第136話 今日はお休みです
朝、ミナは窓の外の音で目を覚ました。
車輪が石畳の継ぎ目を越える音だった。
続いて、坂の下から誰かを呼ぶ声がする。荷を受け取る側と運ぶ側で、話がうまく通じていないらしい。同じ名前が三度呼ばれ、最後に笑い声が混じった。
寝台の上で膝を曲げてみる。
脚は痛くない。昨日の坂を歩いた重さも、ほとんど残っていなかった。
もう一度、毛布を肩まで引き上げる。
起きようと思えば、起きられる。
けれど今日は、朝の涼しいうちに採取地へ着かなくてもよかった。
少しだけ目を閉じたつもりが、次に開けたときには窓の光が寝台の端まで伸びていた。
「……あ」
勢いよく起きてから、誰とも待ち合わせていないことを思い出す。
袋の中には、昨夜入れた手拭いがある。
ミナは髪を梳かしながら、小さく笑った。
*
共同浴場は、宿から石段を下りたところにあった。
低い屋根から湯気が抜け、入口の脇を細い水路が通っている。水路の上には板が渡され、向こう側で年配の女性が鉢植えを動かしていた。
扉を開けると、温かな湿気と、濡れた石の匂いがした。
「初めて?」
受付で頷くと、履物を置く場所や、湯に入る前に体を洗うことを教えてくれた。
「奥の湯は熱いから、手前からね。長く入りすぎないように」
「はい」
女湯には、先に二人いた。
片方は縁へ腰掛けて足だけを湯につけ、もう片方は、窓の外を眺めている。
ミナも体を洗い、手前の湯へ足を入れた。
思わず、膝が止まる。
「熱かった?」
「いえ。……温かいです」
変な返事になってしまい、先客が笑った。
ゆっくり腰を下ろす。肩まで沈むと、背中が広い石の縁に触れた。
お湯を運ばなくていい。
次に使う人のために、冷める前に出なければとも思わなくていい。
湯は壁際の口から少しずつ流れ込み、縁を越えた分が溝へ落ちていた。
高い窓から、細長い空が見える。
白い雲が、窓枠の端から端へ、ゆっくり動いていく。
「旅の子かい」
「はい。アルセリアから来ました」
「まあ、遠いところを。ここの坂は疲れるだろう」
「昨日は、少し。でも、今日は大丈夫です」
「なら、上の広場まで行ってみるといい。晴れた日は、山がよく見えるよ」
仕事は何かと聞かれることも、採ってきた葉の話になることもなかった。
広場へ上がる二本の道のうち、どちらの階段が緩いかを教わり、ミナはお礼を言った。
やがて先客が一人出て、もう一人も立ち上がった。
ミナは指先を湯の中で開いた。
肩が下がっていた。力を抜こうとしたわけでもないのに。
もう少しだけ。
そう思ってから受付の言葉を思い出し、縁へ腰掛け直した。
足をつけたまま見る空も、きれいだった。
*
浴場を出ると、首元を通る風が気持ちよかった。
教わった道を上がる途中に、小さな市が開いていた。
張り出した布の下に糸巻きが並び、その隣では修繕用の留め具が売られている。少し先の店には、色のついた細い布が何本も掛けてあった。
ミナは、その前で足を止めた。
淡い青の紐に、白い糸が細く織り込まれている。
端を持ち上げると、光の当たり方で白い線が見えたり、隠れたりした。
「髪に結ぶなら、そっちくらいの幅が使いやすいよ」
店の女性が声をかけた。
ミナは紐を持ったまま、自分の髪へ触れる。
「でも、今の紐も、まだ使えるので」
「じゃあ、替えができるね」
あまりに簡単に返されたので、ミナはもう一度、青い紐を見た。
採取のときに便利なわけではない。
荷物を縛るには細いし、目印なら手持ちの布で足りる。
ただ、きれいだった。
「……こちらを、ください」
代金を渡すと、女性が短い試し紐で結び方を見せてくれた。
近くの磨いた金属板を鏡代わりにして、ミナも髪の一部を束ねる。
片方の輪が大きくなった。
結び直そうとすると、今度は小さすぎる。
「少し横を向いて。そう、それでいい」
言われた通りにすると、耳の下で小さな青い輪が揺れた。
ミナは、鏡の中の自分へそっと頷いた。
広場では、丸い焼き菓子を売っていた。
表面に細かな種が散り、割れ目から飴色の蜜が見える。小さいものを一つ頼むと、薄い紙に載せて手渡された。
石の低い縁へ座り、かじる。
外側が軽く割れ、中は思ったより柔らかかった。
甘い。
口の端を拭こうとして、先に指にも蜜がついていることに気づいた。
持ってきた手拭いを取り出すと、隣で同じ菓子を食べていた子供が、ミナを見て笑った。
その子の口元にも種がついている。
ミナが自分の頬を指すと、子供は反対側を拭いた。
「そっちじゃなくて、こっちだよ」
二人で笑い、子供は迎えに来た大人のところへ走っていった。
広場の向こうに、山が幾重にも重なっていた。
近い斜面には畑の段が見え、遠い尾根は、空に溶けるような薄い青をしている。
白い鳥が一羽、屋根の上を横切った。
あの斜面へ行くなら、どの道だろう。
考えかけて、手に残った菓子を見た。
今日は、ここから眺めていればいい。
最後の一口は、蜜の多いところだった。
*
宿へ戻ると、中庭でゼルが荷紐を確かめていた。
帰りの荷は、昨日運んできた金具とは形が違う。平たい箱が積まれ、運び手の一人が、肩に当たる布を折り直している。
ミナは近づく前に立ち止まり、邪魔にならない場所で待った。
ゼルが顔を上げる。
「戻ったか」
「はい。お風呂に入って、広場まで行ってきました」
「道は分かったか」
「教えていただきました。山が、すごくよく見えました」
ゼルは頷いた。
いつもの武器が壁に立て掛けられている。荷を持ち上げるときには、長い尾を足元の箱に当てないよう、横へずらしていた。
ミナは、自分が持っている小さな袋を見た。
この後、彼の後ろについて歩く準備をしなくてもいいのだ。
「次は、また川の方ですか」
「ああ。向こうで荷を下ろしたら、橋の下流まで案内が入っている」
「お仕事、気をつけて」
「そっちもな。山の道はイェルカに聞け」
「はい」
話したいことが、まだあるような気がした。
川の歩き方も、野営の場所も、分からないことをたくさん教わった。
けれど、一つずつ数え始めると、出発を遅らせてしまいそうだった。
「また、ご飯をご一緒できたら嬉しいです」
「俺もだ」
返事が早かった。
ミナは笑い、少しだけ目の奥が熱くなった。
「次は、こちらで教わったものを作れるかもしれません」
「なら、楽しみにしている」
運び手が声をかけ、ゼルが武器を取った。
門のところまで見送りに出ると、彼は一度だけ振り返った。
「今日は、休めたか」
「はい。……まだ、午後もあります」
「そうだったな」
ゼルの視線が、ミナの髪の辺りで止まった。
「それも、今日か」
青い紐へ触れ、頷く。
彼は短く「ああ」と言い、道へ向き直った。
どう見えたのだろう。
聞く前に歩き出してしまったが、気づいてもらえたことが、少し嬉しかった。
荷を担いだ人たちと、長い尾が坂の向こうへ消えるまで、ミナは門の脇に立っていた。
*
昼食の後、宿の談話室で水晶を借りた。
利用する時間を伝えて代金を払い、窓に近い椅子へ座る。
自分の配信を始めるためではない。
前から、他の人の料理を、ゆっくり見てみたかった。
料理の記録には、銀の蓋が並ぶものや、立派な広間で食卓を紹介するものが多かった。
その中から、厨房の様子が見える記録を選ぶ。
白い服の料理人が、大きな肉の塊を台へ置いた。
表面へ、すり潰した香辛料を塗っていく。
手元の器が空になった。
隣から、もう一つ器が差し出される。
「……まだ、使うんですか」
誰も返事はしない。
記録の中では、さらに別の香辛料が加わっていた。
ミナは膝の上で指を折りかけ、やめた。
今ので、自分の何日分になるだろう。
肉を焼く窯も、宿で借りるものよりずっと大きい。
そのまま見ていると、料理人が焼き上がった肉へ刃を入れた。
切り口から湯気が立つ。
均等な厚さに切り分けられた肉が、温めた皿へ次々に並んでいく。
最後に濃い色の汁を流すと、皿の上が急に、特別な日の食事になった。
「……おいしそう」
作れるかどうかとは別に、もう一度見たくなった。
少し戻して、切り分けるところを見直す。
自分が食べるなら、端のよく焼けたところも欲しい。
次に開いたのは、旅の歌を集めた記録だった。
低い弦の音が流れ出す。
歌い手の後ろを人が歩き、途中で子供の声も入っていた。立派な舞台ではない、どこかの広場で歌ったものらしい。
ミナは椅子の背へ、少し深くもたれた。
聞き取れない言葉があっても、繰り返されるところは覚えられる。
三度目には、小さく口の中で追いかけた。
歌が終わり、次に並んだ記録の一つを開く。
丸まった、小さな毛の塊が映った。
短い耳が二つ。
窓辺の籠の中で、眠っている。
しばらくして、耳が動いた。
ミナは少し前へ身を乗り出した。
また、動かなくなった。
背景で誰かが食器を置く音がした。
それでも起きない。
「眠いんですね」
毛の塊は、片足を伸ばし、鼻先を隠し直した。
そこで記録が終わった。
ミナは水晶を見つめた。
ほとんど、眠っていただけだった。
けれど、最後まで見てしまった。
もう一つ、同じ籠の記録がある。
残りの利用時間を確かめてから、ミナはそれを開いた。
今度は、起きていた。
籠の縁に前足を掛け、外を覗いている。
降りるのだろうかと待っていると、小さな鼻がひくひく動いた。少し迷った末に、体を丸めて元の場所へ戻ってしまう。
「あ、戻っちゃった」
後ろを通った宿の人が、水晶を覗いて笑った。
「その子、いつもそうなのよ」
「ご存じなんですか?」
「ときどき見るからね。今日は動いた方だよ」
ミナはもう一度、籠の中を見た。
何も起こらない日の記録を、楽しみにしている人もいるのだった。
*
夕方、窓を閉めようとすると、市の布が取り払われていくのが見えた。
遠い山の上だけに、まだ日が当たっている。
ミナは髪の紐をほどき、指で輪の形を直した。
青い布に織り込まれた白い線が、朝より淡く見えた。
明日はいつもの紐に戻すか、それとも、こちらを結んでみようか。
机の上の帳面は、閉じたままだった。
今日の日付を書こうとして、書く仕事がないことに気づく。
湯に入った。菓子を食べた。ゼルを見送った。
歌を聞いて、眠っている小さな動物を、二度見た。
それを全部、報告にしなくてもいい。
紐を畳み、明日の服の上に載せる。
窓の外から、階下の夕飯を知らせる声がした。
ミナは鏡の前へ戻った。
夕飯の間だけ、もう一度結んでいこう。
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