第137話 おじさんが使えなかった豆
朝食の器を返したところで、宿の人に呼び止められた。
「ミナさん。ガルヴァン殿から、伝言を預かっているよ」
折り畳まれた紙には、紹介先の家で、今日なら料理を見せてもらえると書いてあった。
昼前に集荷所の向かいで待ち合わせる。都合が悪ければ、無理はしなくてよいとも添えられていた。
ミナは紙を両手で持ち、もう一度読んだ。
おじさんが、コルナでは手に入らないと言っていた豆。
それを、使っているところから見せてもらえる。
返事を頼み、部屋へ戻って帳面を開いた。
採取物の処理結果を聞く日は、まだ先だった。今日は空いている。
教わるための紙と筆を入れ、手を拭く布も一枚増やす。
服の上には、昨日買った青い紐があった。
少し迷ってから、髪を束ねるのに使った。
台所に立つなら、横の髪もきちんと留めておこう。
*
待ち合わせの場所には、イェルカも来ていた。
「おはよう。昨日は、ゆっくりできた?」
「はい。お風呂と、広場にも行きました」
「あそこの菓子、食べた?」
「食べました。蜜が、指についてしまって」
「つくね。紙ごと持っても、なぜかつく」
二人で笑っていると、通りの向こうからガルヴァンが来た。
今日は書類を抱えた人を連れていない。
挨拶を済ませると、ミナの小さな袋へ目を向けた。
「準備がよさそうだな」
「はい。教わったことを、忘れないように」
「先方も楽しみにしていた。私では料理の話が続かんから、ちょうどいいそうだ」
「食べる話なら…ね?」
イェルカが言うと、ガルヴァンは頷いた。
「それは、何度も聞かせている」
案内されたのは、広い通りから石段を二つ下りた家だった。
窓辺に乾燥させた実が吊られ、戸口の脇に、土のついた靴が揃えてある。
扉が開く前から、奥で何かを炒める音がしていた。
「来たね。入って。そちらが、ミナさん?」
出てきたのは、白いものの混じった髪を後ろでまとめた女性だった。
エナと名乗り、手についた粉を布で払う。
「遠くから来た料理好きの子がいるって聞いてね。私もよその国のこと、聞いてみたかったんだ」
「よろしくお願いします。今日は、お邪魔します」
「どうぞ。ガルヴァン、そっちの椅子を出しておくれ。いつもの場所にあるから」
英雄と聞いていた人が、慣れた様子で壁際の椅子を運んだ。
イェルカも卓の端を空ける。
ミナはエナに案内され、まず手を洗った。
*
台所の棚には、口の広い壺が並んでいた。
かまどの横には小さな窓があり、明るいところへ木の鉢が置かれている。
「これだよ」
エナが鉢を寄せた。
中には、薄い茶色に濃い斑のある豆が入っていた。乾いたものは、ミナの小指の爪ほどの大きさだった。
もう一つの器には、水に浸して膨らんだものがある。
「同じ豆ですか?」
「そう。今日使う分は、昨日から用意しておいた」
ミナは乾いた豆を一粒、掌へ載せた。
コルナの食堂で選り分けたものより、厚みがある。
あの日、おじさんは棚から袋を二つ出していた気がする。けれど、どちらを使ったのかまでは、もう思い出せなかった。
「おじさんは、違う豆で作っていました」
「ガルヴァンから聞いたよ。これがなくても、作ってくれたんだってね」
「はい。ただ、私は水を運んだり、豆を選ったりしただけで。作り方は、ちゃんと見ていなくて」
エナは頷き、使う鍋を火へ掛けた。
「じゃあ、今日はうちの作り方を見ていって。その人の料理と同じかどうかは、私には分からないけどね」
ミナは掌の豆を鉢へ戻した。
「はい。教えてください」
*
豆は先に十分に煮てから、肉と合わせるのだという。
エナは下茹でを始め、別の厚い鍋へ油を入れた。
切ってあった肉を、重ならないように並べる。
底に触れたところから、細かい音が広がった。
「こちらの玉ねぎ、切ってもいいですか」
「助かる。薄すぎない方がいい。ほら、このくらい」
示された幅を確かめ、ミナは包丁を出した。
台を拭いてから玉ねぎを置き、半分に割る。
「上手だね。毎日やっている手だ」
「食堂で、ずっと切っていたので」
「なら、次はこちらもお願いできる?」
褒められた直後に次の玉ねぎが置かれ、ミナは笑って受け取った。
ガルヴァンは卓に座っていたが、そのやり取りを見て目を細めていた。
肉を一度取り出し、玉ねぎを入れる。
鍋底に残った色を、少量の水で浮かせる。香りが変わったところで肉を戻し、豆の方を確かめた。
エナが一粒すくい、匙の背で押した。
表面は破れたが、真ん中にはまだ少し固さが残っている。
「これを、もう少し。今合わせると、肉の方が先にできてしまう」
ミナは頷いた。
待っている間に、使った台と刃を拭く。
鍋をのぞくたび、豆は少しずつ丸く、柔らかそうになっていた。
火が通った豆を肉の鍋へ移すと、エナは煮汁を加えた。
全部が沈むほどではない。
蓋をして火を弱め、縁から小さく湯気が漏れるくらいにする。
「この後は、ときどき底を見て。水がなくなってから気づくと、焦げるから」
「豆を潰さないように、混ぜるんですね」
「そう。うちは形を残す方が好きでね」
エナは、次に小さなすり鉢を出した。
水で戻した暗い赤色の実を入れ、種を除きながら潰す。
香りを確かめるよう勧められ、ミナは少し顔を近づけた。
鼻の奥が、きゅっとした。
「酸っぱい……」
「舐めてみる?」
ほんの少しを匙でもらう。
口に含んだ途端、頬の内側が縮まった。
ミナが目を細めると、イェルカが横で笑った。
「そのままは、そうなる」
「これは、お鍋に入れるんですか?」
「今日は別に出す。後から自分の器へ足すんだ。入れる量で、随分変わるよ」
*
鍋を待つ間に、帳面へ書いてよいか尋ねた。
エナは構わないと言い、ミナの書いた豆の絵を見た。
「斑まで描くのかい」
「別のものと、間違えたくなくて」
「隣の家でも似たものを使うけど、煮えるまでが違うからね。買うときに、いつものと同じか聞いた方がいい」
ミナはそのことも書き足した。
名前を覚えれば、どこでも同じように作れるわけではない。
卓の向こうから、ガルヴァンが口を開いた。
「私の家では、もう少し豆が崩れていた」
「あんたのお母さんは、少し潰していたからね。うちの父は、これへ根菜も入れていたよ」
「では、どれが元の作り方なんですか?」
尋ねてから、ミナは二人の顔を見た。
エナは少し考え、ガルヴァンへ視線を向ける。
「さて。うちでは、こうだった」
「私の家では、さっきの通りだ」
どちらも譲り合う様子ではなかった。
それぞれに、覚えている台所があるのだ。
ミナは帳面の料理名の下へ、小さく「エナさんの家」と書いた。
*
蓋を開けると、肉と玉ねぎの匂いが一緒に立った。
汁は最初より減り、豆の間に艶が見える。
エナが肉へ匙を当てると、繊維に沿ってほぐれた。
ミナも味を見せてもらい、少し冷まして口へ運ぶ。
豆の表面がほどけた。
中は柔らかいのに、口の中ですぐに消えてしまわない。
噛むと肉の汁とは違う、穏やかな甘みが残った。
「……これなんですね」
ガルヴァンがミナを見た。
「おじさんが、手に入らないって言っていたもの」
エドガーも、この食感を知っていたのだろうか。
袋を二つ出したのは、比べていたからだろうか。
もう確かめられないけれど、あの日、豆を掌へ載せて考えていた姿が、少し違って見えた。
器へ盛るのを手伝い、四人で卓を囲んだ。
ミナは最初の数口をそのまま食べ、それから実のたれを少しだけ加えた。
肉の脂の後に残っていた重さが、変わった。
酸味だけが前に出るのではなく、次の豆を食べたくなる。
「おいしいです。さっき、そのまま舐めたときとは全然違います」
「入れすぎないで正解。足せるからね」
イェルカは自分の器へ、ミナより多くたれを入れた。
ガルヴァンは少なめだった。
同じ鍋から盛ったのに、食べているものは少しずつ違う。
ミナは、彼の匙が止まったところで尋ねた。
「コルナで食べたものは、こちらに近かったですか?」
「豆は、もっと小さかった。たれも別には出なかったな。酸味は、少しあったと思う」
彼は器の縁を見つめた。
「ただ、細かなところまでは覚えていない。ここが違うと数えながら食べていたわけではなかったからな」
「そう、ですよね」
「覚えているのは、温かかったことだ。肉が柔らかくて、しばらく食べてから、腹が減っていたと気づいた」
ミナは匙を止めた。
「家のものと違うところがあっても、故郷のお料理だったんですか?」
「私には、そうだった」
ガルヴァンは、迷わず答えた。
それから、エナへ器を少し持ち上げて見せる。
「そして、これは何度もここで食べた味だ。こちらも、うまい」
「はいはい。まだあるよ」
エナが立ち上がった。
ミナも鍋を持とうとしたが、座っているように言われた。
差し出した器へ、豆と肉がもう少し足される。
「あなたも、まだ食べられるだろう?」
「……はい」
おじさんの作り方を取り戻せたわけではなかった。
けれど、知らなかった味を一つ、教えてもらった。
いつか違う場所でこの料理を作るとき、今日の台所と、この人たちの顔を思い出すのだと思った。
*
食後、ミナとイェルカで器を洗った。
エナはその横で、小さな蓋つきの器を二つ出した。
残った料理を全部入れるのではなく、今日食べる分と、別に残す分を確かめている。
「お出かけですか?」
「この後、夫のところへね。道を直す仕事に出ているんだ。食事は向こうでも用意しているけど、今日は近くまで行く用事があるから」
ガルヴァンが、立ち上がりながら頷いた。
「北の作業場か。私は午後、反対側の橋を見る」
「ええ。戻ってきても、昼に何を食べたかより、どこの石を動かしたかばかり話すからね。たまには顔を見てこようと思って」
エナの口調は明るかった。
それでも、包みを結ぶ手は丁寧だった。
ミナは洗った器を拭き終え、彼女を見た。
「受け渡すところまで、ご一緒してもいいですか。お邪魔でなければ」
「私は構わないよ。現場の中へ入るなら、向こうに聞かないとね」
「入口までなら案内できる。作業の邪魔にならないか、先に声をかけよう」
イェルカが、布を掛けていた杖を取った。
ミナは礼を言い、帳面を袋へ収めた。
ガルヴァンとは戸口で別れた。
「今日は、ありがとうございました」
「礼なら、エナに。私は、食べただけだ」
「紹介してくださったので」
そう返すと、彼は一度頷いた。
「また、何を食べたか聞かせてくれ」
ミナは笑って、はいと答えた。
掌には、乾いた豆の厚みがまだ残っている気がした。
*
市場の角で、オルヴェンは足を止めた。
隣を歩いていた孫が、少し先から振り返る。
「おじいちゃん、こっち」
「ああ、すまない」
反対側の店に、見慣れない留め具が並んでいた。
手の力が弱い人でも開けやすそうだと思い、つい見ていたのだ。
孫のところへ戻ると、小さな籠を渡された。
「今日は、お買い物を頼まれたんでしょう」
「そうだった。まず、頼まれたものを買おう」
籠には、すでに青菜が一束入っていた。
次は卵、それから果物。紙に書かれた順を指で追っていると、孫が横から尋ねた。
「おじいちゃんは、何が食べたい?」
オルヴェンは紙から目を上げた。
必要なものは書いてある。それとは別の質問だった。
「……そうだね」
露店の向こうで、焼いた実が小さな袋へ詰められていた。
家で温かい飲み物と一緒に食べるのがよさそうだった。
「あれを、皆で食べるのはどうかな」
「じゃあ、私も選んでいい?」
「もちろん」
二人で袋を一つずつ選んだ。
帰り道、オルヴェンは留め具の店の前をもう一度通ったが、今度は立ち止まらなかった。
「見なくていいの?」
「場所は覚えた。また来られる」
孫が籠の上をのぞいた。
紙袋から、まだ少し温かい匂いがした。
「早く食べたいね」
「ああ。私も、楽しみだ」
答えてから、オルヴェンは少し笑った。
今日は帰ってから、皆と同じ卓につく。
そのために急ぐ足取りは、以前、研究室へ戻っていたときとは違っていた。
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