第154話 北の国からの依頼
洗い場の水は、十分に温かかった。
オルヴェンは指先を浸し、隣に立つ管理の男へ頷いた。
石造りの槽の向こうでは、女の人が大きな敷布を絞っている。屋根を支える柱から柱へ綱が渡され、洗い終えた布が何枚も掛かっていた。
「この温度で、困ることはあるかい」
「使っている間は、ありません。ただ、夕方になると魔石がもたなくて」
男は壁際の箱を開けた。
予備の魔石を入れる仕切りには、空いている場所が目立つ。
「前より温まるようにはしてもらったんですが、その分、取り替えることが増えました」
オルヴェンは水を引く管へ目を移した。
水は槽へ入る前に術式の刻まれた器を通る。そこで温められ、長い管を伝って洗い場へ届く仕組みだった。
管の途中に手を当てる。
継ぎ目の覆いが外れ、冷たい風が抜けていた。
「こちらの覆いは?」
「漏れを直したときに外したままでした。水は止まったので、後にしようと」
「先に戻そう。その間に、使う時間を教えてくれるかな」
男が道具を取りに行くと、敷布を洗っていた女の人が顔を上げた。
「朝と昼過ぎが多いですよ。昼食の頃は、ほとんど誰もいません」
「夕方は?」
「仕事を終えた人が来ます。あの頃にぬるくなるんです」
オルヴェンは、槽の容量を書いた板へ目を落とした。
誰も使わない時間にも、新しい水が入り続けている。
術式は真面目に、その水をすべて温めていた。
「よく温まることと、毎日使えることは、少し違うからね」
しゃがみ込み、術式の脇へ小さな印をつける。
人の少ない時間には流す水を減らし、次に使い始める前に量を戻す。管理する者が触る箇所は、二つに絞った。
複雑な操作を覚えてもらわなければ動かない設備には、したくなかった。
管の覆いを戻してもらってから、もう一度水を流す。
「これで、夕方まで持ちますか」
「今日は様子を見よう。使った魔石の数と、温度が足りなかった時間を残してほしい」
オルヴェンは立ち上がり、濡れた手を拭いた。
「明日も同じとは限らない。ここで使う人のために、もう少し合わせたいんだ」
*
その日の王城では、北から届いた書簡が開かれていた。
差出人は、スヴァルト王国の王府。
アルセリアの北に国境を接する、雪の深い国だった。
冬の暮らしに慣れた土地で、今年は例年の備えだけでは足りない地区が出ているという。
王は報告の一枚を脇へ寄せ、地図を見た。
「道は、まだ通れるのか」
「主要な街道は、除雪と護衛をつけて維持しています。ただ、脇道の閉鎖が増え、運搬に時間がかかっているとのことです」
担当の官吏が、印のついた地点を示す。
積雪の重みで損傷した水路。凍結を繰り返す給水設備。以前と同じ量の魔石では、夜明けまで温度を保てなくなった建物。
現地の術師も、すでに補修と調整に当たっていた。
けれど、一つを直す間に別の場所で不具合が出る。街道沿いの宿場へ人を移したことで、使う水と暖房の負担が増えたところもある。
「求めているのは、術師の増員だけではないのだな」
「はい。既存の設備を、今の条件で使い続けるための技術協力です。現地の術師への指導も含め、営生冠の派遣を希望しています」
王は要請の末尾まで読んだ。
アルセリアへ来た支援団を、先方がどこで迎え、どの地区へ案内するか。宿泊場所と護衛についても記されていた。
「この仕事を任せるなら、オルヴェンか」
書簡を置き、官吏へ顔を向ける。
「本人の予定と、こちらで引き継ぐ仕事を確認せよ。派遣の方向で調整する。護衛は先方と役割を詰め、現場で曖昧にならぬように」
「承知しました」
今回は、冠位たちを王城へ集めることにはしなかった。
各地で仕事を持つ者を呼び戻すより、まず要請に応じるための人員と物資を整える必要があった。
書簡に添えられた観測の記録には、空欄もある。
雪のため、人が近づけていない場所だった。
王はその頁も、ほかの報告と一緒に官吏へ返した。
「現状と、まだ確認できていない点を分けておけ。派遣が決まり次第、各冠位へも知らせる」
*
数日後、オルヴェンは引き継ぎの机に、洗い場の記録を広げた。
覆いを戻した後は、夕方にも温水を使えたという。
ただし、人の多い日には流す量を増やす必要があった。管理の男が書いた文字の横へ、次に確かめる箇所を記す。
「私が戻るまで待たず、こちらを先に見てほしい」
後を任せる術師が頷いた。
オルヴェンは、北へ持っていく資料を別の箱へ移す。
低い温度での水の流れ方。保温に使える素材。魔力を供給する者が替わっても調整できる術式。
相手の国には、長く雪と暮らしてきた知恵がある。
現物を見る前から、こちらのやり方に置き換えるつもりはなかった。
「給水路の図が届いたら、今使っている術式と一緒に見せてもらおう」
助手へ伝え、箱の蓋を閉じる。
正式な派遣の返答には、現地で作業する術師だけでなく、その生活を支える者の手配も含まれていた。
*
リュネールのギルドで、ミナは依頼板の前に立っていた。
いつも見る採取の区画より上に、新しい紙が貼られている。
北方支援団への協力者募集。
行き先に書かれた国の名前を、声に出さずに読んだ。
スヴァルト王国。
地図では知っている。
けれど、どんな町があり、どのように人が暮らしているかは、ほとんど知らなかった。
紙には、物資の積み替えや管理、食事の準備、薬草の選別といった仕事が並んでいた。
同じ食事の仕事でも、街道沿いの拠点で働く者と、移動する作業班についていく者では、条件が違う。
後者には、寒冷地での活動経験が必要とあった。
「こちらに、興味がありますか」
受付の職員に声をかけられ、ミナは顔を上げた。
「はい。でも、北の国へ行ったことはありません」
「募集は始まりましたが、今すぐ全員が出発するわけではありません。担当する仕事と経験を確認してからになります」
現地での滞在先や、必要な装備も説明を受けるという。
ミナは紙の下まで読み、受付へ戻って尋ねた。
「食事を作る場所には、台所があるんですか」
「拠点によります。建物を使えるところもありますし、道具を運び込む場所もあります。その点も含めて、詳しい説明を希望する方のお名前を受け付けています」
話を聞くことと、仕事を引き受けることは、まだ別だった。
ミナは説明を受けたいと伝え、案内を書き留めた。
帰りに外へ出ると、風が袖口へ入った。
少し冷たいと思って手を引く。
雪の国では、これよりずっと寒いのだろうか。
*
「雪は、見たことがあります」
夕方の配信で、ミナはそう話した。
台所の机には、温め直した食事と、ギルドでもらった案内の控えが置いてある。人の名前や連絡先が映らないよう、紙は裏返していた。
「コルナでも降りました。でも、深いところを長く歩いたことはなくて。リュネールとの間の山道には、冬は入れなかったんです。私が、まだ小さかったので」
店の入口で、靴についた雪を落としたことを覚えている。
道の端へ寄せられた雪を踏もうとして、滑るからと止められたこともあった。
それは、食堂へ戻れば手を温められる距離での話だった。
〈針しごと:そこで一日働くとなると、違うでしょうね〉
「はい。どんな準備が必要なのか、聞いてみようと思います」
〈針しごと:手袋をしたまま、その袋の留め具を開けられる?〉
ミナは椅子の横に置いた袋を見た。
普段使う留め具は、指先で紐を引けば外れる。
「今の手袋なら。でも、厚いものでは……やったこと、ないです」
〈針しごと:寒いからって、作業のたびに外していたら困るでしょう〉
ミナは小さく頷いた。
包丁を持つ手だけでなく、袋を開ける手も、布を結ぶ手も冷える。
「留め具も、変えた方がいいんでしょうか」
〈針しごと:まず、何を着けるかね。大きくすれば全部解決、というものでもないわ〉
ミナは記録帳を開いた。
手袋。留め具。濡れたときに替えるもの。
書いている途中で、別の疑問が浮かぶ。
「水まで凍るところでは、料理も違うんでしょうか。雪を溶かして使うんですか?」
〈針しごと:場所によるわ。雪を溶かすにも燃料がいるし、その水をどこに置くかも考えないと〉
煮炊きする前に、水を用意する。
使い終えた器を洗う水もいる。
今なら台所の容器から汲めるものに、仕事が一つ増える。
〈夕餉係:洗った布も、外では乾かせなさそうですね〉
「あ……そうですね」
ミナは窓際の布を見た。
布を干す場所まで、暖かくする必要があるのだろうか。
〈針しごと:向こうには向こうのやり方があるでしょう。道具を揃える前に、現地で使っているものを聞きなさい〉
「はい。まだ、何がわからないのかも、全部はわかっていない気がします」
〈針しごと:それを聞きに行くなら、説明会に出る意味があるわね〉
ミナは案内の日時を確かめた。
知らない料理の名前を教わるときと同じようには、進められない。
けれど、知らないまま紙を戻すのではなく、聞けることができた。
「ありがとうございます。まず、お話を聞いてきます」
*
配信を終えてから、ミナは説明の日と料理屋の仕事が重ならないことを確かめた。
ラグにも、北の国の募集を見たことを伝えておきたい。
まだ、次の旅が決まったわけではない。
仕事を任せてもらえるのか、必要な準備にどれだけかかるのかも、これからだった。
旅費を分けてある袋を、手に取る。
貯めた分を使うと決める前に、聞くことがある。
ミナは袋を戻し、記録帳の空いたところへ、もう一行書いた。
向こうで、一日をどう過ごすのか。
窓の外には、まだ雪はなかった。
*
オルヴェンは、夕食の席で北へ行く話をした。
出発までに終える仕事と、留守にする間の連絡先。
現地での滞在期間は予定を立てているが、雪や道路の状況で変わるかもしれないことも伝えた。
「帰りが延びるときは、わかったところで知らせるよ」
家族が頷く。
以前なら、仕事場へ届いた話を、そのまま仕事場で進めていた。
今は、出発が近づいてから慌てて知らせることにはしたくなかった。
孫が、匙を置いた。
「すごく寒いところ?」
「こちらより、ずっと寒い場所もある」
「おじいちゃんも、寒い?」
オルヴェンは少し笑った。
「寒いよ。だから、向こうの人に教わって、きちんと支度をしていく」
魔法が使えても、服や靴を選ばなくてよいわけではない。
人の暮らしを直しに行って、自分が先に動けなくなっては困る。
「帰ったら、雪の国の話をして」
その言葉に、オルヴェンは頷いた。
「覚えておかないとね。仕事のことばかりにならないように」
どんな家に住み、何を食べ、雪の日にどのように過ごすのか。
孫へ話したいことを考えると、持っていく記録帳に、少し余白を残しておきたくなった。
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