第157話 初めての王都、セントリア
王都セントリアが見えてきた、と前の荷馬車から声がした。
ミナは幌の端から顔を出した。
街道の先に、灰白色の城壁が横たわっている。その上へいくつもの塔が突き出し、さらに奥には、午後の光を受ける淡い色の屋根が見えた。
どれが王城なのか、まだわからない。
それを尋ねようとして、先に城門の大きさへ目を奪われた。
「あそこを、通るんですか」
「そう。荷車は右の列だね」
隣に座っていた女性が、街道から分かれる道を示した。
門の手前で、荷馬車の列がゆっくり曲がっている。歩いて入る人は、その脇の別の入口へ向かっていた。
干し草を高く積んだ車と、大きな樽を幾つも載せた車。その向こうからは、空になった荷台が戻ってくる。
ミナは袋を膝へ引き寄せた。
リュネールの門でも人を待つことはあったが、これほど長い列の中へ入るのは初めてだった。
順番が来ると、同行する担当者が書類を出した。
荷物と人数を確かめる声が、門の下で響く。
頭上の石を見上げたまま進んでいると、急に視界が明るくなった。
通りの先にも、通りがあった。
高い建物の間を、まっすぐ道が続いている。二階や三階の窓から店の旗が下がり、軒先では水桶を持った人が石畳を洗っていた。
馬の蹄の音に、車輪の音が重なる。
建物が途切れたと思ったところにも、横へ延びる道と、その奥の屋根が見えた。
「……広いですね」
「王都は初めて?」
「はい」
ミナが頷くと、女性は奥の高台を指した。
「あれが王城。私たちは、手前で曲がるよ」
塔の間に、旗が揺れていた。
あそこに国王がいるのだと思って見ていると、近くから甘く香ばしい匂いが流れてきた。
思わず振り向く。
店先で、焼き上がったばかりの丸いパンが籠へ移されていた。表面には、細かく砕いた何かが散っている。
「気になる店は、目印も覚えておきな」
女性が笑った。
ミナは少し頬を熱くして、パン屋の看板を見た。
けれど、すぐ次の角にもパンの絵を描いた看板があった。
*
支援団の集合場所は、倉庫と宿舎を備えた建物だった。
中庭には木箱が並び、壁際では長い管を布で包んでいる人がいた。別の荷台には、鍋が入れ子にして積まれている。
ミナは知っている道具を見つけて、少し安心した。
受付で名前を告げると、担当の女性が名簿と通知を照らし合わせた。
「ミナさん。調理補助で、十四歳。こちらで間違いありませんね」
「はい」
「…あら、今回の支援団では、あなたが最年少です。頑張ってくださいね」
ミナは、後ろで荷物を下ろしている人たちを見た。
年上の人が多いとは思っていたが、自分より若い人はいないらしい。
背筋を伸ばすと、受付の女性は説明の紙を机へ広げた。
「現地では厨房の責任者から指示を受けてください。移動中に困ったことがあれば、まず班の担当者へ。今から、その方にも会ってもらいます」
宿泊する部屋と、食事を取る場所。
翌朝の集合時刻と、出発前に受ける確認。
女性は一つずつ指しながら説明した。
「聞き取れなかったところは?」
「外へ出るときも、班の方に行き先を伝えるんですね」
「ええ。帰る時刻も。予定が変わることがありますから」
ミナは頷き、紙の端へ時刻を書き留めた。
部屋には、すでに二人の女性が荷物を置いていた。
一人は衣服や寝具の補修を担当する人で、もう一人はミナと同じ炊事班だった。
挨拶をすると、窓際の寝台を勧めてくれた。
「荷物、上げられる?」
「はい。ありがとうございます」
袋を下ろすと、肩が軽くなった。
窓からは、中庭を横切る人の頭と、向かいの屋根が見える。
この町に着いたばかりなのに、もう明日やることが決まっていた。
*
班の説明が終わった後、ミナは水場の場所を確かめに行った。
中庭の端では、箱を囲んで数人が話している。
開いた蓋の内側に、細い線が幾つも刻まれていた。
「この記録は、到着してからのものと分けてください。移動中にも、置かれた環境が変わりますから」
聞き覚えのある声に、ミナは足を止めた。
白い髪と、眼鏡の横顔。
声を掛けてよいものか迷っていると、先に相手が気づいた。
「ミナさん?」
「オルヴェン様。こんにちは」
オルヴェンは手にしていた紙を隣の人へ渡し、ミナの方へ歩いてきた。
「なんと、君も来ることになったんだね。北へ行くための準備をしているとは聞いていたけれど」
「はい。調理の確認と、講習を受けてきました。厨房のお手伝いで参加させていただきます」
説明の紙を見せると、オルヴェンは担当の欄へ目を落とした。
「そうか。仕事を任せてもらえたんだね」
その言葉で、料理屋を出る前に店主が言ってくれたことを思い出した。
教わりながら、ちゃんと働いてくれた。
向こうでも、そうしてくればいい。
「まだ、寒いところの台所はわからないんですけど」
「私にも、行って確かめなければわからないことはあるよ」
オルヴェンは中庭の箱を振り返った。
「向こうで使っている設備を見せてもらって、現地の方の話も聞く。ここで決めた通りに全部できるとは限らないからね」
ミナは頷いた。
こちらで使える道具でも、向こうの台所へそのまま収まるとは限らない。水や燃料についても、まず教わる必要がある。
「君が台所にいる間に、私は別の場所へ出ている日もあると思う。食事の時間がずれるかもしれないね」
「戻る時間がわかったら、厨房の方にも教えていただけますか」
言ってから、ミナは少し慌てた。
「あの、私が決めるわけではないんですけど。温め直すものを、分けておけると思うので」
「うん。必ず伝えよう」
オルヴェンが笑った。
「エルディアでの合同演習でも、君の食事には助けられたからね。また食べられるのは嬉しいよ」
ミナは紙を持ち直した。
これまで、教えてもらったり、道具を使わせてもらったりすることが多かった。
今度は北の国で、仕事から戻るオルヴェンの食事を用意する。
「冷めないように、相談してみます」
「楽しみにしているよ。ただ、君も食べるのを忘れずに」
箱のそばから呼ばれ、オルヴェンは返事をした。
ミナも頭を下げて、水場へ向かった。
*
翌日の確認を終えた午後、ミナは外へ出る許可をもらった。
キリルからの返事は、宿舎の受付に届いていた。
手紙に書いておいた到着予定に合わせ、時間を空けてくれたらしい。
ただし、長くはいられないとも書いてあった。
待ち合わせは、宿舎から二つ目の角にある井戸だった。
ミナが着くと、赤茶色の肩掛けをした少年が、井戸の縁から体を起こした。
「おう」
「キリル。待たせちゃった?」
「今来たとこ。……荷物、それだけか?」
「うん。宿舎に置いてきたから」
小さな袋を見せると、キリルは頷いた。
その脇には、本の角がのぞく鞄があった。
「今度は北かよ。お前、ほんとにいろんなとこ行くな」
「私も、北へ行くとは思ってなかった。キリルは、ずっと王都?」
「試験の準備でな。こっちじゃないと借りられない本もあるし」
話しながら、通りを歩いた。
向かってくる荷車を避けようとしたミナの横を、別の人が通り抜ける。
少し足を止めると、キリルも振り返った。
「そっちより、壁側。ここ、昼は混むんだ」
「ありがとう。道が広いのに、人も多いね」
「お前、王都は初めてだっけ」
「うん」
キリルは通りの先を見てから、横の道へ折れた。
「じゃ、こっち。遠回りだけど、人は少ない」
細い路地を抜けると、小さな広場へ出た。
洗濯物を干した家の前で、子供が木の輪を転がしている。
大通りから一本離れただけで、馬車の音が遠くなった。
王都にも、下宿の裏に似た場所がある。
ミナは少し歩きやすくなって、隣へ並んだ。
*
キリルが連れていってくれたのは、魔法を学ぶ者が借りて使う練習場だった。
「この後、ここで練習するから。見てくなら、受付で聞くけど」
「見てもいいの?」
見学の許可をもらい、指定された場所へ入った。
石の台が幾つか並び、周囲には燃えるものを置かないよう線が引いてある。
大きな火を出す練習は、別の場所でするという。
キリルは借りた器具を台へ置いた。
浅い金属皿の上に、決めた範囲の火を保つためのものらしい。
「派手なのじゃねえぞ」
「うん」
キリルが手をかざすと、小さな炎が浮かんだ。
皿の中心で、細く揺れている。
ミナは、炎の先が器具の印を越えないことに気づいた。
「その大きさにしておくの?」
「そう。強くするより、こっちの方が難しいんだよ」
話した拍子に、炎の先が少し伸びた。
キリルが口を閉じる。
火は元へ戻ったが、今度は少し小さくなった。
ミナも黙って見ていた。
薪なら、火が弱くなってから足すと、すぐには元へ戻らない。
キリルは何も入れず、炎だけを戻している。
決めた時間が終わると、彼は火を消して息を吐いた。
「……途中、揺れたな」
「でも、大きくなりすぎなかった。すごいね」
「そこまで揺らすなって言われてんの」
少し不満そうに言いながらも、キリルの口元は緩んでいた。
鞄から紙を出し、今の結果を書き込む。
同じような記録が、下まで並んでいた。
「毎回、書いてるんだ」
「うまくいったの、一回だけじゃ駄目だからな」
ミナは頷き、器具へ目を戻した。
「これ、お鍋を置いても同じようにできるの?」
「これは鍋用じゃねえけど……何で?」
「冷たいお鍋を置いたときと、もう温まっているときで、欲しい火が違うから」
キリルは器具を見た。
「火を同じにするのと、鍋の中を同じ温度にするのは、別ってことか」
「うん。材料を足しても、温度が下がるでしょう?」
「……そっちは、まだやってねえな」
彼は少し考え、記録とは別の端へ書き足した。
「材料を入れたときのことも、書いてくれるの?」
ミナが横から紙を覗き込んだ。
キリルが顔を向けると、すぐそばに茶色い瞳があった。
筆の先が止まる。
「……っ、ああ。聞くの、忘れねえように」
顔を戻し、紙を少し前へずらした。
耳が熱い。何か書こうとしたが、さっきまで書いていた言葉が一瞬わからなくなった。
「見えにくかった? ごめんね」
「いや。ここ、狭いだけ」
台の上には、まだ十分な空きがあった。
キリルは器具をわずかに寄せ、何でもない顔をして続きを書いた。
ミナは紙に目を向けたまま、その隣で待っていた。
「先生に聞いてみる。勝手に鍋置いたら、怒られそうだし」
ミナは笑った。
「私も、北の台所で聞いてみるね。魔法で温める道具も使うみたいだから」
「じゃあ、どんなふうに使ってたか、教えろよ」
「うん」
キリルはもう一度器具へ向き直った。
次の練習が終わるまで、ミナは話しかけずに待った。
*
別れる前に、通りの店で焼き菓子を一つずつ買った。
薄い生地の間から、煮た果物がのぞいている。
端をかじると、甘い匂いと一緒に、欠片がぽろぽろ落ちた。
ミナは慌てて包みの紙を広げた。
「それ、歩きながら食うと大変だぞ」
「先に教えてほしかった」
「今、思い出した」
キリルも自分の服についた欠片を払った。
二人で店先の腰掛けへ座る。
通りの向こうでは、配達の荷を抱えた人が、店の入口へ手を振っていた。
「試験の勉強、難しい?」
「難しい。魔法が使えりゃ全部わかるってもんでもねえし。覚えること、多い」
キリルは鞄を足元へ寄せた。
「でも、わかんなかったとこが解けると、もうちょいってなるんだよな」
ミナは頷いた。
図鑑の説明と、実際に見た葉の形がつながったときのことを思い出す。
知りたいことが減ると、別の知りたいことが出てくる。
「帰ってきたら、学校の話、聞かせてね」
「まだ受かってねえって」
「うん。だから、楽しみにしてる」
キリルは一度ミナを見て、焼き菓子の残りへ目を落とした。
「……おう。お前も、ちゃんと帰ってこいよ」
「うん。手紙も書くね」
返事を届ける先を確認してから、井戸まで戻った。
キリルは図書室へ、ミナは宿舎へ向かう。
角を曲がる前に振り返ると、彼はすでに人の流れの中を歩いていた。
片手で鞄の紐を直しながら、迷わず次の道へ入っていく。
ミナも宿舎の方へ向き直った。
今度は、角にある店の看板を覚えていた。
*
夕方、北行きの荷物につける札が配られた。
ミナは説明を聞き、自分の班と名前を記入した。
似た袋が並ぶ中で見つけやすいよう、札をつける位置も揃える。
隣の寝台の女性が、書き終えた札を見せてくれた。
「これで、向こうでも迷子にならないね」
「袋が、ですか?」
「私たちも」
ミナは笑い、紐を結んだ。
窓の外で、王都の鐘が鳴った。
どこか別の塔からも、少し遅れて音が重なる。
見ていない通りも、気になる店も、まだたくさんあった。
帰りに時間があったら、あのパン屋へも行ってみたい。
ミナは記録帳の隅へ、看板の絵を小さく描いた。
その隣には、キリルが教えてくれた道と、手紙の宛先。
新しい頁には、明日の集合時刻を書いた。
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