第150話 また来たい国が、もうひとつ
朝の通りを、荷車の車輪が鳴らしていった。
宿の戸口に立つと、川から来る風が頬に触れた。昨夜の食器は、もう棚に戻っている。台所を借りた代金も払い、荷物もまとめた。
それでもミナは、何か忘れている気がして、袋の口をもう一度確かめた。
「匙なら入れたでしょう。さっき見たよ」
イェルカが、杖を肩に預けて笑った。
彼女の荷物は、ミナより先にまとまっていた。今日は集荷場で次の仕事の相手と会う。ミナの乗る商隊とは、出発する場所も違った。
「……はい。入れました」
「昨夜はよく眠れた?」
「少し、目が覚めました」
「あれだけ明日の準備をしていたのにね」
眠れなかったわけではない。
ただ、目が覚めるたび、今日は出発の日だと思った。
イェルカは戸口から一歩下がり、通りの向こうを見た。水桶を運ぶ人が、二人の前を通り過ぎる。
「次に来たら、まだ歩いてない道を案内するよ。仕事が合えば、だけど」
「はい。そのときは、また違う料理を作ります」
「そこは、昨日と同じでもいいんだけどな」
昨夜、皿の端に残った焼き野菜まで、イェルカはきれいに食べた。
豆の煮込みへ足す酸っぱい果実の量は、ミナより少し多かった。
そのことも、もう記録帳に書いてある。
「でも、覚えてきた料理の話は聞きたいね」
「たくさん、持ってきます」
「全部、荷物に詰めようとしないこと」
ミナが袋を見下ろしたので、イェルカは声を立てて笑った。
それから、青と白の髪紐の端を指で示す。
「ほどけてるよ」
結び直して顔を上げたときには、彼女も杖を持ち直していた。
「じゃあね、ミナ。よい旅を」
「イェルカさんも。……ありがとうございました」
手を振ると、長い尾が外套の裾を押して揺れた。
何度も後ろを確かめてくれた人が、今朝は前を向いて歩いていく。
ミナはその背が荷車の陰へ隠れるまで見送り、宿へ戻った。
*
商隊の荷車には、木箱と、縄で束ねた薄い板が積まれていた。
川沿いの町で作られたものが、これからタルカへ運ばれていく。
ミナは指定された場所へ袋を置き、槍がほかの荷物に引っかからないよう向きを直した。
「昨夜の鍋は、空になったか」
振り向くと、ゼルが立っていた。
背負った武器はいつもと同じだが、今日は旅の荷物を持っていない。彼の次の仕事は、明日からだった。
「はい。宿の方にも食べていただきました」
「そうか」
琥珀色の目が、荷車へ移る。
その視線を追って、ミナも自分の袋を見た。
「木の枠も、直してもらえました。帰るまで、ちゃんと使えそうです」
「濡れたままにするなよ」
「はい」
「川の葉と、乾いた実は分けてあるか」
「葉はもう、仕事の分を渡しました。持って帰るものは、乾いたものだけです」
ゼルが頷く。
出発前に確かめることは、いつも具体的だった。その声を聞いていると、これからまた二人で採取へ行くような気がした。
けれど、荷車の御者が手綱を取る。
ゼルは道の脇へ移り、車輪の通る場所を空けた。
「足元を見ろ。だが、下ばかり見るなよ」
ミナは顔を上げた。
川の向こうには、朝日に照らされた工房の屋根が並んでいる。水車がゆっくり回り、その下で白い水が砕けていた。
町へ来た日には、どの建物で何を作っているのか、ほとんどわからなかった。
「はい。周りも、見ます」
「なら、いい」
短い返事の後で、ゼルは少しだけ首を傾けた。
「次は、何を食わせてくれる」
「……まだ、決まっていません」
「楽しみにしておく」
ミナは笑ってしまった。
昨日、食事を待っていた尻尾の音を思い出したからだった。
「はい。また、一緒に食べてください」
荷車が動き出す。
ゼルは片手を上げ、ミナも両膝の上から手を離して振った。
道が曲がる手前で振り返ると、まだ、そこに立っていた。
*
帰りの道にも、初めて見るものがあった。
行きには荷物で隠れていた水路の分かれ目。斜面に干された、色の違う敷物。渡し場の柱につけられた、水の高さを示す傷。
馬を休ませる間に歩いてみると、道の脇の草にも見覚えがあった。
ただし、似ているだけで採ってよいとは限らない。
ミナは葉の裏を確かめ、場所を書き留めるだけにした。
何度か宿を替えるうちに、川沿いの湿った匂いが薄くなった。
食事の椀にも、豆の多い日と、穀物の多い日がある。柔らかく煮たものもあれば、噛むほどに味がするものもあった。
初めて通ったときには、知らない料理として食べていた。
今は、これは水を多く使うのだろうか、こちらは先に豆を煮ているのだろうかと、匙を止めることが増えた。
「冷めるぞ」
向かいの商人に言われ、ミナは慌てて口へ運んだ。
考えるのは、食べてからでもできる。
ある朝は、出発前に雨が降った。
ミナは袋の覆いを広げ、隣に積まれた木箱の角へ水が集まっているのを見つけた。勝手に縄を解かず、持ち主を呼ぶ。
覆いの端を持つよう頼まれ、二人で傾きを直すと、水は車輪の外側へ流れた。
「助かった。中が濡れると困るんだ」
言われて、ミナは自分の荷物へ戻った。
以前なら、袋が濡れていないかを確かめるだけで精いっぱいだったかもしれない。
手袋を拭き、濡れた覆いをしまう場所も空けておく。雨上がりの道を進む頃には、車列のあちこちから、布を叩く音が聞こえていた。
タルカの門が見えた日は、昼前から荷車の列ができていた。
ミナは登録札と書類を出しやすいところへ移す。順番が来るまでの間、門の上の影が少しずつ短くなった。
町へ入ると、張り出した日除けの下に人が集まっていた。
石壁の色も、店先の大きな蒸し器も、覚えている。
ミナは荷物を宿へ預けてから、その店を探した。
「ラウマを一つ、お願いします。ここで食べます」
女の人が蓋を持ち上げると、湯気が顔の横を抜けた。
深い器に、穀物と豆が盛られていく。
「たれは?」
「かけてください」
酸味のある、とろりとしたたれ。
初めて食べたときは、見た目から想像した味と違って、少し驚いた。
今日は、受け取る前から口の中にその味を思い出していた。
日除けの下の長椅子へ座り、トビアスの作った匙を取り出す。
薄い縁に、柔らかな穀物が乗った。
「……ここのは、やっぱり豆が柔らかいです」
器を戻すときにそう言うと、女の人が手を止めた。
「ほかでも食べたの?」
「はい。川の方では、葉に包んだものも食べました。香りが違って、おいしかったです」
「ああ、あっちはそうするね。うちのも、また違うだろう?」
「はい。同じ名前でも、こんなに違うんですね」
女の人は空になった器を受け取り、洗い桶へ置いた。
「家ごとにも違うよ。豆をもっと入れろって人もいれば、たれを増やせって人もいる」
「お店では、どうやって決めたんですか」
「この量で腹にたまって、毎日買える値段になるようにさ」
ミナは、店先に書かれた値段を見直した。
後ろでは、仕事着の男の人が二つ注文している。片方は持ち帰るらしく、別の包みに詰めてもらっていた。
「変えたい日もあるけどね。いつものを食べに来る人もいるから」
サハルの食堂で、同じ料理をもう一度頼んでくれた人を思い出した。
違う料理を覚えることばかり考えていたけれど、同じ味を待つ人もいる。
「ごちそうさまでした。また、食べに来たいです」
「おいで。器を返しに来る心配がない客なら、歓迎だよ」
ミナは自分の手が空なのを確かめ、笑って頭を下げた。
*
宿で荷物を整理してから、短く配信を始めた。
窓際に置いた水晶の前には、記録帳と、洗って乾かした木の匙を並べる。
「タルカへ戻ってきました。ここから、帰りの商隊に合流します」
〈夕餉係:もう、帰る時期なんですね〉
「はい。お願いされていた仕事は、全部終わりました」
言ってから、ミナは記録帳の厚みを指で挟んだ。
端に貼った小さな紙が、何枚も重なっている。
「魔物が出て、予定を変えた日もありましたし、採った後の様子を見るのに待った日もあって……思っていたより、長くなりました」
タルカへ来てから、一か月半余り。
同じ場所にずっといたわけではないので、振り返ると、もっと前のことのようにも思えた。
〈木の匙:その匙は、お土産ですか〉
「自分の分です。作っている方に、お会いできたので」
柄を持って見せる。
鳥の彫刻も見せたかったが、買ってはいないし、今ここにもない。
かわりに、木を薄く削っても弱くならないよう、向きや形を考えていると聞いた話をした。
〈夕餉係:帰ってから作る料理も、楽しみにしています〉
「ありがとうございます。ただ、同じ材料が揃うかは、まだわからなくて」
小さく笑い、匙を布へ戻す。
「こちらに来たときは、いつもの材料がなくて困ったんです。今度は、反対になるかもしれません」
全部を持って帰ることはできない。
だから、似たものを使うなら何を変えるのか、変えずに残したい味はどこなのかを、また考えることになる。
「まだ、食べていないものもたくさんあるんです。同じ料理でも、別の町では違うって教えていただいたので」
〈夕餉係:それは、一度では終わりませんね〉
「はい」
残念そうな声には、ならなかった。
もう一度来たときに、聞きたいことがある。会いたい人も、増えた。
「続きがあるのは、楽しみです」
*
国境の詰所では、荷を調べ終えた車から順に、道の先へ進んでいた。
ミナは書類を受け取り、折れないよう袋の内側へしまった。
仕事を終えた印も、途中で受け取った明細も、揃っている。
手元に残した記録は、自分の分だった。
これからエルディアの内陸を通り、アルセリアへ向かう。
リュネールまでは、まだ何度も朝を迎える。今日、国を出たからといって、明日には下宿の階段を上れるわけではない。
ミナは水筒の栓を締め、荷車へ乗り込んだ。
「どうだった、ルガンは」
隣の荷を結び直していた商人が、何気なく尋ねた。
最初に困った買い物も、濡らさないよう抱えて帰った葉も、土の下から少しずつ掘り出した根も、すぐに浮かんだ。
怖い思いもした。
自分だけではできなかったことは、今でもたくさんある。
それでも、昨夜書き足した記録の端には、今度来るときに聞きたいことが並んでいた。
「また来たい国です」
ミナが答えると、商人は頷き、緩んでいた縄を引いた。
「そりゃ、いい旅だったな」
荷車が進み始める。
ミナは一度だけ振り返ってから、これから通る道へ目を向けた。
*
ガルヴァンが手紙を受け取ったのは、補修を終えた道を歩いて戻った夕方だった。
長靴には乾いた土がつき、外套の肩には細かな木屑が残っている。
先に手を洗い、机の上へ封筒を置いた。
差出人の名前を見て、口元が緩む。
仕事が終わり、アルセリアへ帰ることにしたという。
採り方を教わったもの。食べ方を覚えたもの。予定通りには進まなかったことも、隠さずに書いてあった。
怪我はしていないとある行を、ガルヴァンは二度読んだ。
「そこは、先に書いてくれ」
誰もいない部屋で言い、続きを開く。
いつか自分の店へ来てほしい。
そのときには、ほかにも食べてもらいたい料理が増えていると思う。
ガルヴァンは椅子の背へ体を預けた。
両手で器を抱え、こぼさないよう歩いてきた小さな給仕が浮かぶ。
泣いている客を見て、おろおろしていた顔。その後ろから、何も聞かずに温かい料理を出してくれた店主の姿も。
エドガーの墓にも、いつか手を合わせたい。
あの一皿を、まだ覚えていると伝えたかった。
道の補修が済んでも、確かめる仕事は残っている。
今すぐ出発することはできないが、できないままにしておく必要もなかった。
ガルヴァンは翌日使う予定表を引き寄せ、ひと通り目を通した。
旅の日数も、調べておこうと思った。
手紙の最後には、帰ってから連絡が届く住所がある。
小さな文字は、最後まで丁寧だった。
「あんなに小さかったのにな」
折り目に沿って紙を畳み、封筒へ戻す。
「……次に会うときは、どこの飯を覚えているんだろうな」
まだ知らない料理の名前を考えながら、ガルヴァンは、返事を書くための紙を一枚取った。
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