第135話 小さな給仕
坂を上りきると、屋根が目の高さに並んでいた。
町は斜面に沿って段々に広がっている。石積みの家の間を細い階段が繋ぎ、通りの向こうには、もう一段高い通りが見えた。
遠くで金属を打つ音がする。
ミナは一度立ち止まり、上着の前を開いた。
歩いている間は、風が冷たくても背中が温かくなっていた。
「宿はこっち。集荷所へは、荷物を置いてから行こう」
イェルカが左の坂を示した。
ゼルも、ミナが背負い直すのを待って歩き出す。
宿の部屋には、窓際に小さな卓があった。
ミナは採取物を置き、覆いを開いた。
枝の先は折れていない。風に当てすぎた分は、札をつけて別にしてある。
寝具と着替えを袋から出すと、背負うものがずいぶん軽くなった。
部屋を出る前に、窓から下の通りを見た。
桶を抱えた人が、湯気の立つ建物へ入っていく。
入口には、濡れた髪を布で包んだ女性が座っていた。
「あそこは、お風呂ですか?」
廊下でイェルカに尋ねると、彼女は頷いた。
「共同浴場。地面から温かい湯が出るんだ。時間があれば、行ってみるといい」
ミナは、下の通りへの階段を覚えておこうと思った。
*
集荷所の前には、空の背負子が並んでいた。
広い軒の下で、係の人が荷の札を確かめている。
ミナは受付へ依頼の紙を出し、採取した枝を作業台へ広げた。
乾燥の担当者が、葉の状態と札を順に見ていく。
「こちらが、先に採ったものですね」
「はい。風に当てた時間が長かったので、分けています」
担当者が葉の端を確かめた。
まだ処理に使えるが、ほかと同じ束にはしないという。
ミナは帳面を開き、採った時刻と包んだ時刻を伝えた。
乾燥させた後、もう一度状態を見ることになった。
結果を確かめるのは数日先でよい。その間に追加で採ってほしいものがあるかは、商会と相談してから知らせてくれる。
「では、明日はこちらへ来なくても大丈夫ですか?」
「ええ。連絡が必要なら宿へ届けます。今から葉を増やすより、この分の処理を先に進めたいので」
ミナは頷き、受け取りの紙をしまった。
台を空けて退いたところで、入口が少し賑やかになった。
係の人が背筋を伸ばす。
数人の男女が入ってきて、そのうちの一人が、まず戸口の荷へ目を向けた。
「通り道を塞ぐなら、外で話そう。仕事は続けてくれ」
低く、よく通る声だった。
灰褐色の毛をした、狼の亜人だった。
耳の先と頬には白い毛が混じり、濃い藍色の上着を着ている。大柄な体を包む服は丈夫そうだったが、飾りは少ない。
腰の剣は鞘に収まっていた。
右の眉の上には、毛の流れが途切れた細い傷があった。
イェルカが、ミナの横で声を落とした。
「ガルヴァン殿だ。今日から来ていたんだね」
ミナは小屋で聞いた名前を思い出した。
あの道を、魔物から守った人。
*
ガルヴァンは集荷所の責任者と、壁に掛けた図を見ていた。
補修を終えた道と、まだ重い荷を通せない道。
同行している女性が書類を開き、運び手の数を確かめる。
「橋へ回す金具は届いたか」
「今朝、こちらに。ゼルさんたちが運んでくれました」
責任者が示すと、ゼルが前へ出た。
ミナとイェルカは、台車の通る場所を避けて壁際へ寄った。
荷の話が終わると、ガルヴァンはイェルカにも道の様子を尋ねた。
「崖沿いは使っていません。昨日の雨が残っています。石の道なら、今日の荷は通せました」
「分かった。明日、上からも確かめる。急ぐ荷でも、無理はさせるな」
イェルカが頷く。
ガルヴァンの目が、その隣のミナへ移った。
「こちらは?」
「商会の依頼で来ている採取人です。ミナ。今日は上の区画で試料を採ってきました」
ミナは一歩前へ出た。
「ミナと申します。アルセリアから来ました」
「遠くから。こちらの仕事は、やりにくいところもあるだろう」
「教えていただきながら、少しずつです。川沿いとこちらでも、運ぶときの扱いが違いました」
ガルヴァンが頷いた。
そのまま次の話へ移るかと思ったが、彼はもう一度ミナの顔を見た。
「ミナ、と言ったか」
「はい」
「アルセリアの、どの辺りから?」
「今はリュネールに部屋を借りています。育ったのは、コルナという町です」
彼の耳が、わずかに動いた。
「……食堂に、いなかったか。エドガーという男の店だ」
ミナは顔を上げた。
帳面を持つ手が、胸の前で止まった。
「ご存じなんですか?」
*
ガルヴァンは、何かを確かめるように頷いた。
「水の入った杯を、両手で運んでくれた子がいた。卓へ置くときだけ、ひどく真剣な顔になる」
ミナは、自分の手を見た。
小さいころは、盆へいくつも載せて運べなかった。
一つずつ持っていき、零さないように卓の端へ置いていた。
「それは……私だと思います」
「大きくなったな」
ガルヴァンの口元が緩んだ。
ミナも笑おうとして、うまくできなかった。
おじさんを知っている人に、こんなに遠くで会うとは思わなかった。
「店には、今も旅の客が来るのか。あの男は元気にしているか?」
ミナは息を吸った。
「……亡くなりました」
ガルヴァンの顔から、笑みが消えた。
「お店も、今は閉めています。この旅へ出る前に戻って、お墓へ行ってきました」
台車の車輪が、少し離れたところで鳴った。
ガルヴァンは視線を下げ、長い間、何も言わなかった。
「そうか」
やがて、それだけを口にした。
腰に下げた手が、一度握られてから開く。
「知らなかった。教えてくれて、ありがとう」
ミナは首を横に振った。
何を言えばよいのか、分からなかった。
同行していた女性が、静かに次の予定を知らせた。
ガルヴァンは頷き、ミナへ向き直った。
「仕事の途中に引き止めたな。もし都合がつくなら、夕方、少し話せないだろうか」
「はい。私も、おじさんのお話を聞きたいです」
集荷所の向かいの茶屋で会うことになった。
ガルヴァンが出ていった後も、ミナは戸口を見ていた。
ゼルが、帳面を落とさないよう持ち直すように言った。
*
夕方の茶屋には、焼いた実の匂いがした。
窓の下の通りを、空の籠を背負った人が下りていく。
ミナはイェルカと席へ着き、温かい飲み物を両手で持った。
ゼルは明日の帰りの荷について打ち合わせがあり、先に宿へ戻っていた。
ガルヴァンは約束の時刻に来た。
椅子を引き、上着の前を少し緩める。
ミナはその濃い色を見て、ふと、昔の食堂の席を思い出した。
「もしかして、窓の近くに座られましたか。大きな荷物を、足元へ置いて」
「ああ。通り道へ出すなと注意された」
ガルヴァンが、少しだけ笑った。
「おじさんが、豆を選り分けるように言った日がありました。いつもと違うお料理を作って……食べる前に、ずっと器を見ていた方が」
ミナの言葉が途切れた。
ガルヴァンは、卓の上の自分の手を見た。
「それは、私だ」
コルナで姉と話した、あの客だった。
口に合わなかったのかと心配になり、台所から様子を見ていた人。
「覚えていてくれたのか」
「この前、お店で昔のお話をしたんです。そのときに、思い出して」
ガルヴァンは、しばらく杯へ触れなかった。
「あのときは、長い仕事の帰りだった。予定より、随分長く国を離れていた」
怪我をした仲間を町へ残し、手続きのために別の町へ向かった。
伝言を預け、返事を待ち、また道を戻る。
戦うことが終わっても、帰るまでの仕事は終わらなかったという。
「疲れていたんだろうな。食べるものがないわけではなかった。だが、何を食べたか、あまり覚えていない」
エドガーに国を尋ねられ、ルガンだと答えた。
それから、どの地方の生まれかも聞かれた。
少し待てと言われ、出てきたものに、知っている香りがあった。
「豆と肉の料理だった。家で、よく食べていたものだ」
「本物とは少し違うって、おじさんが」
「ああ。あの豆が手に入らないからと。それでも、一口食べたら、帰ったときの台所を思い出した」
ガルヴァンが杯を持った。
湯気の向こうで、灰色の目が細くなる。
「顔を上げられなくなった。小さい子が見ているのに、泣いているところを見せるのもな」
ミナは、息を止めた。
「……おいしくなかったのかと思いました」
「逆だったんだ」
ガルヴァンは静かに答えた。
*
エドガーが亡くなったと知った後も、ガルヴァンは、彼がどんな人物だったのかを大きな言葉で語ろうとはしなかった。
椀を空けたら、黙って湯を足してくれたこと。
長居を謝ると、隣の椅子に置いた荷物だけ退けろと言われたこと。
帰るときに礼を言ったら、次は腹が減る前に寄れと返されたこと。
ミナは、一つずつ聞いた。
どれも、おじさんが言いそうなことだった。
「若いころ、この国にも来たことがあると聞きました」
「そう話していたな。ただ、私が会ったのは食堂にいたあの男だ。昔、どこで何をしていたのかまでは聞いていない」
ミナは頷いた。
刻冠だったから、この人を知っていたのかもしれない。
そう考えかけたが、ガルヴァンにとって大切だったのは、あの日の料理なのだ。
「私も、いつかお店を出したいんです」
気がつくと、話していた。
「いろいろな国の料理を作れて、遠くから来た人にも、少し故郷を思い出してもらえるような」
ガルヴァンが顔を上げた。
「そのために、旅を?」
「採取の仕事をしながら、少しずつ教えていただいています。まだ、知らないことばかりですけど」
ミナは杯を卓へ置いた。
「小さいころ、目の前で見ていたんですね。自分でも、こんなお店にしたいって思うものを」
ガルヴァンは、すぐには返事をしなかった。
それから、深く頷いた。
「あの男のところで、水を運んでいた子がな」
声に、少し笑みが戻った。
「こちらの豆を、見てみるか。あの料理に本来使うものを、近くの家で今も作っている」
ミナの背筋が伸びた。
「見せていただけるんですか?」
「先に相手へ聞いておく。料理を教えるのは私より、その家の人の方がいい。食べる方なら、任せてもらえるが」
隣でイェルカが笑った。
ミナも、ようやく肩の力を抜いて笑えた。
*
明日は、ガルヴァンも朝から道の確認へ出るという。
紹介先の都合も確かめ、早くても明後日以降に連絡をもらうことになった。
宿への帰り道で、ミナは予定を頭の中で並べた。
採取物の結果は、まだ出ない。
明日の採取を新しく頼まれてもいない。
急いで書かなければならない報告も、今日は済ませてきた。
「明日は、何をしようかな」
「好きなことをしたら?」
イェルカが答えた。
「私は午前中、集荷所。昼からは家に顔を出す。ミナの案内が必要になったら、宿から呼んでもらえるようにしておく」
「では、明日はお仕事を入れなくても……」
「入れなくていい。今日の帰りも足は動いてたし、体がつらくて休む日じゃない。元気な日に休んでもいいんだよ」
ミナは、石段の下を見た。
共同浴場の入口に灯りがついている。
湯上がりらしい人が、首へ布を掛けて外へ出てきた。
「お風呂へ、行ってみたいです」
「いいね。朝のうちなら、空いてると思う」
宿ではゼルに、ガルヴァンとの話を簡単に伝えた。
明日、彼が午後に町を出る前には戻って、見送りたいとも話す。
ゼルは頷き、午前中ならゆっくりしてこいと言った。
部屋へ戻り、ミナは袋を下ろした。
いつもなら次の日に使う布や道具を取り出すところだった。
今夜は帳面に約束を書き留めて、それを閉じた。
明日、持っていくものは何だろう。
着替えと、手拭いと、少しのお金。
槍を壁へ立てかけたまま、ミナは小さな袋を取り出した。
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