第141話 新しい山と新しい食材
朝の石段には、まだ家の影が長く落ちていた。
ミナは宿の入口で袋を背負い、肩紐を引いた。
昨日確かめた位置で留める。水筒の栓へ触れ、腰の包丁と盾も、歩くときに当たらないことを確かめた。
「忘れ物は?」
「大丈夫です」
イェルカが頷き、杖を持ち直す。
宿の人へ礼を言うと、向こうも手を上げてくれた。
「また、お風呂に入りにおいで」
「はい。今度も、広場まで行ってみます」
石段を下りる足音が、二人分重なった。
市の開かれる通りでは、まだ台を出しているところだった。紐を買った店の前を通ると、ミナは無意識に髪へ触れた。
今日は青い紐で、後ろの髪をしっかりまとめている。
町の外れで、道は二つに分かれた。
来たときの川へ下りる道と、山の肩を越える道。
イェルカは後者へ足を向けた。
*
畑の石垣が途切れると、土の道になった。
靴の下で小石が鳴る。
低い木の間を、風が右から左へ抜けていった。背中に日が当たっていても、指先には少し冷たさが残る。
ミナは上り坂の手前で、歩幅を小さくした。
脚へは弱く魔力を通す。足が軽くなっても、前へ大きく出しすぎない。
息を吐き、もう一歩進む。
先を歩いていたイェルカが振り返った。
「今日は、言う前に変えたね」
「この前、大きく歩くと途中で苦しくなったので」
「うん。そのくらい。後ろを急ぐ人が来たら、広いところで先に行ってもらえばいい」
ミナは頷いた。
いつも誰かの踵へ、同じようについていく必要はなかった。
しばらく歩いてから、平たい岩のそばで休んだ。
袋を下ろすと、肩の周りへ風が入る。
水筒を出し、口をつける前に残りの重さを確かめた。
「次に水を汲めるのは、お宿ですか?」
「その手前の小屋でも汲める。けど、今日はそこの分を当てにして減らしてこなかった」
イェルカは道の続く方を見た。
「使えない日もあるし、先に荷の人が重なることもある。水を背負うのは重いけど、ここで足りない方が困るから」
ミナは少しずつ飲み、栓を戻した。
イェルカにもらった道の説明には、水場の印の横へ、小さく注意が添えてあった。
印があるだけで、いつでも同じように使えるとは限らない。
*
昼前、道の片側が開けた。
ミナは歩きながら顔を上げかけ、いったん足を止めた。
イェルカが、先の広くなった場所を示す。
そこまで進んでから、二人で谷の向こうを見た。
低い木の続いていた斜面が、その先では薄い茶色へ変わっていた。
草は生えているが、木々のように地面を覆ってはいない。
遠くの畑には、細い緑の帯が曲がりながら伸びている。
「同じ山なのに、こんなに違うんですね」
「向こう側は雨が少ない。こっちで降っていても、あっちは晴れていたりする」
イェルカが空へ杖の先を向けた。
背後の尾根には雲が掛かっていたが、進む方には明るい空が広がっている。
「あの緑のところは、川ですか?」
「水を引いている畑だね。町へ着いたら、近くから見られる」
ミナは、乾いた斜面と緑の畑を見比べた。
川沿いで見た葉の重なりとは、ずいぶん違う。
あちらでは、何を採り、何を食べているのだろう。
昼食は持ってきた保存食と、宿で包んでもらった焼き根菜だった。
イェルカは食べ終えると、包みを畳んで袋へ戻した。
「ここからは下りが増える。楽だと思って飛ばすと、膝へ来るよ」
「はい」
「私も来た」
付け足された言葉に、ミナは笑った。
イェルカは真面目な顔で、下り坂へ杖をついた。
*
その日の宿は、街道沿いの小さな集落にあった。
石の壁は厚く、扉の奥へ入ると、外よりひんやりしている。
中庭には長い庇が出ていて、旅人たちがその下で荷をほどいていた。
ミナも袋を下ろし、まず靴の中へ入った砂を払った。
水場で手を洗おうとすると、宿の人が小さな桶を示した。
「汲む方は上。洗うのは、こちらで頼むよ」
「はい」
ミナは言われた場所へ移った。
隣では、別の旅人が布の泥を先に落としてから水を使っている。
水槽へ直接布を入れる人はいなかった。
夕食は宿で頼んだ。
干した野菜の入った汁と、穀物を固めたものが出てくる。
熱い汁を少しずつかけると、硬かった表面がほぐれていった。
「これは、こうして食べるんですね」
「そのまま噛んでもいいけど、汁があるならね」
イェルカは自分の分を割り、器の端へ沈めた。
ミナも真似をし、柔らかくなったところから食べた。
食事が落ち着いてから、少し気になっていたことを尋ねる。
「ロゼッタさんとは、昔からご一緒されていたんですか?」
イェルカの匙が止まった。
「……昨日、本人の前で聞かなかっただけ偉いね」
「聞いてはいけないお話でしたか?」
「いいよ。ずっと組んでいたわけじゃない。私が道の仕事を始めたころ、同じ一行になったことがあったんだ」
山を越えて荷を運ぶ途中だったという。
若いイェルカは道を覚えたばかりで、近道も、よい休憩場所も知っているつもりだった。
「早く着けば、喜ばれると思った。自分は歩けるから、後ろも歩けるだろうって」
「疲れてしまったんですね」
「私じゃなくて、同行していた人がね。休もうって言われて、そこで初めて、ずいぶん離れていたのに気づいた」
イェルカは匙を置いた。
「ロゼッタさんは、私に休憩を任せたんだ。何をするか、見ていたんだろうね」
「何をされたんですか?」
「ここからなら、あとどれくらいで着けるって説明した」
ミナは少し考えた。
今日の休憩で、最初にしたことを思い出す。
「……お水は?」
「そう。それと荷を下ろす場所。足が痛い人はいないか。到着時刻より、先に聞くことがあった」
イェルカは苦笑して、汁を飲んだ。
「あの人、後で私の荷物も見た。自分の方も、余分なものを詰めすぎていたからね。人のことを見られる余裕なんて、なかったんだと思う」
ミナは椅子の脇の袋へ目を向けた。
出発前、何度も背負ったところを見てもらった。
そこには、イェルカ自身が困った時間も含まれていたのだ。
「教えていただけて、助かっています」
「じゃあ、明日も遠慮せず言って。靴が痛いとか、休みたいとか」
イェルカは空の器を少し押した。
「私は、もう少し食べたい」
ミナが笑うと、彼女は宿の人へ追加を頼んだ。
*
翌朝、上着を着て宿を出た。
日が上がるにつれて、道の色が明るくなる。
ミナは途中で上着を脱ぎ、袋の外側へ留めた。汗はかいていたが、川辺のように服へ湿りが残り続ける感じではなかった。
風が吹くと、乾いた草が一斉に倒れる。
下り道の終わりに、畑が見えてきた。
低い畝の間へ、水路が通っている。
水を分ける板を持った人がいて、別の畝へ流れを変えていた。
町へ近づくほど、荷車が増えた。
袋を積んだ車の脇を、空の桶を持つ人が歩く。
建物の窓は小さく、道に面した庇が深い。日陰から次の日陰へ進むと、首の後ろの熱さが少し和らいだ。
「宿へ荷物を置く。それから商会。先に、市を回り始めないでね」
「分かりました」
ミナが答えると、イェルカは露店の方を見た。
「帰りには通れるから」
先に言われてしまい、ミナは頬を緩めた。
*
商会では、紹介状と依頼の紙を見せた。
担当者は到着を確かめ、翌朝、地元の採取人に会う場所を教えてくれた。
案内を頼むイェルカも、そこで自分の予定を話す。
こちらで受け渡す荷の確認があるが、採取に出る日は合わせられるという。
「最初の区画へは、私も行ける。その後は、天気と仕事を見て相談しよう」
「お願いします」
担当者が、浅い箱を開けた。
土の色を残した、節のある地下茎が数本入っている。
細い根がついたものと、途中で切り分けられたものがあった。
「この太さのものを、全部掘ればいいわけではありません。残すところも、明日教わってください」
ミナは手を伸ばす前に、触ってよいか尋ねた。
見本の表面は乾いていたが、切り口には傷みやすそうな部分が見える。
「葉だけでも、見分けられますか?」
「似たものがあります。図も見ておいてもらえますが、現地で確かめるまでは採らないでください」
借りられる図鑑を教えてもらい、窓口で手続きをした。
背表紙には、擦れて読みにくい文字があった。
何人もの手を通った本を、ミナは布で包んで袋へ入れた。
*
帰りの市場には、乾いたものが多かった。
細く切った野菜が籠に山盛りになり、貯蔵用の根菜は土をつけたまま並んでいる。
布の上には、淡い黄色の硬そうな塊が置かれていた。
「石みたいですね」
「乳から作るものだよ。削って使う」
イェルカが答えると、売り手が端を少し削ってくれた。
小さな欠片を口へ入れる。
塩気の後から、濃い匂いが広がった。
「少しでも、味が強いです」
「薄く削って、温かいものへ載せてもいい。買うなら、この小さい方からだね」
ミナは量を聞き、今日は見るだけでもよいか尋ねた。
売り手は構わないと言い、近くの食事処でも使っていると教えてくれた。
夕食は、その店へ入った。
日陰の通りに面した卓へ座ると、焼いた根菜の皿が運ばれてくる。
大きく割った断面へ、薄い乳製品が重なっていた。
緑の細かなものが混じった油が、その上から少し掛かっている。
ミナは、まず根菜を崩した。
中は柔らかく、外側には香ばしいところがある。
乳の塩気と一緒に食べると、甘みがはっきりした。
「……これだけで、おいしいです」
「焼くのを待たされる日はあるけどね。今日はちょうどよかった」
イェルカは自分の皿を寄せた。
ミナは店の人へ油について尋ね、刻んだ香味葉を加えていると教わった。
知らない葉だった。明日、同じものを道で探そうとはせず、まず市場で名前を聞こうと帳面に残す。
皿の底へ残った油を根菜につけ、最後まで食べた。
派手な飾りはなかったが、空になった皿を見ると、もう十分だと思えた。
*
宿へ戻り、ミナは図鑑を窓辺で開いた。
昼の熱が、まだ壁に残っている。
外では水桶を置く音がして、誰かが次の人へ順番を譲っていた。
目当ての頁には、葉と茎の絵があり、その下に、地面の中の様子も描かれていた。
横へ伸びる太い部分と、そこから出る芽。
箱で見たものだけでは、どちらが次に育つところか分からなかった。
ミナは、明日尋ねたいことを紙へ書いた。
採る場所。残す部分。掘った後の穴。
今までの包丁だけでなく、どんな道具を借りるのかも聞いておきたい。
窓の向こうには、低い屋根と、薄茶色の斜面があった。
あの地面の下にも、図鑑の絵のように伸びているものがあるのだろう。
ミナは本を閉じる前に、もう一度、芽の位置を見た。
明日は、それを土のついたまま見せてもらえる。
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