第158話 白くなる道
王都を離れた朝、街道の脇にはまだ土が見えていた。
ミナは荷馬車の揺れに合わせ、袋の位置を直した。
城門の向こうへ塔が隠れるまで見送ってから、前へ向き直る。これからは、リュネールへ戻る道とは違う。
最初の数日は、畑と小さな集落の間を進んだ。
宿場へ着けば荷物を下ろし、食事を取り、翌朝また積む。ミナも、自分の袋だけでなく、炊事班で使う籠を運ぶようになった。
誰が何を持つかは、出発前に決められている。
最初は名前を呼ばれてから動いていたが、やがて荷台が空くのを待つ場所もわかってきた。
畑の端に白いものが残っていると気づいたのは、何日目かの昼だった。
「雪ですね」
隣の女性が、ミナの指した方を見る。
「日が当たらないところは、もう解けないんだね」
翌日は、道沿いの石垣の上にも雪があった。
その次には、刈り取った畑が薄く白くなっていた。
木の枝に積もった雪が、ときどき小さな塊になって落ちる。遠くの山は、裾よりも頂の方が明るく見えた。
ミナは、幌から顔を出している時間が長くなった。
風が吹くと首を引っ込め、襟元を寄せる。
それでも、曲がり角の先が気になって、また外を見た。
*
休憩で荷台を降りたとき、ミナは思わず肩をすくめた。
座っている間より、足元から冷たさが上がってくる。
道の端を踏むと、薄い氷がぱり、と割れた。
音に目を向けていると、班の女性が声を掛けた。
「雪は初めて?」
「見たことはあります。でも、こんなに残っているところを歩くのは、あまり」
ミナは、靴の下で割れた氷を見た。
「コルナからリュネールへ行く間にも山があるんです。小さい頃は、冬になると入っちゃ駄目だと言われていました」
「町の中とは違うものね」
「はい。道が見えなくなるって。……今なら、少しわかる気がします」
道の脇の溝が、雪の下で途切れていた。
その先にも続いているはずなのに、どこが縁なのか見えない。
ミナは踏み固められた場所へ戻った。
袋から布を出そうとすると、紐がいつもより硬かった。
手袋をした指を輪へ入れ、ゆっくり引く。
開いた口から布を取り出して、少しほっとした。
工房で直してもらったときには、目を伏せていても開けられた。
今は、風を避けながら袋を支えることも必要だった。
「使えた?」
「はい。練習しておいてよかったです」
ミナは余った紐を留めへ収めた。
出発を知らせる声がして、皆と一緒に荷馬車へ戻った。
*
北寄りの宿場に着いた日は、炊事班も食事の用意を手伝った。
台所の窓は白く曇り、入口のそばには濡れた靴の跡が並んでいた。
大鍋の中では、麦と根菜、細かく切った肉が煮えている。
宿の料理人が味を確かめ、ミナへ器を渡した。
「こっちから配ってくれるかい。外の荷を運んでいる連中も、順に来るから」
「はい。何人ずつですか」
「まず六人。その後は戻った順だね」
ミナは台の上に六つの器を置いた。
盛り始めると、湯気が頬へ触れた。麦が底へ沈みすぎないよう鍋を混ぜ、具の量を見て分ける。
けれど、六人は揃って来なかった。
先に二人が入り、厚い上着を脱ぎながら器を受け取った。
残りの人は、荷車の覆いを直しているという。
ミナは盛り終えた器を見た。
入口が開くたびに、台所の床を冷たい空気が流れる。最初の器から上がっていた湯気が、少なくなっていた。
「あの、残りは、戻られてから盛った方がいいでしょうか」
料理人が台を見て頷いた。
「そうしよう。そっちは私が温め直す。器も、冷たいところに並べておかなくていいよ」
ミナは鍋の近くの、邪魔にならない場所を聞いた。
空の器はそこへ置き直す。次の二人が戸を開けたところで、盛り始めた。
荷物を置き、手を洗い、席につく。
その間に用意すると、受け取った人が器を両手で包んだ。
「ありがたい。指まで冷えちまって」
すぐに匙を入れ、息を吹きかける。
ミナは次の器を持った。
早く盛っておくより、温かいまま渡せた。
最後の二人が戻る頃には、入口から届く声で顔を上げられるようになっていた。
*
全員へ渡し終えてから、ミナも食事を取った。
麦は柔らかく膨らみ、肉の味を吸っていた。
横に添えられたパンを割ると、中は詰まっていて、少し酸味がある。
小さくちぎって汁へ浸すと、そのままかじるときとは違う食べやすさになった。
「ここから先も、こういうパンですか」
「似たものはあるよ。でも、宿によっても違うさ。うちのは、いつもこの焼き方だ」
料理人は空いた鍋を動かしながら答えた。
「向こうで食べたら、比べてごらん」
「はい」
ミナはもう一口食べた。
寒いところの食事、と一つに考えていたけれど、この宿にも、いつもの味がある。
記録するなら、宿場の名前も一緒に書いておこうと思った。
片づけを手伝った後、廊下でオルヴェンと会った。
彼も食事を終えたところらしく、外套を腕へ掛けている。
「お疲れさま。台所にいたね」
「はい。今日は配るお手伝いをしました。最初、少し冷ましてしまって」
「途中から、一人ずつ用意していたのは、そのためかな」
「はい。戻ってくる時刻が、思っていたより違ったので」
オルヴェンは頷いた。
「私が受け取ったものは温かかったよ。ありがとう」
ミナは胸の前で布を畳み直した。
「よかったです」
翌朝の確認があると言って、オルヴェンは廊下の奥へ向かった。
ミナも部屋へ戻り、今日使った前掛けを乾かす場所を探した。
*
国境での手続きを終え、スヴァルト側の引き継ぎ場所へ着いたときには、雪は足首を隠すほどになっていた。
建物の前だけは広く雪が除けられ、横には馬を休ませる囲いがある。
その向こうに、車輪のない荷台が並んでいた。
ミナは下へ伸びる二本の長い滑走部を見た。
「あれが、橇……」
絵で見たものより大きかった。
人が座るものと、荷物を積むものが分かれているらしい。
支援団の前へ、一人の女性が進み出た。
厚い外套の裾は、足を動かす邪魔にならない長さだった。
肩の近くに斧の柄が見える。盾も携えていたが、それを気にする様子もなく、雪の残る足場を歩いてきた。
「護衛を担当するアストリッドです。ここからベルクまでは、私たちが案内します」
声は大きすぎず、集まった人へよく届いた。
「これより先は橇へ移ります。荷物は担当の指示で積み替えてください。雪の上へ直接置いてよいものか、迷ったら先に聞くこと」
ミナは抱えていた籠を持ち直した。
アストリッドはオルヴェンや団の責任者と、道と天候について話し始めた。
この先の道は朝に確認してあること。途中で風が強くなれば、予定の場所まで進まず待つこと。
説明を聞きながら、支援団の担当者も紙へ書き込んでいた。
やがて荷物を下ろす順番が来た。
ミナは籠を受け取り、指示された板の上へ運んだ。
*
同じ歩幅で進もうとして、足が雪へ沈んだ。
体が前へ傾く。
ミナは踏み直したが、持っていた籠が膝に当たった。
「そこからは、こちらの跡を使って」
そばにいた兵が、踏み固めた通路を示した。
遠回りに見えて、ミナが避けたところだった。
「はい。すみません」
「急がなくていい。まず足が置けるところへ」
歩幅を小さくして、足を下ろす。
さっきより沈まなかった。
籠を運び終えると、帰りは同じ跡をたどった。
アストリッドが、団員の装備を順に確かめていた。
ミナの前でも足を止める。
「靴は痛まないか」
「はい。今のところ、大丈夫です」
「指先の感覚は?」
ミナは靴の中で足の指を動かした。
「あります」
「途中で変わったら言ってくれ。手袋をしたまま、袋は開けられる?」
ミナは輪へ指を掛けて見せた。
口が開くと、アストリッドは頷いた。
「そのまま閉じて。余る紐も収めておいて」
「はい」
手元を見届けてから、アストリッドは次の人へ声を掛けた。
ミナだけを長く見ているわけではなかった。
大人の団員にも、同じように靴や留め具を確かめている。
最年少だから心配させてしまうかもしれないと思いかけていたミナは、袋の口をもう一度見た。
ここを通る皆に、必要な確認なのだ。
*
橇が動き始めると、馬車とは違う揺れが体へ伝わった。
車輪が石を越えるような細かな跳ね方はしない。
けれど、均した雪の継ぎ目で、ときどき座面が持ち上がる。
ミナは教わった場所へ手を置き、膝の上の毛布を直した。
目の前の道は白かった。
道端も、遠くの斜面も白い。
ところどころに立つ標がなければ、どこまでが街道なのか、ミナにはわからなかった。
林の中へ入ると風が弱くなった。
針のような葉を持つ木々が、重そうに雪を載せている。
馬の息が白く広がり、橇の下で雪を擦る音が続いた。
ミナは毛布の下で足先を動かした。
まだ、冷たさも指の動きもわかる。
隣の女性も同じように姿勢を変え、二人で少し笑った。
「座っているだけでも、することがありますね」
「本当ね」
先を行く護衛が、ときどき振り返る。
曲がり角では後ろの橇まで通るのを待ち、それからまた進んだ。
ミナは外を眺めながら、その動きも目で追っていた。
*
午後の光が傾き始めた頃、木々の間に煙が見えた。
一本だけではなかった。
近づくにつれ、幾つもの煙突と、急な傾斜の屋根が現れる。
石でできた低い壁の上に、木の二階が載っていた。窓は小さく、入口の前には雪を払った跡がある。
「ベルクです」
前から届いた声に、ミナは顔を上げた。
町へ入る道の脇で、男の人が薪を運んでいた。
軒下には、割った木が隙間を揃えて積まれている。
別の家の前では、子供が靴についた雪を落としていた。戸口から何か言われ、片足だけでなく、もう片方も丁寧に払う。
ミナは、その様子に少し笑った。
下宿へ帰ったとき、泥を落とし忘れて呼び止められたことがあった。
「こんなに雪があっても、皆さん、外でお仕事をしているんですね」
そばにいた護衛が、薪を運ぶ男へ目を向けた。
「雪には慣れています。ただ、今年は雪かきに取られる時間が長い。ほかの仕事が、その分遅れるんです」
ミナは、家の前から道まで続く細い通りを見た。 そこだけ雪がないのは、誰かが取り除いたからだった。
雪を避けて家の中へ入る。
薪を運ぶ。夕飯の支度をする。
白い景色の中にも、毎日の仕事が続いていた。
橇が止まり、降りる順番を知らせる声がした。
ミナは毛布を畳み、足を下ろす場所を確かめた。
すぐに歩き出さず、一度立って足の感覚を見る。
町の奥から、パンを焼くような匂いが届いた。
王都で振り返ったときとは、少し違う香りだった。
ミナは袋を受け取り、皆の後へ続いた。
明日から使う台所は、この町の中にある。
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