第15話 逃げるための支度
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包丁を抜かずに帰る。
ミナは、その一行を書いてから、記録帳の上で筆を止めた。
昨日、ギルドで聞いた試験の話だった。
魔物に遭遇したら、逃げてもいい。
倒した数ではなく、どう判断して動いたかを見る。
それなら、逃げようと思った。
けれど、紙の上で決めたことを、あのガマの前でもできただろうか。
手が震えた。
足も、最初は動かなかった。
ミナは書いた言葉を消さず、帳面を閉じた。
明日は、遭遇時の対応を確かめる講習がある。
その前に、一度聞いておきたかった。
*
「今日は、少し相談してもいいでしょうか」
夕飯の器を脇へ置き、ミナは水晶を見た。
数字は二つ。
灰ねこさんと、こぐまさんだった。
〈灰ねこ:うん。どうしたの〉
「資格の試験で、魔物に会ったときの対応も見るそうです。逃げてもいいと聞いたので、そうしようと思うんですけど」
膝の上で、指をそろえる。
「また、動けなくなったらと思って」
文字は、すぐには来なかった。
ミナは器から上がる湯気を見た。
〈灰ねこ:まあ、逃げられるなら逃げた方がいい。採集に行って、戦う理由を増やす必要はないよ〉
続けて、もう一行。
〈灰ねこ:前に対処できた相手でも、毎回同じ条件にはならないからね〉
「はい。荷物があったり、疲れていたりすると違う、と言われました」
〈こぐま:逃げるつもりなら、出会う前に準備できる〉
ミナは顔を上げた。
「出会う前、ですか」
〈こぐま:合図は、すぐ出せるか〉
救援の合図。
明日の講習でも使うと、紙に書いてあった。
「水晶の位置共有は、確認しています。講習では、笛の合図も習います」
〈灰ねこ:明日は、普段の荷物で確かめてもらうといい。手ぶらでできても、袋を背負うと変わることがある〉
ミナは、壁際の採集袋を見た。
紐を外す練習はしていた。
足の動かし方も習った。
でも、何かを取り出しながら逃げる練習は、まだだった。
「……全部、一緒にはやっていませんでした」
〈こぐま:講習で試せばいい〉
短い言葉だった。
できるか、できないか。
今、ここで答えを出さなくてもよかった。
ミナは帳面を開き、先ほどの一行の下へ書き足した。
荷物を背負って、合図を出す。
*
翌日の講習は、ギルドの裏庭で行われた。
杭と綱で道が作られ、その途中に、荷箱が置かれている。
綱の向こうには職員が立ち、低い台へ木の札を並べていた。
「本物の魔物は使いません。札を見せたら、相手と周りを確認してください」
講習担当者が、区切った場所を示す。
「こちらが救援を呼べる場所。あちらの綱の外は、崖だと思ってください。速さだけで通り抜けようとしないこと」
ミナは綱の位置を見た。
右へ動けばいいとは限らない。
箱の陰で、先が見えないところもある。
「二人ずつ。先にやる人と、見て記録する人を交代します」
隣から、声がした。
「あ。この前の」
顔を向けると、浅層で会った若い男がいた。
今日も大きめの袋を持っている。
ただ、肩からずれないよう、紐は短くしてあった。
「帰り道で、先に休んでたよな」
「はい。あのときの」
「俺、トーマ。今日、組める?」
「ミナです。お願いします」
名乗ると、トーマは記録用の板を持った。
「じゃあ、俺が先に見る方でいい?」
ミナはうなずき、練習用の笛を受け取った。
吹く回数と合図の意味を、担当者と一緒に確かめる。
実際に使う区域でも同じ合図なのか、出発前に確認するよう教わった。
笛を、腰の小袋へ入れる。
採集袋には、重さを合わせるための布包みを足した。
今日は鍋も、普段どおり入っている。
*
荷箱の横を進む。
担当者が札を上げた。
前方に、魔物。
ミナは足を止め、横を見た。
崖の綱へは寄らない。
背後の道は、まだ空いている。
笛を出そうと、小袋へ手を伸ばした。
指が、採集袋の紐へ当たった。
もう一度、下から入れる。
今度は小袋の口が、うまく開かなかった。
「ここで止めよう」
担当者の声がした。
ミナは手を下ろした。
笛はまだ、小袋の中だった。
「道は見たね。合図の道具は、どうだった?」
「……出せませんでした」
恥ずかしくなって、小袋を見る。
出発前なら、取り出せた。
でも、肩を前へ寄せると、袋の紐がその上へかかった。
トーマが、自分の記録を示した。
「紐に手が当たってた。ここ」
書いてあるのは、失敗、という言葉ではなかった。
どこで手が止まったかだった。
ミナは袋を背負い直す。
小袋の位置を少しずらし、腕を動かしてみた。
今度は、口へ指が届く。
「紐を長くしすぎると、引っかかります。出せる位置で、ぶらつかないように」
担当者に確かめてもらい、もう一度、道へ入った。
札が上がる。
道を見る。
笛へ手をかける。
合図の音が、裏庭へ響いた。
「そちらへ退きます」
ミナは救援側の道を指した。
荷箱の角を見て、足を置く。
習った幅のまま踏み出しかけ、袋の分だけ、少し離した。
箱へぶつからず、綱の内側を抜けた。
終わってから、肩に力が入っていたことに気づいた。
「できたな」
トーマが、板へ書き加える。
「二回目、手が止まらなかった」
ミナは笛を握ったまま、うなずいた。
できた。
怖くない裏庭で、それでも一度は止まった。
そのことも、帳面へ書いておこうと思った。
*
交代すると、トーマは袋を持ち上げた。
「これくらいなら、まだ走れるんだけど」
「走って止まるところまで、確かめましょう」
担当者に言われ、道へ入る。
合図は出せた。
箱の横を抜けるとき、袋が大きく揺れた。
止まるために置いた足が、綱へ近づく。
トーマは、そこで踏み直した。
「あぶな」
ミナは板へ、止まるときに袋が揺れた、と書いた。
「俺、倒せればいいと思ってた」
戻ってきたトーマが、袋を下ろす。
「会ったら、追い払えれば困らないって。でも、荷物ごと動くの、別なんだな」
「私も、袋を背負っていると、足を置くところが少し変わりました」
「家じゃ、重い物はよく運んでたんだけどな。畑の道と、ここじゃ違うか」
もう一度やる、とトーマは担当者へ手を上げた。
今度は速さを抑え、曲がる前に袋の動きを確かめる。
ミナは板を持ち直した。
できなかったところを見るのは、責めるためではなかった。
次に直すところを、見つけるためだった。
*
その夜は、卵を焼いた。
玉ねぎを刻み、干し肉も小さく切る。
鍋で炒めると、玉ねぎの端が透き通り、干し肉の脂がなじんだ。
「干し肉は、小さく切ります。大きいままだと、卵が柔らかくても、こちらを噛むのに時間がかかるので」
具を少し取り、味を確かめる。
「こちらに塩気があるので、塩はまだ足しません。卵と混ぜると、少し薄くなります」
溶いた卵を流し、厚くなりすぎないように鍋を傾けた。
木の匙で縁を確かめる。
「こちらが離れるようになったら、半分に折ります。まだ柔らかいところは、少し待ちます」
話しながら、手は次の場所へ動いていた。
朝、講習の道に立ったときとは違い、何を見るかを探さなくてよかった。
卵を折ると、端から干し肉が一切れ出た。
匙で戻し、蓋をする。
「……入れすぎたかもしれません」
〈灰ねこ:戻せたなら、大丈夫そうだね〉
ミナは笑い、鍋を火から外した。
今日も、灰ねこさんとこぐまさんが来ていた。
「講習で、合図を出す練習をしました。最初は、笛を出せませんでした」
小袋の位置を直したことを話す。
荷物を持ったまま動くと、足の置き方も変わった。
〈こぐま:次に背負うときも確かめろ〉
「はい。今日は鍋も入れました。いつも持っていくので」
〈灰ねこ:道具を変えたときにも、確かめておくといいね〉
ミナは皿へ卵を移した。
炒めた玉ねぎの甘い香りと、干し肉の香ばしさが上がる。
「逃げられるようになりたいです」
今日、合図を出してから動けたとき、少し嬉しかった。
できなかったことが、一つつながった。
匙を置き、言葉を足す。
「……それと、もう少し、強くもなりたいです」
文字板へ目を向けた。
「今より歩けたり、荷物を持っても動けたり。魔物に会っても、何もできなくならないように」
〈灰ねこ:うん。少しずつ、できることを増やそう。こなべさん〉
その下へ、ゆっくり別の文字が来た。
〈こぐま:休む分も、練習に入れろ〉
「……今日は、もう足の練習はしません」
階段を上るとき、ふくらはぎが重かった。
自分から言うと、こぐまさんから、よし、と届いた。
*
数日後、ギルドの掲示板に、新しい紙が増えていた。
採取実習。
採ったものを傷めず持ち帰る。
ミナは日程を確かめた。
来月の試験の前に、参加できる日だった。
指導担当の欄に、名前がある。
探冠ロゼッタ。
「今回は、試験制度の見直しで来てくださるの。実習も見ていただけることになったわ」
受付の職員が、ミナの横へ立った。
「冠位の方、ですか」
「ええ。あ、ちょうど――」
入口の方へ、職員が顔を向けた。
槍を携えた女性が、戸口で採取袋を下ろしていた。
低くまとめた灰褐色の髪。その上から、二本の角が後ろへ伸びている。
大きな耳が横へ動き、声のした方を向いた。
山羊の面影を持つ顔には、短い毛がある。
脚絆の下、革の保護具からのぞく足先は、二つに分かれた蹄だった。
山羊の亜人なのだと、ミナにもわかった。
亜人をよく思わない国もあるらしいと聞いたことはあるが、ここでは職員がいつもの客を迎えるように手を振っていた。
「ロゼッタさん。お疲れさまです」
「どうも。荷物、先に置かせてもらうね」
女性は袋を持ち上げ、すぐには運ばなかった。
口元の結び目を確かめ、中の包みが倒れないよう、片手を添える。
ミナは、その手を見ていた。
「実習、来る子?」
声をかけられ、顔を上げる。
横長の瞳孔を持つ目が、柔らかく細まった。
「はい。ミナといいます」
「私はロゼッタ。よろしく」
袋を置いた手が、掲示の紙を示した。
「何を採ったかだけじゃなくて、どんなふうに持ち帰ったかも聞くからね。うまくいかなかった分も、覚えておいで」
ミナは、講習で止まった自分の手を思い出した。
「……それも、話していいんですか」
「そっちの方が、次に役立つこともあるよ」
ロゼッタは笑った。
ミナは日程をもう一度見てから、受付へ参加の申し込みをした。
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