第145話 魔物は、どこへ行った
畑の柵は、道の方へ倒れていた。
グレンは折れた杭へ手を置き、その向こうを見た。踏み荒らされた畝の間に、大きな足跡が続いている。
引き抜かれた根菜が、葉をつけたまま転がっていた。
だが、食い荒らされた量は多くない。
「これが、昨日の朝です。その前は粉挽き小屋の裏で」
村の男が指した先では、水車がゆっくり回っていた。
川沿いの道を、二人の冒険者が調べている。
長槍を持つ男と、弓を背負った女だった。どちらもこの周辺で仕事をしており、ギルドから調査への同行を頼まれていた。
「以前から、ここに出る種類なのか」
「林にはいます。ただ、こんなところまで続けて来ることは、あまり」
グレンはしゃがみ、足跡の端へ溜まった水を見た。
昨夜の雨で輪郭が崩れている。数を読み取ろうとしたが、重なった跡を無理に分けるのはやめた。
先に訪れた村では、魔物を見なくなったという話を聞いた。
こちらでは逆に、生活する場所の近くへ現れ始めている。
二つの村の間には、森と低い尾根があった。
「畑へ出るのを、しばらく待ってもらえるか。道を調べる」
男は頷き、柵の内側へ戻った。
同行してきたギルド職員が、聞いた話を帳面へまとめる。
グレンは立ち上がり、川辺の二人へ歩いていった。
*
「泥牙です。岸に新しい跡があります」
槍の男が言った。
川岸から林へ、枝の折れた筋が伸びている。
泥牙は、低い胴に硬い毛を生やした魔物だった。普段は湿った林で土を掘り、根や小動物を食べる。大きな個体は、荷車の下をすり抜けられないほど肩が厚くなる。
「近くで巣が増えた形跡は?」
「見ていません。春先から使っている寝床は、もっと奥です」
弓の女が答えた。
グレンは林の奥へ目を向け、それから職員へ振り返った。
「小屋まで戻って、村の人をこちらへ通さないでくれ。見えない場所へは入らなくていい」
職員が戻るのを確かめ、三人で進んだ。
水車の音が、木々に遮られて小さくなる。
グレンは、二人から普段の狩り方を聞いた。
正面から受けると危険なこと。突進した後、向きを変えるときに横腹を狙うこと。泥へ逃げ込むと追いにくいこと。
説明の途中で、弓の女が足を止めた。
灌木の根元が揺れていた。
「いる」
灰褐色の背が、枝を押し上げた。
鼻先についた泥が落ちる。下顎から伸びた二本の牙が見えた。
グレンは剣へ手をかけながら、背後の道を一度見た。
このまま走らせれば、粉挽き小屋へ出る。
「弓は左の木へ。幹から出ず、合図を待ってくれ」
女が動く。
「槍は俺の右後ろ。追わずに、抜けたときだけ道を塞いでくれ」
男が短く返事をした。
グレンは半歩前へ出た。
泥牙の頭が下がる。
地面を蹴る直前、グレンは右側の土へ魔力を通した。
低い土の隆起が、獣の進路へ斜めに走る。
前脚がそれを避け、頭が左へ寄った。
「今」
矢が飛んだ。
肩へ刺さり、魔物が首を振る。
その間にグレンは斜め前へ踏み込み、牙の外側へ回った。
強化した足が土を掴む。
剣を短く引き、首の横へ深く通した。
魔物は勢いを残したまま、傾いた。
グレンは体を離し、槍の男へ手で止まれと示す。
太い胴が地面を擦り、足が二度動いた。
まだ誰も近づかなかった。
枝の揺れが収まる。
しばらくして、川の音がまた聞こえた。
「周りを見てくれ。同じ茂みに、もう一頭いるかもしれない」
グレンの声で、槍の男が顔を上げた。
二人が左右を確かめる間に、グレンは剣を構えたまま、倒れた魔物の動きが止まったことを見届けた。
*
「助かりました。あれを畑で受けていたら、また柵を壊されていた」
槍の男が息を吐いた。
「普段の動きを教えてもらえたからな」
グレンは剣を拭き、魔物を調べた。
目立って痩せてはいない。肩の傷は今受けた矢によるものだが、脚には古い擦り傷もある。
それだけで、どこから来たかは分からなかった。
「この個体に、見覚えはあるか」
「そこまでは。似た大きさのものなら、尾根の向こうでも見ます」
弓の女が答えた。
グレンは地図を広げる。
先に調べた空の寝床も、同じ種類が使っていたものだった。
しかし、そのことだけで、あの寝床の主だとは言えない。
「増えたのか。それとも、移ってきたのか」
言いながら、二つの場所へ指を置いた。
女が地図を覗き込む。
「向こうにいなくなって、こちらへ来たと?」
「その可能性を調べたい。ただ、餌を追って移ることもある。水場が変わったのかもしれない」
「上流で木が倒れて、流れが変わった場所ならあります」
「それも見よう。いつからか、分かるか」
女は少し考えた。
答えはすぐには出なかったが、伐り出しに入った者なら知っていると言った。
グレンは、その名前を書き留めた。
確かめるべきことが増えた。
それを、遠回りだとは思わなかった。
町へ戻すために死骸を処理する間、グレンは持参した探査装置を開いた。
石の平らな場所へ据え、指示された手順で測り始める。
針は細かく揺れた後、一定の範囲へ落ち着いた。
場所を変えて、もう一度測る。
大きな変化はなかった。
「異常は、ありませんか」
女が聞いた。
「今、ここで測れた範囲では」
グレンは時刻と場所を記した。
空の寝床でも、針は大きく動かなかった。
けれど、そこから何かがいなくなった時刻に測ったわけではない。
*
村へ戻ると、粉挽き小屋の主人が道の端で待っていた。
討伐の報告を聞き、胸を撫で下ろす。
「これで、明日は粉を取りに来てもらえますか」
「通る前に、もう一度見回ってもらおう。今日倒した一頭だけとは限らない」
主人の顔に、少し困った色が浮かんだ。
小屋には、挽き終えた粉の袋が積まれていた。農家も店も待っているのだろう。
グレンは二人の冒険者へ目を向けた。
「朝の巡回と、荷車が通る時間の護衛を頼めるか。費用と人数はギルドで確認しよう」
「いつもの道を回る分なら、できます」
弓の女が答えた。
主人はようやく頷き、誰に連絡するかを職員と相談し始めた。
グレンはその横で、村の者たちに最後の目撃日を聞いた。
昨日、三日前、もっと前。
日付の分からない話は、雨の降った日や荷車が来た日と照らす。
帳面には、確かな日と、おおよその期間を分けて記した。
「討伐の依頼が出た日なら、支部に記録があります」
職員が言った。
「それも必要だ。ただ、いなくなった方は、依頼にならないだろう」
職員は筆を止めた。
「被害がなくなれば、わざわざ知らせには来ませんね」
「近くを回る者に聞いてもらいたい。最後に見た日と、見に行ってもいなかった日。調べていない場所は、空いたままでいい」
グレンは地図を指で押さえた。
街道沿いには村がある。その先は森で、何も書かれていない場所が広かった。
白いままの場所が、平穏とは限らない。
だが、そこ全部を異常だと塗るわけにもいかなかった。
*
夜は村外れの、荷車が泊まる場所を借りた。
低い石積みが風を遮り、井戸までの道には踏み固められた土が続いている。
地元の冒険者二人は朝の巡回に備えて戻り、職員がグレンと残った。
火を起こす前に、グレンはリゼへ送る相談をまとめた。
測った場所と時刻、装置の指示、周辺で聞いた目撃の変化。
推測は、観測したこととは分けた。
最後に、一つ書き足す。
同じ場所で、夜を含めて測り続けられないか。
誰も針を見ていない時間の変化を、残す方法はあるか。
送付の手配を職員と確認し、紙を収めた。
返事を待つ間にも、水場や餌の状態は調べられる。
魔力が原因ではない可能性も、残っていた。
「今日は、何を作るんですか」
職員が薪を置きながら聞いた。
「パンを焼く。卵も手に入った」
グレンは小さな平鍋へ油を引いた。
村で買ったパンを厚めに切り、両面を焼く。取り出した後に卵を割り入れ、白身が広がりすぎないよう、傾きを直した。
職員が横から覗く。
「旅の途中でも、そこまでなさるとは思いませんでした」
「失敗しにくいものを選んでいる」
グレンは答え、パンの裏を見た。
一枚だけ、端が少し黒い。
それを自分の皿へ置いた。
「……たいていは」
職員が笑い、塩の容器を差し出した。
焼いたパンに卵をのせ、薄く削った硬い乳酪を散らす。持ってきた酢漬けも添えた。
職員は一口かじると、皿へ落ちそうになった卵を慌てて押さえた。
「うまいですね」
「温かいうちに食べよう。帳面は、その後でいい」
火の近くへ座り、グレンもパンを割った。
焦げた端は、少し苦かった。
次は早めに裏を見ることにした。
*
片づけが済んでから、水晶を開いた。
ミナの配信には間に合わなかったが、新しい記録が残っていた。
岩場が映る。
魔物の爪が見えたところで、グレンの手が止まった。
ミナの呼吸が近くに聞こえる。
逃げ道を作るために残り、最初の攻撃を外す。
盾が鳴った。
グレンは無意識に背筋を伸ばした。
記録へ声をかけても、あの場には届かない。
口を閉じ、続きを見た。
ミナは追わなかった。
崩れる土へ下がり続けることもせず、足を置く場所を選び直していた。
戻ったイェルカの声に返事をする。
目の前の魔物へ集中しながら、隣にいる者の言葉も聞けていた。
最後の突きが入り、魔物が倒れた。
それでもすぐには槍を下ろさない。
グレンは、ゆっくり息を吐いた。
記録の中で、ミナが左の袖を確かめていた。
怖かった、と話す声も聞いた。
戦闘の記録を閉じる前に、短く言葉を残した。
〈灰ねこ:よく戻ったね、こなべさん。足場を選び直して、隣の声も聞けていた。怖かったことも、次の相談に入れておくといい〉
夕飯の記録も少し見た。
三人分の器が並び、ミナが鍋から肉をよそっている。
グレンはそこで、ようやく肩を緩めた。
遠いルガンで起きた遭遇と、今調べていること。
同じ原因だと考える材料は、まだなかった。
自分が今できるのは、この周辺で起きていることを確かめることだった。
*
火を小さくした頃、支部からの連絡を持った使いが来た。
翌朝の護衛の手配と、近隣で聞き取った報告だった。
職員が受け取り、明かりのそばへ広げる。
「こちらの村でも、最近は姿を見ないそうです。討伐の報告はありません」
グレンは地図を開いた。
新しい村は、昼に調べた場所から別の道を上った先にある。
最後に目撃した日には、数日の幅があった。
「見に行った者はいるか」
「その確認は、まだです」
「なら、まずそこからだな」
グレンは紙の端に、二種類の印を書いた。
一つは、普段と違う場所で魔物が現れた地点。
もう一つは、以前いた魔物を見なくなったと聞いた地点。
確かめていないものには、日付とともに小さく注記を添える。
印の間へ、線は引かなかった。
その間の森を、まだ誰も調べていない。
グレンは使いへ礼を言い、残っていた湯を勧めた。
それから、明日入る道を指で辿った。
今度は、魔物が出たという畑から、姿を消したという森へ向かう道だった。
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