第134話 昼ご飯の約束
朝の水は、指を入れると痛いほど冷たかった。
イェルカが桶の中で芋を転がしている。
白灰色の毛に小さな雫がつき、手を上げるたびに朝の光を弾いた。
「洗えた。次は?」
「そのまま、こちらの鍋へお願いします」
ミナは塩漬けの肉を薄く切っていた。
宿の朝食の支度は終わり、脇の火床を借りている。奥では大鍋が下ろされ、窓際に洗った器が並べられていた。
芋を水から茹でる間に、肉を少量の水で煮る。
味を確かめ、塩気の強い煮汁を少し取り分けた。
肉を細かくほぐしていると、イェルカが手元をのぞいた。
「全部、混ぜるんだね」
「はい。お肉が少しでも、一口ずつ一緒に食べられるように」
芋へ細い串を入れる。
中心まで通ったところで湯を捨て、鍋を火へ戻して余分な水気を飛ばした。
皮ごと粗く崩し、肉と、刻んだ玉ねぎを炒めたものを加える。
イェルカは、ミナに渡された匙で混ぜた。
「このくらい?」
「はい。少し塊が残っているくらいで」
煮汁をほんの少し加え、味を確かめる。
それを小さくまとめて、油を引いた平たい鍋へ並べた。
焼けた面が崩れず返せるようになるまで待つ。
表面には細かなひびが入り、縁が薄い茶色へ変わっていった。
「朝飯、もう食べたんだけどな」
イェルカが言った。
ミナは小さく崩れた端を匙へ載せ、少し冷ましてから渡した。
「味見をお願いします」
彼女は口へ入れ、一度目を細めた。
「これ好き。昼の分、減らしたくないから、味見はここまで」
きっぱり言われて、ミナは笑った。
焼けたものは清潔な皿へ離して並べ、湯気が落ち着いてから包んだ。
温かいうちに重ねると、表面が湿ってしまう。
朝の間に作り、昼に食べ切る分だけだった。
ゼルが戸口から顔を出した。
「荷の準備ができた」
「こちらも、もう終わります」
ミナは三人分の包みを分けた。
食材代を出し合った分の残りも確認し、使った台を拭く。
イェルカは自分の包みを受け取ると、潰れない場所を選んで袋へ収めた。
*
午前の道は、昨日より木陰が少なかった。
低い草の間から白っぽい石が出ている。
尾根の向こうに雲が流れ、日が差すと背中は温かいのに、風が吹くと耳が冷えた。
集荷所へ向かう運び手たちは、道の分かれ目で先へ進んだ。
ゼルも、荷の護衛としてそちらへつく。
ミナとイェルカは、斜面に沿う細道へ入る予定だった。
「昼は、上の休憩小屋だ。荷を渡したら戻る」
ゼルが言った。
「道が変わったら、小屋の人に伝言を頼むよ。合流できなければ、それぞれ食べる。それでいいね」
「ああ」
ミナも頷いた。
食事を一緒にするために、仕事の時間を無理に合わせるわけではなかった。
分かれ道で見送り、イェルカの後について歩き出す。
「今日は、私が見てる。採る方に集中していい。でも、呼んだら手を止めて」
「はい」
「近くに崖があるから、落としたものは先に教えて。拾いに下りるかは、そこで決める」
イェルカは道の端を杖で示した。
草の向こうが、急に低くなっている。
ミナは袋の紐を確かめ、帳面を閉じてしまった。
*
目的の植物は、石の多い斜面に生えていた。
背はミナの膝ほどしかない。
灰緑色の葉が茎へ細かくつき、裏には短い毛があった。指で触れる前から、風の切れ目にかすかな匂いがした。
イェルカが、道の脇に立つ低い杭を指した。
「ここから上の、石垣まで。頼まれているのはこの区画」
ミナは依頼の図と見比べた。
見本の乾燥葉だけで決めず、葉のつき方と茎の形、残っている花の跡も確かめる。
宿で紹介してもらった採取人が先に来ており、二つの株を並べて見せてくれた。
「こっちは、まだ採らない。先の芽が伸びてから」
ミナは頷き、触れた株から手を離した。
採ってよいものへ移り、切る位置を聞く。
株を全部持ち帰るのではなく、伸びた枝の一部を分けてもらうのだという。
作業の様子を配信してよいか尋ねると、採取人は少し考えた。
「手元だけなら。家の畑と、あちらの作業小屋は映さないでくれるかい」
「はい。先に向きを見ていただきます」
水晶を合わせ、映る範囲を確かめてもらった。
イェルカにも断ってから配信を始める。
名前を紹介すると、彼女は短く手を上げた。
「イェルカ。高い方の道を案内してる。ミナが夢中になって崖へ寄ったら、私が呼び戻す係」
「気をつけます」
「うん。頼むよ」
笑って返されたが、杖は道の端へ置かれていた。
ミナはその内側でしゃがみ、最初の枝へ包丁を入れた。
*
切り取った枝を、布の上へ置く。
ミナは木枠を広げ、採った順に並べていた。
川沿いでは、重ねて熱を持たせないことを考えた。
今日も少し広げたまま次の株へ移ろうとすると、採取人が呼び止めた。
「運ぶ分なら、そこの風は避けた方がいい」
戻ってみると、最初に採った葉の縁が少し反っていた。
ほんの短い時間だった。
ミナが指を添えると、葉はまだ柔らかかったが、先の細い部分は感触が違った。
「乾かしながら持ち帰るのでは、いけませんか?」
「乾燥させる場所へ、枝ごと渡すんだ。ここでばらばらに乾くと、詰める間に先から欠ける」
採取人は自分の籠を見せた。
小さく分けた枝を、深く押し込まずに収めている。上には軽い布が掛けられていた。
「濡らすのも違うよ。蒸れさせず、風をまともに当てすぎず。乾かすのは、持っていった先で」
ミナは枠を岩の陰へ移した。
同じ葉でも、ここでは枝についている細い先まで必要になる。
川で覚えたことを、そのまま当てはめかけていた。
先に採った分へ別の札をつける。
風に当てた時間を記録し、欠けたものは小さな紙へ分けた。
〈石畳:上は、そんなに風が強いんですね〉
「はい。吹いているときと止んだときで、葉の揺れ方も違います。持ち帰る前に乾かしすぎないようにします」
枠には覆いを掛け、袋へ戻す前に葉が引っかからないか確かめた。
留め具の輪は手袋のまま引けた。
トビアスに直してもらったところは、今日も助かった。
少し離れた場所で、イェルカが空を見ていた。
ミナが振り向くと、彼女は指で尾根を示す。
「あの雲がこっちへ乗る前に、小屋へ入ろう。あとどれくらい?」
「見本の分は揃いました。残りは包むだけです」
「よし。急いで手を切らないように。時間はある」
ミナは刃を収めてから、最後の紐を結んだ。
*
休憩小屋は、斜面を背にした石造りだった。
低い屋根の下へ入ると、風の音が遠のいた。
壁沿いに長椅子があり、火床の近くでは湯が温められている。
水場と便所を管理している男性が、空いた場所を示してくれた。
ミナは採取物を先に確かめた。
崩れてはいない。熱がこもっている様子もなかった。
覆いを少し開き、荷を人の通らないところへ置く。
手を洗って戻ると、ゼルが入口をくぐった。
背負っていた荷は、もうなかった。
「渡せたんですね」
「ああ。数も確認した」
ゼルは腰を下ろす前に、イェルカと午後の予定を確かめた。
ミナは昼食の包みを卓へ並べ、配信を続けてよいか二人へ尋ねる。
小屋の人にも確かめ、背景が壁だけになる場所へ水晶を置いた。
「今日は、芋と塩漬けのお肉を合わせて焼きました。イェルカさんにも手伝っていただいています」
「芋を洗って、混ぜた。焼いたのはミナ」
イェルカが自分の分を手に取った。
表面には朝の焼き色が残り、割ると粗く崩した芋の間に肉が見えた。
「冷めても、ちゃんとうまい」
最初の一口を飲み込んでから、彼女は言った。
「肉のところを探さなくていいね。どこを食べても味がする」
「細かくして、混ぜたので」
「それか。いつもは芋と肉を別に持つから、最後に芋だけ残ったりするんだよ」
ミナも一つ割った。
温かいときより少し締まっていたが、硬い塊にはなっていない。
よく炒めた玉ねぎの甘さが、肉の塩気の間に残っていた。
ゼルは黙って食べていた。
その手元を見て、イェルカが笑う。
「昨日の、分かったよ」
「何がだ」
「あんたが昼飯を楽しみにしてた理由」
ミナは顔を上げた。
ゼルは一度だけ彼女を見て、普通に頷いた。
「うまいからな」
ミナは包みの端を折り直した。
面と向かって言われると、急に手元へ目を落としたくなった。
〈夕餉係:一緒に作って、一緒に食べられるのもいいですね〉
「はい。三人だと、支度も早く終わります」
答えると、イェルカが最後の一つを持ち上げた。
「明日の分じゃないね?」
「今日のお昼の分です」
「よし。では、遠慮なく」
歯を立てる前から嬉しそうで、ミナは笑った。
*
食事が終わり、配信を切ってからも、外の雲は尾根に掛かっていた。
ゼルが窓から空を見て、腰の紐を結び直した。
「明日は、昼までこちらにいる」
「朝、集荷所で引き継ぎじゃなかった?」
イェルカが尋ねた。
「朝に荷の書類を返す。帰りの運び手が揃うのは午後だ。それまでは、戻れん」
「なるほど。じゃあ午前の採取は三人か。昼も」
最後の言葉だけ、少し強かった。
ゼルは、返事をする前にミナの方を見た。
「材料があれば」
「町へ行くんだし、買えるでしょ。私も出すよ」
ミナは帳面を開いた。
「でしたら、夕方のお店を見てから決めますね。明日の帰り道で食べる分も、必要ですか?」
二人が一瞬、黙った。
それからイェルカが笑った。
「先に自分の仕事の支度。余裕があったら相談しよう」
「はい」
予定が変わるなら、買う量も変わる。
ミナは三人分、と書きかけたところに小さく印をつけた。
*
小屋の男性が、空いた湯の器を下げに来た。
「上の町へ行くなら、明日の昼前は集荷所が混むかもしれないよ」
「荷が重なる?」
イェルカが聞いた。
「道の復旧を見に来る人たちがいるんだ。ガルヴァン殿も来るって話でね」
ゼルが、顔を上げた。
イェルカも短く口笛を吹いた。
「それは、ずいぶん心強い」
ミナは二人を見た。
「有名な方なんですか?」
「先日の異変で、山側の魔物を押し返した人の一人。あの人が率いた隊が来て、こちらへ抜ける道を守った」
イェルカの声から、さっきまでの冗談が消えていた。
小屋の男性も頷く。
「ここを使っていた運び手も、世話になったよ。帰れなくなっていた連中を連れて戻ってきた。仕事を再開できたのも、その後だ」
ミナは窓の外へ目を向けた。
今日歩いた道にも、通れなかった日があった。
草の伸びた古い踏み跡や、積み直された石垣は見ていたが、その場所で誰が戦ったのかまでは知らなかった。
「まだ、道を見て回られているんですね」
「戦いが終われば、今度は荷を通さないとね」
男性が器を重ねた。
「ああいう人が来ると、言いそびれていたことも言える。向こうの橋脚が緩んでいるとか、材料が足りないとか」
ゼルが立ち上がった。
窓の外で雲が薄れ、向こうの斜面へ光が差していた。
「行ける。町までの道を先に確かめよう」
ミナは荷を背負い直した。
芋を食べ終えた包みは軽くなり、その分、採った葉が袋へ収まっている。
小屋を出ると、風の中に乾いた草の匂いがした。
イェルカが先に歩き、ゼルが後ろへ回る。
道の向こうには、まだ見えない町がある。
ミナは木枠の入った場所を手で押さえ、二人と一緒に坂を上った。
*
帰宅したロゼッタは、旅靴の紐をほどいてから水晶を机へ置いた。
今日届いたミナの配信の記録を開く。
灰緑色の葉が映り、その向こうから、歯切れのよい声が聞こえた。
「イェルカ。高い方の道を案内してる」
ロゼッタは手を止めた。
画面へ入ってきた丸い耳と、白灰色の顔を見る。
「……へえ」
名前だけではなかった。
相手の返事を待つとき、少し顎を上げる癖にも覚えがあった。
まだ仕事に慣れず、張り切って荷を背負いすぎていたころの姿が浮かぶ。
記録の中で、イェルカが空を見た。
採取をしているミナへ、残りの作業を尋ねる。
「よし。急いで手を切らないように。時間はある」
ロゼッタは椅子へ腰を下ろした。
「あの子が、もう教える立場か。時間が流れるのは早いね」
急がせるだけではなく、相手が落ち着いて片づける時間を残している。
昔、自分の歩幅で先へ進みかけていた若い案内役は、今では後ろを見て歩く人になっていた。
その後の昼食まで見ると、ロゼッタは小さく笑った。
芋を頬張る顔には、見覚えのある遠慮のなさが残っていた。
「そこは、変わっていないんだ」
水晶の向こうでミナも笑っている。
以前、道の途中で会ったときには、一緒に採取へ行ければと思った。
今、その隣には自分の知る案内役がいる。
ロゼッタは記録を閉じる前に、もう一度、三人の顔を見た。
次にミナと話すときには、聞きたい旅の話がまた一つ増えていた。
※近況ノートに挿し絵・キャラクター紹介イラストを掲載中です




