第132話 父がお世話になっています
「……親父?」
トビアスの声に、ミナは顔を向けた。
彼は身を乗り出したまま、文字板を見ている。
ミナの手の中には、小さな木彫りの犬があった。
〈こぐま:ああ。元気にしているようだな〉
ミナは文字とトビアスを見比べた。
それから、掌の犬へ目を落とす。
「こぐまさんが、お父さんなんですか?」
「うん。……いや、なんでここに」
戸惑った声を聞きながら、ミナは丸い背中を見つめた。
短い脚。少し前へ出た鼻。
ふと、以前届いたコメントを思い出した。
「そういえば、前にお話しされていました」
ミナは水晶へ顔を向けた。
「お休みの日に、木を削って小さな動物を作るって。まだ、お名前も存じ上げなかったころです」
トビアスが、ミナを見た。
文字が届くまで、少し間があった。
〈こぐま:そんな話もしたな。覚えていてくれたのか〉
「はい。どんな動物を作られるんだろうと思っていました。今日、初めて見せていただけました」
犬を水晶の方へ向ける。
さっき猫だと思ったことは、言わない方がよいだろうか。
迷っていると、トビアスが口を挟んだ。
「ミナ、最初は猫だと思ったって」
「あ……すみません」
〈こぐま:犬のつもりで彫った〉
ミナは思わず笑い、それから慌てて口元を押さえた。
トビアスも笑っている。
木彫りを卓へ戻すと、その前脚の片方が少し浮いていた。立つ向きを変え、安定する場所へ置いた。
「最近も、講習であちこち回られていたんですか?」
〈こぐま:ああ。今は家に戻っている〉
「でしたら、ゆっくり休んでくださいね。移動も多かったでしょうし」
トビアスは笑うのをやめた。
聞き間違いではなかった。
ミナは父親へ、普通に話しかけている。
敬語ではある。けれど、相手の機嫌をうかがったり、発言する前に言葉を選び直したりする様子はない。
知り合いの帰宅を喜んでいるような話し方だった。
隣のゼルも、器を片づける手を止めていた。
*
〈こぐま:道具の相談に乗っていると言っていたな〉
「はい。採ったものを運ぶための仕切りと、布を広げる枠をお願いしています」
「俺がやるのは木の部分だよ。親方にも見てもらってる」
トビアスが付け加えた。
ミナは頷き、袋の口を測ってもらった話をした。
「私、中に入る大きさだけ考えていたんです。取り出すところまで見ていただいて、助かりました」
トビアスは、少し肩をすくめた。
注文の話をするより、父親に聞かれていると分かって話す方が落ち着かなかった。
〈こぐま:そうか。使いやすいものになるといいな〉
「出来上がったら、実際に持って歩いてみます」
その後、ほかの視聴者から煮込みについて尋ねられた。
ミナは使った粉の量を答え、野菜の種類によって煮る順番を変えたことを話す。
父親とのやり取りが特別な出来事だったようには見えなかった。
トビアスは、卓の下で膝へ手を置いた。
食堂にいたと言っていた。
けれど、食堂を営んでいる大きな商家の娘なのだろうか。
それとも、どこかの貴族の家で料理を教わっていたのか。
そう思って見ても、袖口には繕った跡がある。
今夜の材料代も、買ったものを一つずつ確かめて分けていた。
分からなくなっている間に、ミナが配信を終える挨拶をした。
水晶の光が静まり、食堂の奥から聞こえる片づけの音が戻ってきた。
*
「トビアスさん、バルドさんの息子さんだったんですね」
ミナが言うと、彼は深く息を吐いた。
「うん。……知ってたんだ。父親が誰か」
「こぐまさんのお名前は、教えていただいていました。でも、ご家族にお会いするのは初めてです」
ミナは嬉しそうに木彫りを見た。
トビアスは、思い切って尋ねた。
「ミナって、どこかの貴族の家の子だったりする?」
「え?」
「いや、違ったらごめん。でも、親父とあんなに普通に話すから」
「違います。コルナという町の食堂で育ちました」
「……食堂?」
昨日と同じ答えだった。
ミナが嘘をついているようにも見えない。
それまで黙っていたゼルが、低い声を出した。
「バルドというのは、アルセリアの盾冠か」
「はい」
トビアスが答える。
ゼルは短く頷いたが、今度はミナへ目を向けた。
「随分、親しいようだったな」
「配信を始めて、早いころから見てくださっているんです。最初は、私も冠位の方だとは知りませんでした」
ミナは、防犯のために配信を始めたことを話した。
見に来る人はほとんどいなかった。それでも少しずつコメントが届き、採取や道具の使い方について助言をもらうようになった。
「防御の講習も見て、練習しました。盾がないときにどう動くかとか、退く道をどこに作るかとか」
「ああ。親父、そういう講習を始めたって書いてたな」
「実際にお会いしたのは、もっと後です。エルディアにいたときに」
トビアスは、ようやく少しだけ頷けた。
ただ、知らない相手として話し始めた後で冠位だと知り、それでも同じようにやり取りを続けられるものなのだろうか。
「驚かなかった?」
「驚きました。とても」
ミナは即座に答えた。
「でも、お話しすると、やっぱりいつも助言してくださる方でしたから」
ゼルが椅子へ背を預けた。
昨日の湿地で、ミナが慌てて荷物へ戻らなかったことを思い出す。
あの動きへ繋がる練習の中に、そんな相手の教えもあったのか。
「妙な巡り合わせだな」
「俺も、そう思います」
トビアスは木彫りを手元へ引き寄せた。
ミナを迎えに来た有力者がいるわけでもない。彼女は明日も、自分で注文した道具を待ちながら、採取の仕事をするのだ。
*
「しかし、料理の配信を見てるとは思わなかったな」
トビアスが言った。
「親父、ちゃんとコメントまでしてるし」
「いつも見られるわけではないと思います。でも、来てくださると心強いです」
ミナは木彫りへ目を向けた。
「あのときのお話が、こんなふうに繋がるんですね」
トビアスは丸い背中を親指で撫でた。
父親が休みに動物を彫ることを、この少女は覚えていた。
自分にとっては昔から知っている父の趣味が、遠い場所の誰かにも、小さな話として残っていたらしい。
「……父がお世話になっています」
何となく姿勢を正して言うと、ミナまで背筋を伸ばした。
「いえ、私の方こそ。本当に、何度も助けていただいて」
二人が頭を下げたところで、ゼルが言った。
「どちらも世話になっているなら、それでいいだろう」
顔を上げたミナと、目が合った。
トビアスは笑い、ミナもつられて笑った。
帰る前に、木彫りを布へ包む。
トビアスは道具の出来上がる予定を、もう一度伝えた。
「使って困ったら、ちゃんと言って。親父のことは関係なしで」
「はい。お願いします」
今度の返事は、注文をしたときと同じだった。
*
道具が出来上がったのは、その二日後だった。
ミナは加工場から途中の結果を聞き、依頼先への報告をまとめながら待った。
トビアスから受け取った枠は、思っていたより薄かった。指を滑らせても、角に布が引っかからない。
仕切りも袋の口を通り、使わない分は重ねて収まった。
翌朝、ゼルと町近くの採取地へ向かった。
追加で頼まれた葉を少量集め、まず仕切りの片側へ入れてみる。
斜面を歩いてから開けると、葉は少し動いていたが、ほかの包みの下へ潜ってはいなかった。
「取り出しやすいです」
ミナは布の端を持ち上げた。
休憩場所で枠を組み、葉を広げる。
風が来ても布の端がめくれにくく、地面へ直に置かずに済んだ。
けれど、戻そうとしたときに手が止まった。
留めてある小さな木片を、指先でつまめない。
手袋の革が厚く、木片の頭だけを押してしまう。
「外れないのか」
「素手なら、できたんですけど」
ミナは片方の手袋を外した。
今度は簡単に抜けた。
毎回こうすれば使える。でも、手が汚れているときにも外すことになる。
記録帳へ、手袋をしたままでは扱いにくかった、と書いた。
その横へ、袋から葉を出すところは楽になった、と付け加えた。
*
午後の工房で、トビアスはミナに同じ動きをしてもらった。
手袋をはめ、枠を押さえ、留め具を抜こうとする。
トビアスは横からのぞき、頷いた。
「頭が小さすぎたか。俺の指だと、これでも引けたんだけど」
「外せないわけではないんです。手袋を取れば」
「でも、作業の途中で使うんだもんな」
トビアスは細い紐を一本持ってきた。
留め具へ輪をつけ、ミナに引いてもらう。
指先でつままなくても、今度は抜けた。
「これなら、できそうです」
「輪は長すぎない方がいいな。ほかの荷物に引っかかるから」
親方にも見てもらい、紐の長さを詰める。
抜いた木片を落とさないように繋ぐ場所も変えた。
ミナはもう一度、留めて外す動きを繰り返した。
「ありがとうございます。葉を広げるところは、使いやすかったです。布だけのときより、置く場所を探さずに済みました」
トビアスは小さく息を吐き、笑った。
「よかった。持って帰ってもらってからが、気になってた」
ミナは枠を畳み、袋へ入れた。
細い紐の輪は、内側へ収める。
依頼の品を持ち帰る袋に、ここで作ってもらった道具が加わった。
「あと、何日か使ってみてもいいですか。次の道へ出るまでに、気づいたことがあればお伝えしたくて」
「もちろん。乾かした後で木が動くこともあるから、そこも見てほしい」
トビアスは、自分の控えへ今日直したところを書き込んだ。
ミナも、試した日と場所を残す。
同じ道具について、作った側と使った側に、それぞれ記録ができた。
帰る前に、仕上がった枠を配信で見せてよいか尋ねた。
「いいよ。ただ、何にでも使えるとは言わないでくれると助かる。重いものを載せる形にはしていないから」
「はい。私が葉を広げるためにお願いしたものだと、お話しします」
その夜、ミナは宿の卓へ、空の枠を置いた。
布を外した形から見せ、組み直して、留め具の輪へ指を掛ける。
「今日は、手袋をしたまま扱えるように直していただきました」
〈こぐま:引っ張るところをつけたんだな〉
「はい。作業しているときは素手ではないことを、私も最初にお伝えできていませんでした」
ミナは手袋をはめて、もう一度動かした。
慣れれば、薄い木片を落とさずに片づけられそうだった。
〈こぐま:使ってみないと分からないこともある。聞いてもらえてよかった〉
「はい。よかったところも、ちゃんとお伝えしてきました」
木枠の角には、小さな印が刻まれていた。
工房の印と、その隣にトビアスが入れた印。
ミナは布をかぶせる前にそこへ目を留め、それから枠を畳んだ。
*
バルドは、息子への手紙を途中で止めていた。
ミナの配信で見た木枠の形を思い浮かべる。
使った後、工房で留め具を直してもらったと話していた。
どんな木なら、あの薄さで持つのだろう。
父親が知っている木工といえば、休みの日に小さな塊を削る程度だった。
バルドは筆を動かした。
枠に使った木のこと。削るときに割れないよう、どんなところに気をつけたのか。
質問を書き、少し考えてから、帰ってきたときに見せてくれると嬉しい、と続けた。
「犬、まだ持っていてくれたのね」
妻が茶を置いた。
バルドは頷いた。
「……猫に見えたらしい」
「耳が、少し尖っていたものね」
「そうか」
妻は笑い、机の端へ置かれた削りかけの木を見た。
「次は、何を作るの?」
「まだ決めていない」
バルドは木を手に取った。
自分には、大事なものを作って渡したつもりはなかった。
頼まれた形へ近づけようと削り、出来上がると息子が喜んだ。それだけの日だった。
その犬が、今も遠い国にある。
木を戻し、手紙の最後に一行書いた。
新しく彫ったものも、見てみたい。
乾くのを待つ間、バルドは茶を飲んだ。
向かいに座った妻が何か言いたそうにしていたが、結局、何も言わずに笑っていた。
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