第144話 それも、食べられるんですか
水筒の蓋を閉めるとき、まだ少し指が滑った。
ミナは膝の上で水筒を支え、ゆっくり回した。締まったことを確かめてから、隣のハンノへ渡す。
頭の上では、岩の隙間から伸びた草が風に揺れていた。
さっきまで気にならなかった葉擦れの音に、耳が向く。
「立てそう?」
イェルカに聞かれ、ミナは両足を地面へつけた。
立ち上がると腿が張ったが、膝は折れなかった。
「はい。歩けます」
「じゃあ、荷物をまとめよう。今日はもう採らない」
ハンノも頷いた。
まだ袋には余裕がある。けれど、そのことを言う気にはならなかった。
イェルカが見ている間に、置いてきた袋を回収する。採取物の包みは潰れていなかった。掘り道具を布へ収め、水筒を取りやすい場所へ戻した。
槍を拭く手は、途中で一度止まった。
穂先へ絡んだ短い毛を取り除き、柄にひびがないか順に見る。
「そっちも見せて」
イェルカが盾を受け取った。
縁には新しい傷があった。爪が滑った跡を指先で確かめ、留め具と裏側まで見る。
「町で見てもらおう。今、外れそうではないけど」
「お願いします」
盾を受け取り、ミナはまた左の袖を引いた。
皮膚に傷はなかった。
それでも、一度確かめておきたかった。
イェルカは何も言わず、ミナが袖を戻してから歩き出した。
*
岩爪獣のそばで、ハンノが足を止めた。
「持ち帰るなら、爪には買い手がいる。処理した皮もな」
「丸ごとは無理だね」
イェルカが町へ下る道を見る。
斜面には石が多い。引きずれば、途中で何度も引っかかるだろう。
ミナは魔物の脚へ目を向けた。
さっき動いていたときよりも、肩の厚みがよく分かる。
「これは、食べることもあるんですか」
「あるよ。肉を買う店もある。ただ、ここで全部さばいている時間は取れない」
イェルカは答えながらも、岩の上から目を離さなかった。
「後ろの脚なら、まだ傷んでいませんね」
「うん。私は頬の方が好きだけど」
ミナは顔を上げた。
「それも、食べられるんですか」
「よく動かすところだから硬いよ。手間をかければね」
ミナは頭の形を見た。食堂で扱っていた肉の塊にも、似た筋の入り方をしたものがあった気がする。けれど、同じものとは言い切れない。
「扱いを教えていただける方は、いますか」
「町にいる。まず運べる分だけにしよう」
ハンノが布を広げた。
イェルカは処理する範囲を決め、短剣を抜く。ミナも手伝おうとして包丁へ触れたが、まだ指先が落ち着かなかった。
「包む方をお願い。刃物は今、無理して持たなくていい」
「……はい」
ハンノが周囲を見て、イェルカが短時間で必要な分を取り分けた。ミナは受け取ったものを包み、薬草の袋とは分ける。
途中でイェルカが作業を止め、岩の向こうの音を聞いた。
三人とも動かなかった。
風が抜け、乾いた葉が斜面を転がっていく。
「ここまで。残りは場所を知らせて、回収できる人に任せよう」
取り切れなかったものへ目を落としてから、ミナも頷いた。
持てることと、持って帰れることは違う。
荷物は三人で分けた。ミナの袋には、朝に自分で採った根茎が収まっていた。
*
帰り道では、イェルカが少し前を歩いた。
ハンノがその後に続き、ミナは二人から離れないように足を運ぶ。
歩くたび、肩の紐が同じところへ当たった。
緩い下りで足が速くなりかけると、先頭から声がした。
「急がなくていい。そこの小石、滑るよ」
ミナは歩幅を戻した。
早く町へ入りたかった。けれど、足を傷めれば、もっと遅くなる。
低い屋根が見え始めた頃、畑の脇から水を汲む音が聞こえた。
細い水路に沿って、人が歩いている。肩に担いだ棒の両端で、桶が揺れていた。
その人がハンノへ手を上げ、挨拶しかけて三人の様子に気づく。
「何かあったのか」
「岩場でな。戻れたよ。先に報告してくる」
相手の顔が引き締まった。
町へ入ると、イェルカはミナたちを商会の窓口へ連れていき、遭遇場所を伝えた。
報告を受けた職員が地図を開く。帰り道の岩場を示し、爪の跡、現れた方向、倒した場所を順に説明した。
職員は別の者を呼び、周辺で採取を予定している人への連絡を頼んだ。
「確認が済むまで、この辺りには入らないでください。ほかにもいるかもしれません」
ミナは頷いた。
一匹を倒したことで、あの道全部が安全になるわけではなかった。
配信の記録も残っていると伝えると、必要な箇所を後で確認させてほしいと言われた。
回収の相談と素材の行き先は、イェルカが引き受けてくれた。
ミナは机の上へ、採取物の包みを置いた。
「量は、予定より少ないです。それから、こちらは掘るときに傷をつけました」
分けていた小さな包みを開く。
土を払った根茎には、掘り道具でこすった跡が残っていた。
隣の包みには、曲がったところも折らずに採れたものがある。
「後の分は、自分で掘ったよ」
ハンノが言った。
「途中で引っ張らず、先が見えるまで待てた。残す芽も確かめてる」
職員は二つを見比べた。
「こちらは通常の処理へ回せます。傷のある方は別に確認しますね」
ミナは、無事な根茎をもう一度見た。
岩爪獣が現れる前には、これが採れたことが嬉しかった。
その気持ちを、ようやく思い出した。
「次は、傷をつける前に止めたいです」
「それでいい」
ハンノが、自分の指についた土をこすった。
「今日は、その一本を採れたところまで覚えて帰りなさい」
*
肉を扱う店は、表の通りから一つ奥にあった。
厚い日よけの下で、作業台の端を洗っていた男が顔を上げる。
イェルカの説明を聞き、包みを開け、肉の状態を確かめた。
「頬も持ってきたか。これは今からなら、夕飯にはできる」
「煮るんですか」
「そう。薄い膜は取るが、筋まで全部捨てなくていい。急いで焼くと噛み切れんぞ」
ミナは店の人の手元を見た。
刃が入るところと、残すところを教わる。現地では扱い慣れた肉でも、自分には初めてだった。
調理に使う分の処理を頼み、残りの買い取りについては、三人で分け方を確認した。
「玉ねぎと煮るといい。酸っぱい実は使うか?」
「まだ、どれが合うか分からなくて」
店の人が、近くの露店を教えてくれた。
干した赤茶色の実を水で戻し、種を除いて使うという。味を見せてもらうと、思っていたより酸っぱく、ミナは唇をすぼめた。
「最初から全部は入れない方がよさそうですね」
「分かってるなら大丈夫だ」
店の人が笑った。
その声を聞いて、ミナも少し笑えた。
*
宿へ戻って、まず手と顔を洗った。
袖をまくると、左腕が明るいところへ出た。
水をかけても、痛くはなかった。
盾は修理の店へ預け、槍は汚れを落として部屋へ置いた。料理に使う場所と時間を宿の人に確かめてから、ミナは二人を夕飯に誘った。
「お礼をしたいので。よろしければ、一緒に」
「それ、こっちの台詞なんだけどね」
イェルカが言い、ハンノも同意した。
「では、一緒に食べるということで……」
「うん。それなら喜んで」
台所には西日が差していた。
窓の格子の影が床へ伸び、その向こうを、水の入った桶を抱えた宿の人が横切る。
ミナは場所を空けて待ち、それから玉ねぎを切り始めた。
今度は、包丁を握る指が震えなかった。
鍋で玉ねぎを炒め、処理してもらった肉を入れる。水を注ぐと、底についた色が少しずつ溶けた。
火を弱めてから、配信を始めた。
「町へ戻りました。今日は、三人で夕飯を食べます」
〈木の匙:帰れたんですね。よかった〉
〈夕餉係:記録を見ていました。腕、本当に大丈夫ですか〉
「はい。怪我はありません。盾は、見てもらっています」
少し間を置いた。
「怖かったです。でも、三人で帰ってこられました」
〈石畳:今日はゆっくり食べてください〉
ミナは礼を言い、鍋へ目を戻した。
火の近くで煮立ちすぎないよう、置き場所を少しずらす。
ハンノが椅子を運び、イェルカが洗った器を拭いてくれた。
「この実、どれくらい入れるの」
「半分からにします。お店で味を見たら、かなり酸っぱかったので」
「その顔は見たかったね」
「たぶん、もう一度食べても同じ顔になります」
イェルカが笑った。
ミナは種を除いた実を潰し、煮汁でのばして鍋へ加えた。
教わった時間が近づいてから、小さな一切れを取り出す。まだ噛むと硬いところがあり、もう少し待つことにした。
その間に、宿で買った蒸し穀物を器へ分ける。
待つうちに、窓の影が床から消えた。
二度目に確かめた肉は、匙で押すと筋に沿ってほぐれた。
玉ねぎが煮崩れた汁を味見し、塩を足す。酸味は残っているが、最初に実を食べたときほど鋭くない。
「できました」
肉と煮汁を、穀物の横へよそう。
ハンノは一口食べ、ゆっくり噛んだ。
「うん。こいつは煮るといいんだ」
イェルカも匙を入れた。
「玉ねぎ、多めにした?」
「はい。煮汁も一緒に食べたかったので」
「それ、いいね」
ミナも食べた。
肉にはしっかり味があり、ほぐれたところへ酸味のある汁が絡む。穀物を少し混ぜると、一口がまた違う味になった。
見慣れない部位だったけれど、次は店で見つけられそうだった。
「今日は、ありがとうな」
ハンノが匙を置いた。
「足を動かそうにも、思うように動かなくてな。二人がいてくれて、助かった」
「私も、イェルカさんが戻ってきてくださらなかったら……」
「戻れるように、待っていてくれたでしょう」
イェルカは器を持ち直した。
「採る方を教えるつもりで来たんだけど。助けられて、ご飯までごちそうになっちゃった」
「料理も、今日は教わりました」
「じゃあ、頬を勧めた分は私の手柄にしよう」
ミナは笑った。
ハンノが鍋を覗き、まだあるかと聞いた。
「あります。おかわり、よそいますね」
立ち上がりかけたところで、自分の器も空になっていると気づく。
もう少し食べたかった。
「……私の分も、取っておいていいですか」
「もちろん。先に入れなさい」
ハンノが器を引き、イェルカが鍋を押さえた。
ミナは自分の器にも、肉と汁をよそった。
窓の外では、帰ってきた宿泊客たちが、明日の天気を話している。
その声を聞きながら、ミナは椅子へ座り直した。
まだ温かい夕飯を、今度は少しゆっくり食べた。
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