第149話 ルガンの夕ごはん
豆を戻した水が、少し濁っていた。
ミナは器を傾け、豆の膨らみを確かめた。昨夜、寝る前に水へ浸けておいたものだった。
高地で見た豆より、いくらか粒が小さい。
市場で教わったことを記録帳へ書き足し、今朝もう一度読んでいた。
今日は、三人分の夕飯を作る。
宿の台所には、昼の客へ出した器がまだ残っていた。ミナは女主人に声をかけ、決めていた作業台を使わせてもらう。
大きな鍋は借りられた。
火を使う順番も、確かめてある。
「豆の鍋は奥へ置いていいよ。手前は、まだ使うからね」
「はい。ありがとうございます」
ミナは包みを開いた。
豆と肉、玉ねぎ。それから根菜と、少しだけ残しておいた硬い乳酪。
帰るためのお金とは別に、今日の夕飯に使う分を決めて買ってきた。
食べてもらいたいものを全部並べると、鍋も作業台も足りなくなる。
記録帳から選んだのは、二つの料理だった。
豆を煮始める。
湯の表面に浮いてきたものをすくい、火を少し弱くした。
エナの家で見た鍋を思い出す。
同じ大きさの豆ではないから、待つ時間まで同じにはできなかった。
*
イェルカが来たのは、玉ねぎを切り終えた頃だった。
「もう、いい匂いがする」
戸口から顔を出し、宿の人にも挨拶をする。
今日は杖を入口へ立てかけ、小さな袋だけを肩から下ろした。
「何かやることある?」
「では、こちらを洗っていただけますか」
根菜の籠を渡すと、イェルカは袖を上げた。
短い毛の生えた腕へ水が跳ねる。大きな尾は、濡れた床につかないよう横へ寄せていた。
「ゼルには、何を出すか伝えたの?」
「高原で覚えた料理を作ります、とだけ」
「じゃあ、あれこれ想像してるね」
ミナは笑い、切った肉を鍋へ入れた。
表面の色が変わったところへ玉ねぎを加える。
豆の様子も見て、一粒を小皿へ取った。
押すと潰れたが、まだ中心に硬さが残っていた。
こちらは、もう少し待つ。
「この豆、エナさんのところのとは違う?」
「はい。似たものもあったんですけど、戻してから煮る時間を聞いたら、こちらの方が今日の料理には使いやすそうで」
「味は?」
「これから、確かめます」
イェルカが頷いた。
洗った根菜を布の上へ並べる。
ミナは一本を手に取り、厚さを揃えて切り始めた。
イェルカに教わった道を歩いているときは、いつも前を見る余裕を分けてもらっていた。
今は、洗い終えたものが自分の手元へ来る。
それが少し不思議で、嬉しかった。
*
肉の鍋へ豆を合わせた頃、入口で低い声がした。
「夕飯を食わせてくれると聞いた」
ミナは顔を上げた。
ゼルが立っていた。
見慣れた緑の鱗と、長い鼻先。
旅装の肩には、まだ道の埃が少し残っている。長柄の武器は、邪魔にならないよう入口の脇へ預けていた。
「ゼルさん。お帰りなさい」
「ああ。仕事は終わった」
答えたゼルの視線が、かまどへ動いた。
それから、ミナへ戻ってくる。
琥珀色の目が、いつもより輝いているように見えた。
口元の形は、前とあまり変わらない。
初めて会った日なら、何を思っているのか迷ったかもしれない。
けれど、今度は分かった。
楽しみにして来てくれたのだ。
「はい。もう少しでできます」
ミナが言うと、ゼルは鍋を見て頷いた。
「待てる」
言葉とは裏腹に、床から、ぺた、ぺた、と音がした。
見ると、ゼルの尾の先がゆっくり動いていた。
ミナは気づかなかったふりをして、鍋へ向き直った。
「まだ座ってもいないでしょう」
イェルカが笑った。
ゼルは彼女へ目を向ける。
「お前も呼ばれたのか」
「もちろん。洗うのを手伝ったから、私は少し早く匂いを楽しんでる」
「そうか」
ゼルは手を洗いに行った。
その間も、ミナは口元が緩むのを止められなかった。
*
夕飯の席は、中庭の端に用意した。
壁に近いところなら、ほかの客が通る邪魔にならない。
ゼルの尾が椅子の脚へ当たらないよう、少し間を空けた。
イェルカが器を運び、ゼルが水の容器を持ってくる。
「今日は、お二人に食べていただくところを配信してもいいですか」
ミナが聞くと、二人とも頷いた。
宿の人にも確かめ、通りやほかの席が映らない向きへ水晶を置く。
「こんばんは。今日は、ルガンで道を教えてくださったお二人と、夕飯です」
文字板へ名前が現れた。
〈夕餉係:ゼルさんもご一緒なんですね〉
〈木の匙:今日は、お客さんのいる台所ですね〉
「はい。高い方で教わった豆と肉の料理を作っています」
ミナはかまどへ戻り、鍋の蓋を上げた。
湯気の向こうで、玉ねぎの形が小さくなっていた。
豆を一粒すくい、今度は中まで柔らかくなっていることを確かめる。
肉も取り分け、火の通りを見た。
煮汁の味を確かめてから、塩を少し足す。
酸っぱい実を戻して種を除いたものは、別の小鍋へ入れてあった。煮汁でのばし、匙で潰していく。
「それは、最初から入れないのか」
席からゼルが聞いた。
「エナさんのお宅では、別に添えていました。混ぜないところも食べられるので、今日はそうします」
昨日までノートの中にあった手順が、鍋と器になっていく。
ミナは二人の皿へ、豆と肉をよそった。
*
「どうぞ」
卓へ置くと、ゼルが器を覗いた。
まず、何も足さずに匙を入れる。
ミナは立ったまま、その手を見ていた。
豆と肉が口へ運ばれる。
ゼルはゆっくり噛み、飲み込んでから、もう一度すくった。
「肉の味が、豆にも入っている」
「はい。一緒に煮る時間を取りたかったので、豆は先に火へかけておきました」
「うまい」
「うまい」
短い言葉だった。
それからまた、匙が動いた。
ミナの肩から、少し力が抜けた。
イェルカは小皿のたれを足し、混ぜたところと、混ぜないところを順に食べる。
「こっちの豆だと、少し軽い感じになるね」
「皮が薄いと聞きました。エナさんのところでいただいたものは、もう少し噛む感じがありましたよね」
「うん。でも、これはこれで食べやすい」
ゼルもたれを取った。
先ほどより少し長く、器を見ている。
「どちらが、お好きですか」
ミナが尋ねると、彼は匙を止めた。
「最初は、そのまま。後から入れたい」
「二度食べたいってことね」
イェルカが言った。
ゼルは否定しなかった。
〈木の匙:それは、よい食べ方ですね〉
〈夕餉係:明日うちでも豆を煮ようかな。酸味は別添えにしてみます〉
ミナは文字板を見て笑った。
別の町の台所でも、明日は豆の鍋が火にかかるかもしれなかった。
*
焼いた根菜の皿を持ってくると、イェルカが顔を上げた。
「あ、それもあるんだ」
「こちらで手に入った根菜なので、少し違いますけど」
表面には焼き色がついている。
ミナは温かいうちに乳酪を薄く削り、上へ散らした。
硬かった乳酪が、熱で少ししんなりする。
ゼルが一切れを取った。
イェルカは端の色の濃いものを選ぶ。
「そこ、お好きなんですか」
「うん。香ばしいところ」
ミナがゼルを見ると、彼の皿には厚みのある一切れがあった。
「俺は、こっちでいい。中が柔らかい」
同じ皿から、違うものを取っている。
ミナは自分の分も取り、ようやく椅子へ座った。
豆を一口食べる。
味見のときより、肉の匂いがよく分かった。
ほっとしてから食べると、また少し違った。
「川辺では、穀物と干し肉を食べたな」
ゼルが言った。
「はい。今日は、鍋を借りてゆっくり煮ることができました」
彼は頷き、焼いた根菜をもう一つ取った。
ミナは、食べてもらった料理を覚えていてくれたことが嬉しかった。
*
食事の途中で、ゼルが旅の様子を尋ねた。
高地の風のこと。
薬草の葉を覆う布のこと。
山を越えた先では、水場を当てにしすぎないよう教わったこと。
ミナが話すと、イェルカがときどき短く補った。
「最後の採取では、周りの進み具合も伝えてくれたよ。引き上げるとき、助かった」
「皆さんが、片づけを手伝ってくださったので」
「ミナも手伝ってたでしょう」
ゼルは二人の話を聞いていた。
「歩くのは、どうだった」
「下りが、思ったより疲れました。町が見えると、早く着きたくなってしまって」
「そこで転ぶ者は多い」
ミナは頷いた。
昨日もイェルカに言われたところだった。
「でも、今は途中で歩幅を変えられるよ。ずっと私に合わせようとしなくなった」
イェルカの言葉に、ゼルがミナを見た。
「そうか。次の道でも使えるな」
それを聞き、ミナは背筋を少し伸ばした。
ルガンの依頼は終わった。
けれど、教わった歩き方は帰り道にも、その先にも使える。
「はい。忘れないようにします」
*
鍋の中身が減った頃、ミナはおかわりを尋ねた。
ゼルが器を差し出す。
イェルカも少しだけ、と続いた。
「明日は、また違う荷の案内なんですよね」
「うん。朝、集荷所へ行く。今日は早めに寝るよ」
「ゼルさんは?」
「二日後に、川の上流へ出る。今日は泊まる」
三人とも、次に向かう先が違っていた。
ミナは鍋の縁で匙を止め、よそう量を確かめた。
今夜、揃って食べられてよかったと思った。
「またこちらへ来たら、お願いしてもいいですか」
「仕事が合えばね」
イェルカは答え、それから笑った。
「ご飯の誘いも、待ってる」
「俺もだ」
ゼルの返事は早かった。
イェルカが彼へ顔を向ける。
「そっちは、予定を聞く前に返事するんだ」
「食べたいとは、言っておける」
ミナは、よそっていた匙を止めて笑った。
鍋の上へ顔を近づけすぎないよう、少し離れる。
文字板にも、笑うような言葉が並んでいた。
今夜のゼルの気持ちは、画面の向こうにも伝わったらしかった。
*
配信を終えてから、三人で食器を片づけた。
ミナが鍋を洗い、イェルカが器を拭く。
ゼルは使った卓を元の場所へ戻し、椅子の下へ落ちたものを拾った。
宿の女主人が見に来た頃には、作業台もほとんど片づいていた。
「きれいに使ってくれたね」
「貸してくださって、ありがとうございました」
残しておいた一皿を渡すと、女主人は嬉しそうに受け取った。
ミナは自分の包丁を拭き、刃を収めた。
戸口へ出ると、川から冷たい風が入ってきた。
屋内の匂いが薄れ、遠くで船の板を踏む音が聞こえる。
「ごちそうさま」
イェルカが言った。
「おいしかった。明日、歩く分まで食べた気がする」
「私も、たくさん食べました」
ゼルは武器を取り、紐を確かめた。
それからミナへ向き直る。
「別れた後に、覚えた料理なんだな」
「はい。まだ、作ってみたいものもあります」
「そうか」
琥珀色の目が、少し細くなったように見えた。
「次も楽しみだ」
ミナは笑って頷いた。
「はい。また、ごちそうします」
二人を見送ってから、台所へ戻った。
借りた鍋は、伏せて乾かしてある。
あれだけあった料理は、ほとんど残らなかった。
ミナは記録帳を開き、今日使った豆のことを書いた。
高地のものより早く柔らかくなったこと。
根菜は、厚みのあるところを少し長く焼いたこと。
その下へ、短く書き足す。
ゼルさんは、たれを後から。
イェルカさんは、焼き色のついたところ。
次に会える日が、いつになるかは分からない。
それでも、次に作るときには、今日より少し二人の好きなものが分かる。
ミナは文字が乾くのを待ち、記録帳を閉じた。
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