第148話 できあがった鳥
坂を下る途中で、水の音が聞こえた。
ミナは足を止めず、道の先へ目を向けた。 木々の間に、白く光るものが見える。山の向こうでは細い水路を大切に使っていたのに、ここでは幅のある川が、絶えず音を立てて流れていた。
前を行く荷運びの男が、背中の荷を揺すり直す。
「もう少しだ」
その声を聞き、ミナも肩紐へ手を添えた。 イェルカが隣へ並ぶ。
「下りの方が、最後に脚へくるでしょう」
「はい。上るときとは、違うところが重いです」
「町が見えてから転ばないでね」
ミナは足元へ視線を戻した。
盆地の町を出てから、いくつかの宿を過ぎていた。
山の肩を回り、集荷所を経て、川へ下りる荷に合わせて歩いた。毎日同じだけ進めるわけではなく、途中で荷を積み替える間は待った。
それでも、道は少しずつ低くなっていた。
肌へ触れる風が湿り気を帯びる。
乾いた土の匂いに、水辺の草の匂いが混じった。 やがて木々が途切れると、川沿いに並ぶ屋根が見えた。
水車が回っていた。
岸へ繋がれた荷船のそばで、人が縄を引いている。
「あの橋、渡りました」
ミナが言うと、イェルカはそちらを見た。
「覚えてた?」
「はい。向こうに、加工場があります」
初めて来たときには、どの道を歩けばいいかも分からなかった。
今は、橋の向こうにある建物を思い浮かべられる。
ミナは少しだけ歩調を速めかけ、また戻した。 隣でイェルカが笑った。
*
商会へ着くと、まず荷の受け渡しを待った。
荷運びの人たちが木箱を下ろし、担当者が札と中身を確かめていく。
ミナも移動の書類を出した。
イェルカが道中の様子を伝え、案内の仕事を終えた印を受け取る。
「私は、もう少しここで話をしていくよ」
彼女が言った。
「次のお仕事ですか」
「うん。出るのは明後日の予定。それまで、ここに二泊する」
ミナは頷いた。
町へ着いたらすぐ別れるわけではないと分かり、少しほっとした。
「私は、工房へ行ってもいいですか」
「荷物を宿へ置いてからね。今日はもう、それを背負って歩き回らなくていい」
言われて、ミナは肩の重さを思い出した。
宿は、前に泊まったところで部屋を取れた。 主人に顔を覚えていてもらえたことが嬉しかった。
「高原はどうだった?」
「朝が寒かったです。あと、お風呂が気持ちよくて」
「温泉か。そっちは、うちにはないねえ」
主人が笑った。
ミナも笑い、部屋へ荷物を運んだ。
窓を開けると、川からの風で薄い掛け布が膨らんだ。
少し休み、水を飲む。
それから袋の中の木枠を取り出した。
布を外し、角を確かめる。
洗って乾かしても落ちなかった薄い色が、木の端に残っていた。
ミナはそれを抱え、工房へ向かった。
*
戸口から、木を削る音が聞こえた。
ミナが声をかけると、奥にいたトビアスが顔を上げた。
一瞬、目を丸くする。
「あれ。戻ってきたのか」
「はい。今日、着きました」
「無事だった?」
「はい。いろいろありましたけど、仕事は全部終わりました」
「そっか。お疲れ」
トビアスは手に持っていた道具を置き、前掛けで掌を払った。
作業台の上には、削りかけの椀が並んでいる。
足元の木屑は、前に来たときより明るい色だった。
「まだ仕事中ですよね」
「これを一つ仕上げるところ。少し待てる?」
「はい」
ミナは邪魔にならない場所へ寄った。
トビアスが椀の縁へ刃を当てる。
薄い木の帯が、くるりと巻いて落ちた。
同じところを何度も削るのではなく、指で触れて、少しだけ直す。
ミナはその手元を見ていた。
やがて彼は椀を光へかざし、脇へ置いた。
「よし。見せて」
言われて、ミナは木枠を作業台へ載せた。
*
「結構、使ったな」
トビアスは枠を持ち上げ、裏を見た。
「はい。高地の葉を運ぶときにも使いました。これがあったので、袋の中で押されずに済んで」
「留め具は?」
「外れてはいません。ただ、ここが少し」
ミナは紐を結ぶ部分を示した。
布を折り返して留めると、角のところで厚くなり、結び直すときに引っかかることがあった。
トビアスが布をつけ直した。
「こう?」
「はい。荷物が入っていると、こちらから指を入れにくくて」
彼は枠を立て、実際に紐を引いた。
少し考えてから、結び目の位置を変える。
「こっちへ逃がしたら、どうかな」
ミナも手を入れてみた。
さっきより指が動く。
「あ、これなら」
「木を削る前に、紐で変えられそうだな」
ほかにも、擦れたところを順に確かめた。
トビアスは継ぎ目を軽く押し、緩みがないかを見る。
ミナは、もっと早く相談した方がよかったのかと思った。
「使い方が、よくなかったですか」
「いや。使ったら、そりゃ擦れるよ」
彼は顔を上げた。
「どこが擦れるか、こうして見られる方がありがたい。初めて作った形だし」
ミナは角へ目を落とした。
「困ったところも、言ってよかったんですね」
「それを聞きたかったんだ。褒めてもらうのも嬉しいけどさ」
トビアスは笑い、毛羽立った紐を取り替えた。 ミナは布を畳み直し、今度は厚いところが重ならないように留める。
「これで、もう一度使ってみます」
「うん。帰ってからでも、何かあったら教えて」
調整に使った紐の代金を払い、枠を受け取った。 長く使った道具なのに、手に持つと少し新しくなった気がした。
*
枠を袋へ戻したとき、棚の上に目が留まった。
鳥がいた。
前に見たときは、羽の縁がまだ厚く、ところどころに削るための線が残っていた。
今は、体に沿って重なった羽が見える。
細い脚の先は、台座の枝をしっかり掴んでいた。
「できあがったんですね」
ミナが言うと、トビアスは棚を振り返った。
「ああ。やっと」
鳥を持ってきて、作業台へ置く。
ミナは顔を近づけた。
首が少しだけ傾いていた。
今にも向こうを見そうな姿なのに、置かれた足元は安定している。
「触ってもいいですか」
「羽の先は、そっとね」
ミナは台座へ指を添え、少し向きを変えた。
正面から見たときと、横から見たときで違っていた。
翼の下へ影が入り、丸い胸が浮かび上がる。
「前より、本当に鳥みたいです」
「前も鳥だったんだけどな」
「あっ、そういう意味ではなくて」
慌てると、トビアスが笑った。
「分かってる。ありがとう」
ミナはもう一度、枝を掴む足を見た。
細いところまで、一本ずつ形が違う。
「こちらは、売るんですか」
トビアスは、すぐには答えなかった。
「師匠には、次の市に出してみろって言われてる」
「まだ、決めていないんですか」
「うん。椀とか箱なら、頼まれたものを作るだろ。これは、俺が作りたくて作ったものだから」
彼は鳥の台座へ目を落とした。
「こういうものに、金を払ってくれる人がいるかどうか」
ミナは、自分の小さな財布を思い浮かべた。
「おいくらですか」
トビアスが顔を上げた。
「いや、買わせるつもりで見せたんじゃ」
「はい。でも、欲しいと思ったので」
彼は少し照れたように視線を外し、師匠と相談した値段を教えてくれた。
ミナは、頭の中で硬貨を数えた。
帰るためのお金は別にしてある。
土産に使うと決めた分だけでは、足りなかった。
鳥を見た。
もう一度、財布を見た。
「……今は、足りません」
「無理しなくていいよ」
トビアスは、値段を言い直さなかった。
ミナも、安くしてほしいとは思わなかった。
仕事が終わってから、少しずつ彫っていた鳥だった。 何日も、何度も、手をかけていたのを知っている。
「いつか、お店に飾りたいです」
ミナは言った。
「自分の店を持てたら、そのとき、またお願いしてもいいですか」
トビアスが鳥からミナへ目を移した。
「俺に?」
「はい」
「その頃には、もっと上手くなってるかもよ」
ミナは頷いた。
「楽しみにしています」
彼は少し黙り、それから笑った。
「じゃあ、それまで続けてないとな」
*
鳥を台へ戻した後、ミナは売り物の匙を見せてもらった。
深くすくえるもの。
先が平らで、鍋の底へ沿わせやすいもの。
柄の短いものも、長いものもある。
ミナは小ぶりな一本を持ち、掌の中で向きを変えた。
「これ、口に当たるところが薄いですね」
「食べるときに使うものだから。薄くしすぎると割れるけど」
前に川沿いで食べたラウマを思い出した。
粒をすくう匙が、自分のものより少し浅かった。
ミナは値段を確かめ、一本を選んだ。
「こちらを、お願いします」
「包む?」
「はい。帰ってからも使いたいので」
トビアスは布で表面を拭き、紙へ包んだ。
ミナは硬貨を渡し、両手で受け取る。
作業台の端には、小さな木の動物があった。 最初に見たときと同じ、丸い背中をしている。
ミナはそちらへ目を向けた。
「こちらは、売らないんですよね」
「これは駄目。非売品。未知の生物だから。」
返事が早かった。
ミナが笑うと、トビアスも笑った。
「置き場所は、何度か変えたけどさ。ここにないと、なんか落ち着かなくて」
彼は動物を少し奥へ寄せ、木屑を払った。
その横には、今日使っていた刃物が並んでいた。 小さかった頃にもらったものと、今の仕事の道具が、同じ台に載っている。
ミナは包まれた匙を袋へ収めた。
*
「市へ持っていってみるよ」
帰ろうとしたとき、トビアスが言った。
ミナは振り向いた。
彼は鳥を持ち上げていた。
「棚に置いてるだけじゃ、誰が欲しがるかも分からないし」
「はい」
「買わなくても、見てくれる人はいるだろうから。何を言われるか、聞いてみる」
声には、まだ少し迷いがあった。
けれど、鳥を置いた場所は棚ではなかった。
梱包するための布を引き出し、台座が収まる箱を選び始める。
ミナは戸口で待った。
「見てもらえると、嬉しいですね」
「うん。値段を聞かれるだけでも、案外嬉しかった」
トビアスが笑った。
ミナは少し恥ずかしくなり、袋の紐を握った。
いつか店へ飾るなら、どこだろう。
入口の近くか、客席から見える棚か。
まだない店の中に、小さな鳥を置く場所が一つできた。
*
商会へ戻ると、イェルカは中庭の長椅子に座っていた。
手元の紙を畳み、ミナへ顔を向ける。
「見てもらえた?」
「はい。使いやすくしていただきました」
ミナが結び目を見せると、イェルカは指で軽く引いた。
「開けやすそうだね」
「それから、匙を買いました」
「鳥は?」
ミナは目を丸くした。
「どうして分かったんですか」
「出る前、もう一度見たいって言ってたでしょう」
「見せていただきました。でも、今は買えないので」
小さな包みを持ち上げる。
イェルカは頷いた。
「それは、帰ってから使えるね」
「はい」
窓口の職員がミナに気づき、手を上げた。 ゼルへ取り次ぎを頼んでいた件で、返事が来たという。
「明日の午後には、こちらへ戻る予定だそうです。仕事の引き渡しが済んでからなら会えると」
ミナは思わずイェルカを見た。
「明日の夕方、お時間はありますか」
「あるよ。どうしたの」
「お二人に、ご飯を作りたいです」
言ってから、少し早口になった。
「ゼルさんには、高原で覚えた料理を、まだ食べていただいていなくて。イェルカさんにも、お世話になったので」
イェルカは目を細めた。
「それなら、明日の夕飯は買わずにおく」
ミナは笑った。
職員へ向き直り、宿で調理する場所を借りられるか確認してから、時刻を知らせたいと頼んだ。
まだ決めることはあった。
使える鍋と火。料理にかかる時間。ここで揃う食材。
けれど、誰に食べてもらうのかは決まった。
*
宿へ戻り、主人へ台所の相談をした。
ほかの客と重ならない時間なら使っていいと言われ、鍋も見せてもらう。
三人分なら、十分な大きさだった。
ミナは礼を言い、部屋へ上がった。
机へ記録帳を開く。
エナの家で教わった豆。
山の向こうで使った、酸っぱい実。
料理の名前だけではなく、誰が何を言っていたかも書いてある。
イェルカは頬の肉が好きだと言っていた。
ゼルは、次の料理も食べたいと言ってくれた。
ミナは候補を三つ書き、少し考えて一つに線を引いた。
全部を一度に作らなくてもいい。
窓の外から、荷船を繋ぐ声が聞こえた。
下の階では、誰かが夕飯の席を呼んでいる。
ミナは買ったばかりの匙を机の端へ置いた。
明日は、旅の途中で覚えた料理を作る。 それを、一緒に歩いてくれた二人が食べてくれる。
記録帳をめくる手が、少し速くなった。
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