第138話 温かいうちに食べたいです
町の北側へ出ると、石を打つ音が聞こえてきた。
一度鳴って、少し間が空く。
続く音は、さっきより高かった。
家々の間では聞こえなかった掛け声も、坂を上がるにつれてはっきりしてくる。
エナは蓋つきの器を籠へ収め、腕に掛けていた。
ミナが持とうかと尋ねると、帰りの空いた器を頼むと言われた。
「温かいうちは、私が持つよ。底を傾けると汁が出るから」
歩調を合わせ、石段の終わりで一度待つ。
その先には太い綱が渡され、人と荷車の列ができていた。
「ここからは、呼ばれるまで進まないで」
イェルカがミナの横へ立った。
道の山側に、石が何段にも積まれている。新しい石の面は白く、古いものには土や苔がついていた。
少し先で、綱を引く人たちの背中が一斉に傾く。
大きな石が、丸太の上をゆっくり動いた。
「魔物が壊したところですか?」
「そういう場所もある。重い荷を避けて脇へ寄せたら、路肩が崩れたところもね」
イェルカが、向こうの細い道を指した。
「あっちは今も背負って通す。車を入れるには、まだ狭い」
大きな籠を背負った人が、列の脇を進んでいった。
後ろにもう一人続く。その足元から小石が転がり、溝へ落ちた。
ミナは通り道を空けた。
やがて、綱のそばにいた男が手を上げた。
エナが声をかけると、男は作業場の端にある屋根を示す。
「そこまでなら通れる。上へは行かないでくれ」
イェルカが頷いた。
ミナも、石の積まれた側へ寄らないように歩いた。
*
エナの夫は、すぐには来られなかった。
少し上で、別の作業員と木の支えを確かめている。
妻に気づくと手を上げたが、そのまま持ち場へ向き直った。
「今、離れられないところだね」
エナは慣れた様子で籠を下ろした。
屋根の下には板を渡した長椅子があり、空の器が端へ重ねられている。
奥では、袖をまくった女性が鍋の底へ匙を通していた。
「差し入れ?」
「ええ。ついでに、この子へ道を直しているところを見せたくて。ミナさん。うちで料理を教わっていたんだ」
ミナは挨拶をした。
女性はセナと名乗り、火床の前から半歩退いた。
「この辺の食事を受け持ってる。見ていくなら、そこの薪には気をつけて。足を引っかけやすいから」
台の上には、切った根菜を入れた鉢と、布をかぶせた穀物の器があった。
鍋は大小二つ。大きい方からは肉と野菜の匂いがして、小さい方には湯が沸いている。
そばの桶は、底の方まで水が減っていた。
「手伝えることはありますか?」
「では、その椀を拭いてもらおうかな。洗った方は左、まだなのは下の籠」
ミナは手を洗い、渡された布を取った。
器の縁に欠けがないか確かめながら、乾いたものを重ねていく。
「あんた、慣れてるね」
「食堂で働いていました」
「なるほど。では、こっちもお願い」
すぐに次の器が来た。
台所でもそうだったと思い出し、ミナは少し笑った。
*
鍋の中には、肉の小片と根菜、それに柔らかくなった穀物が入っていた。
セナは匙を動かしてから、湯を少し足した。
底に残る筋が、ゆっくり閉じる。
「汁が、減るんですね」
「粒の方が吸うんだ。火を落とせば冷めるし、置いておけば、どうしてもね」
最初の組は、もう食べたという。
次の組は石を据える途中で離れられず、その後に、道の向こうで働いている人たちが戻ってくる。
「同じ時刻に休むことは、できないんですか?」
「止められる仕事ならいいけどね。荷車を通す時間もある。向こうが終わるまで、こちらだけ抜けられないこともあるんだよ」
エナの夫がいた方で、掛け声が上がった。
ミナが見ると、綱を押さえたまま別の人を待っている。
食事の鐘が鳴ったとしても、あの手はすぐには離せない。
「先の組と後の組で、鍋を分けたこともある。けど、置いておく火も、鍋も要るからね」
セナは、脇の小鍋を示した。
「これは湯を切らしたくない。洗い物にも使うし、食べる方へ足すこともある」
ミナは火床を見た。
平らな石の上に、鍋をもう一つ載せられそうな場所はない。
薪も、使う分が束に分けてあった。
「材料を増やすのも、難しいですか」
「入ってくる日が変わるからね。迂回して運ぶ分、代金も上がった。前みたいに、足りなければ朝に買えばいいとはいかない」
セナは棚の袋を軽く叩いた。
「粒と粉、干したものは置いておける。肉も使うが、毎回大きく切るわけにはいかない。働いた後に腹が減らない量にはしたいしね」
食べるものが、何もないわけではなかった。
使えるものと、届く日と、出す人数があった。
ミナは拭き終えた椀を、取りやすいところへ寄せた。
*
エナの夫が戻ってきたときには、額から首まで汗をかいていた。
「待たせたな」
「石は待ってくれないからね。先に手を洗っておいで」
夫が桶へ向かう間に、エナが器の包みをほどいた。
温かさは残っていたが、家で蓋を取ったときほど湯気は上がらなかった。
それでも、夫は中を見ると嬉しそうに椅子へ座った。
「豆か。今日はごちそうだな」
「ミナさんが、手伝ってくれたんだよ」
ミナが会釈すると、彼は礼を言い、匙を取った。
エナは向かいへ腰掛け、仕事の様子を聞き始める。
そこへ、別の作業員が三人戻ってきた。
セナが人数を確かめ、鍋からよそう。
ミナは空いている椅子の上の布をよけ、椀を運んだ。
「熱いところがあるので、お気をつけください」
「ありがとう。今日は小さい手伝いがいるんだな」
一人が笑って受け取った。
別の一人は腰掛ける前に靴を緩め、長く息を吐いた。
「もう、何でもいい。腹に入れば十分だ」
匙を入れたところで、少し言葉を足す。
「……まあ、温かければ、なおいいけどな」
「下の方が熱いよ。混ぜて食べて」
セナが声をかけた。
男は言われた通りに椀の底から返し、一口食べた。
「ああ。ありがたい」
誰も、不味いとは言わなかった。
椀は次々に空いていく。
ただ、食べ終えた人が立つころにも、上の持ち場からはまだ二人、戻ってきていなかった。
ミナは、鍋の縁へ寄った穀物を見た。
あの人たちが食べるころには、また湯を足すのだろうか。
*
器を返し終えたところで、ミナはセナに尋ねた。
「汁と、粒を別にしておくことはできますか?」
「粒を別に炊くなら、やっぱり鍋が要るね。茹でて置いておくにも、冷えるから」
「そうですね……」
ミナは空いた椀を両手で持った。
別にすればよいと思ったが、置く場所まで増える。
セナは火の様子を見てから、ミナへ向き直った。
「何を考えてた?」
「汁は同じお鍋で温めておいて、食べる分だけ最後に仕上げられたらと思ったんです。次の人の分まで、ずっと煮ておかなくてもいいように」
「それなら、粉のものか」
棚から小さな袋が下ろされた。
セナは口を開き、薄い茶色の粉を見せた。
「家では、練ってちぎったものを汁へ落とすよ。粒より早く食べられるから」
「それを、薄く、短くしたらどうでしょう。お皿へ出す前に、次の組の分だけ入れて」
「早く煮えるだろうね。ただ、作るのに手が掛かる」
ミナは頷いた。
ここで肉や野菜を切っている間に、麺まで全部作るのは難しい。
「先に、用意しておけませんか」
「くっつかずに置けるなら。大きな板は一枚ある。でも、朝はここへ荷を置くこともあるんだ」
セナが示した板は、屋根の柱へ立て掛けられていた。
ミナは広さを見て、それから棚の粉へ視線を戻した。
アルセリアで使っていた粉とは色も細かさも違う。
同じように伸ばせるとは限らなかった。
「少しだけ、試してもいいですか。作ってみて、手が掛かりすぎるようなら、やめます」
セナはすぐには答えず、作業場の方を見た。
最後の二人が、ようやくこちらへ歩いてくる。
「明後日なら、北側の一班がここで食べる。十二人。交代は二組の予定だ。それで試すなら、人数が分かる」
「十二人分ですね」
「ほかの組は、今までの食事にする。一度に全部変えると、うまくいかなかったとき困るから」
「はい」
イェルカが横から口を開いた。
「ミナ、採取の方の予定は?」
「宿へ戻って、連絡が来ていないか確かめます。それから、お返事してもいいでしょうか」
「もちろん。こっちも、班のまとめ役に話しておくよ」
粉は普段買っている店で、少量から買えるという。
ミナは店の場所と、粉の名前を聞いた。
まずは自分の鍋で、どのくらい水を吸うのか確かめようと思った。
*
宿へ戻ったころには、石段の影が長くなっていた。
採取の仕事について、新しい連絡は来ていなかった。
翌朝、集荷所へ予定を確認してから、セナへ返事をすることにした。
イェルカにもそう伝え、台所を借りられる時間を尋ねる。
夕食の支度が終わった後なら、小さい火を使ってよいと言ってもらえた。
ミナは昼に教わった粉を少し買い、使う分だけ鉢へ出した。
水晶を、壁と手元が映る位置へ置く。
配信を始めると、少しして、文字板に挨拶が届いた。
〈夕餉係:こんばんは。今日は粉ものですか〉
「こんばんは。はい。こちらの粉で、短い麺を作ってみようと思っています」
道の復旧をしている人たちの食事を、少し手伝わせてもらったことを話す。
作業場所や、そこで働く人の名前は出さなかった。
「交代で戻っていらっしゃるので、食べる時間が違うんです。食事を用意している方と、何か試せないか相談しました」
〈夕餉係:食べる時間が違うと、作る側も悩みますね〉
「はい。温かく出すことだけ考えて、お仕事を増やしすぎてもいけないので」
粉へ水を少しずつ加える。
指で寄せるとまとまったが、押し広げた端には細かな割れ目ができた。
水を増やす前に、一度手を止める。
店では、すぐに伸ばさず少し置くように言われていた。
「思っていたより、ぽろぽろしています」
〈石畳:いつもの粉とは違うんですね〉
「はい。長くすると切れてしまいそうなので、今日は短くしてみます」
布をかけて待つ間に、鍋と皿を用意した。
昼の料理の話をすると、どんな豆だったのかと聞かれた。
「斑のある、少し大きな豆でした。昔、お世話になった食堂でも、違う豆で似たお料理を作っていたんです」
〈木の匙:遠くへ来て、知っている料理に会えたんですね〉
「はい。違うところも、たくさんありましたけど」
ミナは鉢の布を少し持ち上げた。
こちらの粉も、使い慣れたものに似せようとしすぎない方がいいのかもしれなかった。
*
生地を薄く押し、短い帯に切った。
何本かを皿へ並べ、残りは少し離して置く。
湯へ落とすと、切り口が揺れた。
ミナは一つすくい、冷ましてから噛んだ。
「……真ん中は、まだですね」
もう少し待ち、次を食べる。
今度は固いところがなくなっていた。
柔らかいが、匙ですくっても切れない。
「これくらいなら、食べやすそうです」
嬉しくなって皿へ手を伸ばすと、先に切った麺が二本、くっついていた。
引き離そうとして、片方の端が欠ける。
「……置き方は、もう少し考えます」
〈夕餉係:今、分かってよかったですね〉
「はい。十二人分を作ってからでなくて、よかったです」
ミナは笑って、次の分を少し広く並べた。
この広さで何人分置けるか。打ち粉を増やすと、汁はどう変わるか。
試したいことが、まだあった。
配信を終える前に、明日も少し作ってみると話した。
今日のところは、二人分にも満たない量だった。
それを食べきり、鍋を洗ってから帳面を開く。
十二人。
二組に分かれて、戻ってくる。
その下へ、セナと確かめることを書いた。
作業場で、椀を両手に持っていた人の顔が浮かぶ。
次の組が戻ってくるときにも、湯気の立つ食事を渡せたらいい。
ミナは、くっついた二本のことも忘れずに書き足した。
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