても喜んでいました」
〈針しごと:使う人が喜んでくれたなら、作った方も嬉しいでしょうね〉
「はい。直していた方たちも、一緒にお昼を食べていました」
話している間に、文字板へ別の名前が出た。
〈こぐま:外を運んだのか。足元は見えていたか?〉
「はい。籠を一つ持って、班の方と一緒に行きました。道の雪は、除けてありました」
〈こぐま:それでも滑るところはあるからな。荷物で足元が見えないなら、分けてもらえ〉
続けて、もう一行が届いた。
〈こぐま:転びそうになったら、荷物まで守ろうとするなよ〉
ミナは膝へ置いた手を見た。
もし汁物が傾いたら、こぼさないように抱えてしまうかもしれない。
「……作っていただいたものなので、もったいないと思ってしまいそうです」
〈こぐま:わかる。でも、手を痛めたら、その後の仕事もできなくなる。まず自分だ〉
「はい。気をつけます」
料理を大事にすることと、何があっても離さないことは違う。
ミナは帰り道で踏んだ、硬い雪の感触を思い出した。
*
共有室の窓の外は、灯りの届くところだけ白かった。
ミナは周りに人がいないことを確かめ、少しだけ水晶を向けた。
「外は、こんな感じです。朝も、昨日通れた場所にまた雪が積もっていました」
〈やまみち:うわ。見ているだけで寒いね〉
見慣れた名前に、ミナは笑った。
「やまみちさんは、寒いところも行くんですか?」
〈やまみち:仕事なら行くよ。でも、できれば暖かいところで見ていたいな〉
水晶を自分の方へ戻し、ミナはここまでの道の話をした。
馬車から橇へ荷物を移したこと。教わった跡を歩いた方が、足が沈まなかったこと。
「木の下は、雪が少ないところもありました。歩きやすそうに見えたんですけど」
〈やまみち:枝に積もった雪も見てね。足元がよくても、休むのにいい場所とは限らないから〉
ミナは、旅の途中で枝から落ちた雪を思い出した。
幌の中から見たときは、小さな塊に見えた。
大きな枝の下に立っていれば、同じようには眺めていられない。
「下ばかり見ていました」
〈やまみち:慣れないうちは、そうなるよ。現地の人がどこを避けて歩くかも、見ておくといい〉
ミナは手元の帳面を開き、短く書き足した。
講習で聞いたことも、実際の道を思い浮かべると違って感じる。
〈やまみち:それで、部屋は暖かいんだよね?〉
「はい。今は、手袋もしていません」
〈やまみち:それなら安心した。私はそっちで、温かい料理の話を聞きたいね〉
ミナは笑って頷いた。
「昨日、燻製の魚と芋のお料理を教わったんです。また作れるようになったら、お話しします」
*
配信を終えて、水晶をしまう。
仕事の説明とは別の頁に、今日教わったことが増えていた。
部屋へ戻る途中、洗濯を担当する女性とすれ違った。
腕には、畳まれた布が載っている。
「昼間、食事を持ってきてくれた子だね。ありがとう」
「こちらこそ。お洗濯は、間に合いましたか」
「うん。急ぐ分はね。大きな寝具はまだ乾燥室だけど、朝には使えると思うよ」
女性は布を抱え直し、宿舎の奥へ歩いていった。
ミナは自分の部屋の戸を開けた。
寝台には、到着した日から使っている清潔な敷布がある。
これも誰かが洗い、乾かして、用意してくれたものだった。
外では、また雪が降っていた。
けれど、明日の朝に使える寝具は増えた。
ミナは明日の仕事の時刻を確かめ、灯りを落とした。
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