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第143話 とどめを差す

 岩の縁を掴んだ爪が、白い筋を引いた。


 低い頭の後ろから、厚い肩が現れる。

 岩爪獣はミナたちを見下ろしたまま、鼻を動かした。灰褐色の短い毛に砂が入り、前脚だけが、体に比べて太く見えた。


「走らないで。こっちを向いたまま、少し下がる」


 イェルカが杖を横へ出した。

 ミナは槍を前へ向け、足を半歩引く。

 魔物が上ってきた岩は、下り道のすぐ脇だった。

 あの前を通らなければ、来た道へ戻れない。


 岩爪獣が口を開いた。

 息の擦れるような音が、歯の間から漏れた。


 ミナは盾の握りを確かめた。

 まだ、距離はある。

 けれど、爪を見た瞬間、左腕の内側が冷たくなった。


 サハルの道。

 裂けた袖と、腕を伝った温かいもの。

 動かそうとするたびに走った痛みが、一瞬、今の腕へ重なった。


 指が、強く柄を握り込む。


 治っているのに。

 今、腕は動いているのに。


 そう確かめても、爪から目を離すのが怖かった。


     *


「右へ回る。ハンノさん、籠を下ろして」


 イェルカの声に、ミナは息を吸った。

 右手には、草の生えた低い段差があった。その先は斜めに下り、少し離れた道へ続いている。


 ハンノが籠を外す。

 イェルカは足元を確かめ、彼へ手を貸そうとした。


 そのとき、魔物が岩から下りた。


 重い音と一緒に砂が跳ねた。

 着地して止まるかと思った体が、そのまま横へ動く。

 ハンノが、段差へ向けた足を止めた。


 イェルカはすぐに魔物へ向き直った。

 杖の先が、頭の前へ出る。

 岩爪獣は噛みつかず、低く身を伏せた。


 ミナは二人の足元を見た。

 ハンノが安全に下りるには、支える手が要る。

 イェルカが背を向ければ、魔物が距離を詰める。


 ミナは槍の穂先を、イェルカの杖の隣へ出した。


「イェルカさん、ハンノさんをお願いします」


 声が少し掠れた。

 もう一度、息を吐く。


「ここは、私が見ます」


 イェルカが一瞬だけこちらを見た。

 ミナの足と、構えた槍を確かめる。


「追わないこと。そこの岩より前へ出ないで。下ろしたら、すぐ戻る」


「はい」


 ミナは袋の肩紐を外した。

 足元ではなく、後ろの草の上へ落とす。

 体が軽くなった。


 ハンノが何か言いかけたが、イェルカが短く促した。


「今、下りて」


 ミナは二人を振り返らなかった。

 槍の先の向こうで、岩爪獣の肩が沈んだ。


     *


 目へ魔力を通した。


 毛並みの下で、前脚の付け根が動く。

 右の爪が土を掴み、左へ重さが移った。


 今。


 ミナは槍を突き出した。

 けれど、穂先が届く前に、魔物は横の岩へ前足を掛けた。

 体が跳ねるように向きを変える。


 刃は、毛の先を掠めただけだった。


 次。


 ミナは槍を引き、盾を顔の前へ寄せた。

 爪が、斜めに振り下ろされる。


 左腕が、また切られる。


 浮かんだ考えと一緒に、肩が固まった。

 盾の向こうへ全部隠れようとして、視界が狭くなる。


 違う。

 止めて、受けるのではない。


 ミナは足腰へ魔力を通し、体を斜めに外した。

 爪の一本が盾の縁を擦った。

 腕へ衝撃が走る。

 けれど、体ごと押し倒されることはなかった。


 受け流せた。


 槍の柄を寄せ、魔物との間へ戻す。

 岩爪獣は穂先を嫌うように頭を振った。

 その間に、ミナは次の足を置こうとした。


 踵の下で、小石が動いた。


 後ろへ大きく跳んでいたら、転んでいた。

 ミナは重さを前の足へ残し、靴の先で地面を確かめた。

 草の切れた土の帯が、左へ続いている。


 ゼルは、先に足場を見ていた。

 相手と同じ場所で動こうとはしなかった。


 ミナは左へ小さく移った。

 その先には、腰より高い岩がある。

 魔物が登れない壁ではない。

 でも、右からも左からも、一度に回られる場所ではなかった。


 槍の先を動かし、岩と自分の間を狭くした。


     *


 後ろから、靴が土を擦る音がした。


「そこへ座って。動かないで」


 イェルカの声だった。

 ハンノは下りられたらしい。


 ミナは答えず、岩爪獣を見た。

 肩の水晶が少し傾いている。

 文字板の端に明るいものが増えたが、読む余裕はなかった。


 魔物は、槍の間合いの外を歩いていた。

 鼻先を低くし、ときどき前脚を止める。

 ミナが構えを変えるたび、その目が動く。


 こちらを見ている。

 どこからなら届くか、探している。


 ミナは柄を握り直した。

 最初は、動き出した瞬間だけを追っていた。

 今は、その前に置かれる足も見る。

 踏む石が変われば、向かってくる角度も変わる。


 岩爪獣が、左の岩へ目を向けた。


「そっちへ行く!」


 ミナが声を出すのと、イェルカの杖が岩の縁を打つのが重なった。

 乾いた音が響く。

 魔物が足を止めた。


「戻った。こっちは私が見る。前を見て!」


 イェルカはミナの左斜め後ろにいた。

 杖を前へ出し、反対の手には短剣を持っている。

 岩の向こうへ抜ける方向を、彼女が押さえてくれた。


 ミナは息を吐いた。

 全部を、自分一人で追わなくてよかった。


「下の道まで、一緒に退くよ」


「はい」


 イェルカの指示に合わせ、二人で少しずつ位置を変えた。

 魔物が離れてくれれば、それでよい。

 ミナは槍を突き出しすぎず、穂先と足元の間へ視線を動かした。


 岩爪獣は、離れなかった。


     *


 魔物の前脚が、深く曲がった。


 今度は岩へ上がらない。

 後ろ脚が土を蹴り、頭が低いまま迫ってきた。


 ミナはすぐには突かなかった。

 最初の一撃は、遠いところへ伸ばしすぎた。

 引く前に横へ回られた。


 右腕へ、魔力を通す。

 足腰の強化も、切らない。

 目だけを強くして、体を置き去りにしない。


 魔物の前足が、次の地面へ届く。

 その瞬間、肩の内側が開いた。


 ミナは体をずらしながら、槍を送った。


 穂先が入る。


 手応えに、思わず止まりそうになった。

 でも、魔物の脚はまだ動いていた。

 頭がこちらへ振られる。


「抜いて!」


 イェルカの声。

 ミナは踏み込んだ足を戻し、柄を引いた。

 刃が抜けると同時に、前脚が横へ振られた。


 盾を体へ寄せて、短く下がる。

 爪の先が、さっきまで膝のあったところを通った。


 岩爪獣が、低い声を上げた。

 土へ落ちた血が、暗い点になった。


 まだ、終わっていない。


 ミナは唇を開き、空気を吸った。

 息が足りなかった。

 足は動くのに、胸だけが狭い。


 イェルカが杖で相手の鼻先を牽制した。


「一度、吐いて」


 言われて、ようやく息を止めていたことに気づく。

 長くは吐けなかったが、次に吸う分が入った。


 腰には補助帯があった。

 まだ、魔力は流していない。

 ミナは自分の足が立っている場所を確かめ、槍を構え直した。


     *


 魔物は傷ついた脚を一度浮かせた。

 けれど、すぐに地面へ戻した。

 頭を振り、イェルカの杖から逃れるように、ミナの側へ寄ってくる。


 イェルカが横から踏み込むと、岩爪獣はそちらへ牙を向けた。

 短剣の届く距離まで近づく前に、彼女は退く。


 ミナの背中に、冷たい汗が流れた。

 相手は弱っている。

 でも、こちらを傷つける力は、まだ十分にある。


 あの爪が一度届けば。


 左腕の痛みを、また思い出しかけた。

 ミナは盾を握る指を確かめた。

 今、指は動く。

 イェルカも、隣にいる。


「ミナ。右へは出ないで。土が崩れる」


「分かりました」


 短く返事ができた。

 怖いままでも、聞こえていた。


 岩爪獣が、傷のない前脚へ重さを寄せる。

 その爪が地面を掴んだ。

 頭を振って槍を払おうとしながら、もう一度、体を押し出す。


 ミナは穂先を少し引いた。

 横へ払った頭が空を切る。

 踏み出した前脚が、土へついた。


 肩の動きが、わずかに遅れた。


 そこへ、ミナは槍を突いた。


 足から腰へ、腰から腕へ。

 ただ手を伸ばすのではなく、柄を支えた体ごと、短く力を通す。

 首の付け根へ入った刃が、先ほどより深く進んだ。


 魔物の体がぶつかり、柄が重くなる。


 ミナは歯を食いしばった。

 正面で押し返そうとはせず、足を横へ移す。

 イェルカが反対側へ回り、振られた前脚を避けながら退路を空けた。


 岩爪獣の前脚が折れ曲がった。

 頭が落ち、胴が土へ倒れる。


 ミナは槍を引き抜いて下がった。

 すぐには穂先を下ろさなかった。


 後ろ脚が一度、土を蹴った。

 それから、動きが小さくなった。


     *


 風が吹いた。


 乾いた草が、さっきと同じように揺れた。

 ミナの呼吸だけが、大きく聞こえていた。


 イェルカは周りの岩を見てから、魔物を確かめた。

 すぐに近づかず、少し待つ。

 最後に杖の先を動かし、ようやくミナへ顔を向けた。


「終わった」


 ミナは頷こうとした。

 うまく首が動かなかった。


「ミナ。腕は?」


 左腕を見る。

 盾の縁には傷がついていた。

 でも、袖は裂けていない。

 指を開き、もう一度握る。


「……大丈夫です」


 言った後で、手が震え始めた。

 槍の柄が、掌の中で小さく揺れる。


「そこへ腰を下ろして。槍は置いていい。私が見てる」


 ミナは低い石へ座った。

 膝が緩み、座れたことにほっとした。

 イェルカが下の道へ声をかけると、ハンノの返事があった。

 彼も怪我はしていなかった。


「助かった」


 イェルカが、ミナの前へしゃがんだ。


「あそこで引き受けてくれたから、ハンノさんを下ろせた」


 ミナは彼女を見た。


「最初、外しました」


「うん。その後、立て直した。私が戻るまで追わずに待てた」


 ミナは盾へ目を落とした。


「前に、腕を怪我したことを思い出して。爪を見たら、また同じようになるかと……」


 言葉にすると、胸の奥が少し緩んだ。

 イェルカは急いで返事をせず、ミナが顔を上げるのを待った。


「怖かったね」


「はい」


「次は、そこも含めて相談しよう。今日は、三人で帰れる」


 ミナは、ようやく頷けた。

 最後に槍を入れた感触が、腕に残っていた。

 嬉しい、とすぐに言えるものではなかった。

 けれど、ハンノがこちらへ歩いてくるのを見て、息がひとつ、深く出た。


     *


 周囲の確認が済んでから、ミナは水晶を直した。


「三人とも、無事です」


 声に合わせて、文字板へ次々に言葉が届いた。


〈夕餉係:よかった。本当によかったです〉


〈石畳:返事はいりません。まず休んでください〉


〈木の匙:手、怪我していませんか〉


 ミナは震えの残る手を見た。


「怪我は、していません。少し、びっくりしてしまって」


 言ってから、小さく首を振った。


「……怖かったです。でも、イェルカさんが戻ってきてくださったので」


 隣から、イェルカの声が入った。


「ミナも、ちゃんと止めてくれたよ。今は休憩。その後のことは、これから決める」


 ミナは水筒を受け取り、少し飲んだ。

 水が喉を通る。

 ハンノが礼を言い、地面へ置いた籠のそばに座った。


 下の方には、町へ続く道が見えた。

 今度は、そこを塞ぐものはいない。


 ミナは膝の上で左手を開いた。

 まだ少し震えていたが、自分の意思で、もう一度握ることができた。



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