第151話 今日は、私がお作りします
ラグは、台の上に並べた器を見た。
一つは、今夜の自分の分。
もう一つは、明日の分。
それでも、鍋にはまだ芋が残っていた。
「……人数の見積もりだけは、なかなか上達しないな」
宿の台所で、独り言が落ちる。
潰した芋には、炒めた玉ねぎと刻んだ肉を混ぜてある。料理屋で教わったときは、店の大きな鍋で作っていた。
量を減らしたつもりだったが、芋を一つ足したのがよくなかった。玉ねぎも半端を残さないよう全部使ったので、結局、少しずつ増えていた。
ラグは布を敷いた台へ器を寄せ、右手の匙で芋を詰めた。
表面をならし、削ったチーズを散らす。
器を押さえる手がなくても、台の縁に置いた木の枠へ収めれば、簡単には動かない。大きな鍋から一度に移そうとせず、小さく分けて運ぶことにも慣れてきた。
かまどを借りて焼いていると、宿の者が覗き込んだ。
「今日は何人呼ぶんだい」
「今から、食べてくださる方を探すところです」
「順番が逆だねえ」
もっともだった。
焼き上がったうちの二つを、蓋のある籠へ入れる。
ラグが近くの修理工房を訪ねると、戸を開けるより先に、中から声がした。
「この前の器、洗ってあるぞ」
作業台の端に、見覚えのある器が伏せてあった。
革紐を切っていた職人が手を止め、今度の籠を見る。
「今日は?」
「芋です。温かいうちに召し上がれればと思いまして」
「ありがたいけど、また作りすぎたのか」
「少々」
職人は笑い、奥にいたもう一人を呼んだ。
仕事の区切りを待ち、二人が手を洗ってから蓋を開ける。表面のチーズが、匙を入れたところで薄く割れた。
「この焦げたところ、うまいな」
「塩、前より控えた?」
「はい。肉にも味がありましたので」
「これくらいが好きだ。あと、俺にはもう少し胡椒があってもいい」
ラグは頷いた。
同じものを食べても、先に気づくところが違う。その返事を聞くのが、近頃は楽しみだった。
空になった前の器を籠へ戻すと、職人が言った。
「今度は、うちの夕飯にも来いよ。持ってこなくていいから」
ラグは少し目を細めた。
「では、お言葉に甘えて」
*
ルガンを出てから、いくつもの宿に泊まった。
雨を待った朝も、荷を積み替えるため昼まで動かなかった日もある。
エルディアの内陸では、通りの店から漂う香辛料の匂いに、サハルを思い出した。
けれど、商隊は海へ向かわず、アルセリアへ続く道を進んだ。
ミナは道中で一度、帰る予定を書き足して送った。
手紙を出した日からも、まだ何日もかかった。
リュネールの門が見えたとき、ミナは荷車の縁へ手を置いた。
初めてここへ来たときには、門をくぐった後にどちらへ行けばよいのかも、よくわからなかった。
今日は、荷物を受け取る場所から下宿までの道が、頭に浮かんでいる。
「ここで降ります。ありがとうございました」
世話になった商隊の人へ礼を言い、袋を背負う。
肩に重さがかかった。
行きには入っていなかった豆や果実、木の匙が、中にある。
門の中は、昼の買い物へ出た人で賑わっていた。
荷車を避けて壁際へ寄ると、店先の白い袋が目に入る。口を折り返した袋には、小麦粉が盛られていた。
その隣には、いつも使っていた乾燥した香草。
値札を見てから、ミナは店の奥を覗いた。
「いるかい?」
「いえ、今日は……すみません。見ていただけです」
まだ下宿に着いてもいない。
袋の隙間も、あまりなかった。
少し先の肉屋では、店の人が客と話しながら肉を包んでいる。
パンを運ぶ籠が通り過ぎ、焼けた皮の匂いがした。
ルガンで探したときには、すぐには見つからなかったものが、いつもの場所にある。
ミナは歩みを緩めた。
今なら、こちらで買えるものを使って、あの煮込みを作るにはどうすればよいか考えられる。
けれど、答えを出す前に、背中の袋を担ぎ直した。
まずは、帰ろう。
*
下宿の扉を開くと、階段の下に洗った敷物が立てかけられていた。
「あら」
管理人が、桶を持ったまま振り向いた。
ミナは戸口で立ち止まり、背筋を伸ばす。
「ただいま、戻りました」
「おかえり。そろそろかと思っていたよ」
その返事を聞いて、ようやく肩の力が抜けた。
まだ袋を背負っているのに、少し軽くなった気がする。
「途中で、予定が少し変わってしまって」
「手紙は届いているよ。まず荷物を下ろしなさい。話は座ってから聞けるから」
階段を上がり、部屋へ入る。
窓を開けると、向かいの屋根が見えた。通りから聞こえる声も、旅先で聞いていたものとは少し違う。
ミナは袋を寝台の脇へ置いた。
食材を出し、湿っていないか確かめる。布を広げ、折り目に溜まった細かな土を払った。
明日の朝、全部をもう一度袋へ戻す必要はない。
記録帳を机へ置く。
包丁は決めた場所へ。木の匙は、洗うものと一緒に。
いつもなら出発の順番に並べる道具を、今日は使う場所へしまっていく。
空になった袋を見て、ミナは寝台の端へ座った。
窓の下を誰かが笑いながら通り過ぎる。
「……帰ってきた」
言ってみると、もう一度、嬉しくなった。
*
午後、ギルドで帰着の報告を済ませた。
旅先で終えた依頼の書類を確かめてもらい、ラグへ戻った知らせを届けてもらえるよう頼む。
すぐに会えるとは限らないので、下宿へ戻ることも伝えた。
帰りに、夕飯用のパンを少し買った。
今日は手持ちの食材と合わせて、簡単なものにしようと思っていた。
ところが、手袋を洗って干しているうちに、階下から名前を呼ばれた。
降りていくと、ラグが立っている。
右手には籠を提げていた。
「おかえりなさい、ミナさん」
「ただいまです。ラグさん、お元気でしたか」
「はい。そちらも、無事に戻られて何よりです」
ラグの視線が、ミナの顔から立ち姿へ移った。
怪我を探しているのかもしれないと思い、ミナは手を少し広げた。
「大丈夫です。帰りも、何事もなく」
「それを聞けて、安心しました」
ラグは籠を持ち上げた。
「夕飯は、もうお決まりですか」
「パンは買ってきたんですけど、まだ作っていなくて」
「でしたら、私に作らせていただけませんか」
籠には、包まれた鶏肉と玉ねぎ、それにりんごが入っていた。
ミナが覗くと、ラグは少しだけ得意そうな顔をした。
「食べていただきたいものがあります」
*
台所を借りると、ミナはいつものように布を濡らした。
作業台を拭き、芋へ手を伸ばす。
「今日は、座っていてください」
「でも、皮くらいは」
「お願いしたいことができたら、お呼びします。まずは、お客さまで」
ラグが椅子を示したので、ミナは布を畳んで腰を下ろした。
それでも、手元が気になった。
ラグは芋を茹でている間に、籠から小さな木枠を取り出した。
台に置いた枠の中へ器を収め、柔らかくなった芋を移して潰し始める。
力を入れても器が横へ逃げない。
「それ、作ってもらったんですか」
「道具の修理を頼んでいる方に相談しました。器の底に合わせただけだ、とおっしゃっていましたが」
匙を置く場所も、鍋を寄せる場所も、右手で届く範囲にまとまっている。
使い終えたものを先に脇へ移してから、次の器を持つ。
ミナは膝の上で手を重ねた。
手伝おうと立つ前に、ラグの方で次の準備ができていた。
鶏肉を鍋へ入れると、皮の焼ける音がした。
すぐには動かさず、端に色がついてから返す。
玉ねぎを加えて火を弱め、薄く切ったりんごと少量の水を入れて蓋をした。
「りんごも、一緒に煮るんですね」
「最後に入れる分も残してあります」
皿の上には、厚めに切ったりんごが数切れあった。
「薄い方は汁に溶けるように。こちらは、食べたときに残るように、と教わりました」
「どなたに?」
「町の料理屋です。食べて気になったので尋ねたところ、仕込みのときに見せてくださいました」
その日、ラグは頼まれた薪を運び、店の者と同じ昼食を食べたという。
それから時々、空いている時間に顔を出すようになったらしい。
「先日は、芋を少し多く作りすぎまして」
「どれくらいですか」
「自分の夕飯と、翌日の分と、近くの工房のお二人の分ができました」
ミナは顔を上げた。
「……少し、でしょうか」
「私も、そこは考え直しているところです」
ラグが真面目に言うので、ミナは口元を押さえた。
笑うと、長く荷車に揺られていた疲れまで、少しほどけた。
蓋を開ける頃には、甘い玉ねぎと焼けた肉の匂いが台所へ広がっていた。
ラグは厚切りのりんごを加え、肉の中まで火が通ったことを確かめる。
肉を取り出した後の汁を少し煮詰め、皿へ盛った芋と鶏肉にかけた。
「お待たせしました」
ミナの前へ、温かい皿が置かれる。
パンを分けることだけは任せてもらい、管理人も誘って食卓についた。
*
最初に、肉を小さく切って口へ運んだ。
皮に残った香ばしさの後で、柔らかな甘みがした。
甘いだけではない。りんごの酸味と玉ねぎの味が、肉の汁に混ざっている。
次に添えられたりんごを食べると、こちらには形も香りも残っていた。
「……おいしいです」
ミナはもう一度汁をつけ、それからラグを見た。
「これ、りんごの種類で味が変わりますよね。お店でも同じものを使っているんですか?」
「同じものがない日は、量を変えるそうです。私が最初に作ったときは、少し甘くなりすぎました」
「そのときは、どうしたんですか」
「食べました」
ミナが瞬きをする。
管理人が先に笑った。
「次は直したんでしょう?」
「はい。まず、りんごを味見するようになりました」
ミナも笑いながら頷いた。
旅先で覚えた料理の話を、たくさんするつもりだった。
けれど今は、ラグの話をもっと聞きたかった。
料理屋で見せてもらった道具のこと。
胡椒を少し増やしてほしいと言った職人のこと。
空の器を返しに行ったつもりが、お茶を出されて話し込んだこと。
ミナが知らないリュネールでの日々が、食卓の上に増えていった。
食べ終えてから、ミナは部屋から小さな包みを持ってきた。
乾いた果実と豆、それに木の匙。
記録帳は、汁がつかないよう拭き直した机の端へ置く。
「こちらが、ルガンで教えていただいた煮込みに使う実です。酸っぱいので、少しずつ」
ラグは欠片を口に入れ、しばらく黙った。
耳が、わずかに動く。
「……なるほど。少しずつですね」
「私も、最初はびっくりしました」
ミナは笑って、記録帳を開いた。
イェルカは焼き目のついたところを好み、ゼルは酸味を後から足した。そう書いた頁を見せながら、二人で食べに来てくれた夜のことを話す。
「お二人とも、よく召し上がったのですね」
「はい。待っている間から、楽しみにしてくださって」
尻尾が床を叩く音まで思い出し、ミナはまた少し笑った。
「今度は、私がルガンで教わったものを作りますね」
「では、こちらで材料を探すところからですね」
窓の外で、店じまいをする戸板の音がした。
明日はこの町の店を回れる。夕方には、またこの下宿へ帰ってこられる。
ミナは記録帳を閉じ、空になった皿を重ねた。
「ごちそうさまでした。……ただいまです、ラグさん」
ラグは、右手に持っていた匙を置いた。
「おかえりなさい、ミナさん」
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