第131話 猫ではなく、犬でした
工房の戸口で、ミナは靴の裏をこすった。
朝の通りには、水を撒いた跡が残っていた。濡れた足で入る前に敷物へ触れると、奥からトビアスが手を上げた。
昨日の木枠は、まだ四本の棒に分かれている。
その横には、ミナの袋の口を写した紙が置かれていた。
「来てもらって助かった。布を留めるところ、こっちへ寄せてもいいかな」
ミナは持ってきた布を台へ広げた。
トビアスが棒を並べ、端を折り返してみせる。指を置く場所ができると、布の真ん中に触れずに持ち上げられた。
「葉を載せたままでも、ここを持てますね」
「うん。ただ、引っ張って持つと枠が歪むから、下にも手を添えて。運ぶ箱というより、広げるときの台だと思ってくれると」
「はい。袋の中では、別の仕切りを使います」
ミナが答えると、トビアスは紙へ印をつけた。
鉛筆を置き、少し笑う。
「採取の道具を作ることはあるけど、こういう相談は珍しいな」
「そうなんですか?」
「高い枝へ届く柄とか、たくさん背負える背負子とか。採りやすくしたい、運ぶ量を増やしたいって注文は来るよ。でも、採った葉を傷めずに届けたいから、袋の中から変えたいっていうのは、ここではあまり聞かない」
ミナは布の皺を伸ばした。
「使う方が、困るかと思って」
「昨日の加工場みたいに?」
「はい。料理でも、同じ材料を買ったつもりなのに、潰れていたら使えないところが増えるので。採ったものも、そうかなと思っていました」
トビアスは、台の端に置いた木を裏返した。
片側に、細い割れ目が入っている。
「木もそうだな。作れるつもりで仕入れたのに、割れていて予定のものが取れないことがある」
「小さいものには、使えますか?」
「使えるところを探すよ。でも、その分、最初に作りたかったものは足りなくなる」
ミナは昨日、短い繊維を別に分けていた女性を思い出した。
無駄にせず使えることと、欲しかった形で届くことは、やはり違うのだった。
「仕入れる側は、包み方を指定したりするんだ。ただ、採る人が自分で道具を頼みに来るのは少ない。昨日、用途をあれだけ説明してくれたのも、そういうことだったんだね」
「うまく言えなかったところも、ありましたけど」
「袋まで持ってきてくれたから、分かったよ」
トビアスが木の角へ刃を当てた。
薄い木屑が、くるりと巻いて落ちる。
ミナは作業の邪魔にならないよう布を畳み、夕食の時刻を確かめてから工房を出た。
*
肉屋で買ったのは、煮込みに向く部位だった。
肉の色や筋を見せてもらい、三人分の量を相談する。野菜の店では、丸い根菜と、細長い淡黄色の根菜を一つずつ手に取った。
丸い方は、長く煮ると崩れやすいという。
「一緒に入れない方がよさそうですね」
「形を残すならね。潰して汁へ混ぜる人もいるよ」
ミナは二つを別の包みにした。
同じ大きさに切れば同じ頃に煮える、とは限らない。
今夜はできるだけ、トビアスの覚えている食事に近づけたかった。
宿へ戻る途中、パンを売る店にも寄った。
小麦だけのものは少なく、ほかの穀物を混ぜた、皮の硬いパンが並んでいる。
切り口を見せてもらうと、目が詰まっていた。
これなら、汁へ浸して食べても崩れにくそうだった。
昼の間に仕事の記録を整理し、夕方、約束していた台所へ入る。
宿の仕込みに使った大鍋は、奥の火床へ移されていた。空いた場所を教えてもらい、ミナは食材を並べた。
窓の外では荷車が通り、鉄の輪が石の継ぎ目で鳴っている。
肉の表面を拭き、筋の向きを見て切る。
小麦粉は包みから少しだけ出し、薄くまぶした。残りをすぐ閉じると、まだ指先ほどの厚みがあった。
油を温めた鍋へ肉を置く。
音が立っても、すぐには動かさない。
焼き色がついたところで返し、一度取り出した。その鍋へ玉ねぎを入れると、底に残った肉の焼きついたところが、少しずつ剥がれていった。
水を加え、肉と硬い方の根菜を戻す。
鍋の底を匙で確かめながら、火を弱めた。
いつもの香草も、今夜は少し使った。
包みを開いた瞬間、慣れた匂いが鼻へ届く。
コルナで、仕込みの鍋をかき混ぜていたときの匂いだった。
全部入れたい気持ちになって、ミナは手を止めた。
少量でも、蓋をすれば香りは残る。
使う分だけを鍋へ落とし、残りを包み直した。
*
先に戻ってきたゼルが、入口で足を止めた。
「今日は、いつもと違う匂いだな」
「私の国でよく使う香草です。もう少し煮ます」
「器を出すか」
「お願いします。そちらの棚から三つ、借りてよいそうです」
ゼルが器を運んでいると、トビアスが顔を出した。
作業着の上着は脱いでいたが、髪にはまた小さな木屑がついている。
ゼルに指で示され、慌てて払った。
「落としてきたつもりだったんだけどな」
「まだ、首の後ろにある」
「えっ」
戸口へ引き返す背中を見て、ミナは少し笑った。
丸い根菜を後から加え、柔らかくなったところで味を確かめる。
汁には薄いとろみがついていた。匙ですくうと肉の側面へ絡み、ゆっくり落ちる。
塩を整え、借りた鍋から三つの器へよそった。
食べる場所は、食堂の端の小さな卓だった。
宿の客が通る側を空けて座り、パンを切り分ける。
トビアスは材料代の分を渡してから、器へ顔を寄せた。
「……いい匂い」
「根菜は、こちらのものです。お口に合うといいんですけど」
ミナが言う間に、トビアスは最初の一口を食べた。
汁を飲み、肉を噛む。
何も言わず、もう一度匙を入れた。
ミナは自分の器へ目を落としかけた。
そのとき、向かいから長い息が漏れた。
「……ああ。こういうの、食いたかったんだ」
トビアスが笑った。
今度はパンを小さくちぎり、汁へ浸す。
「この、最後にパンで取るところまで。家でもやってた」
「うちの食堂でも、そうして食べる人がいました」
ミナもパンを浸した。
硬い皮の内側が汁を吸い、噛むと肉と玉ねぎの味がした。
ゼルは根菜を一つすくい、断面を見た。
「こいつは、いつももっと崩れている」
「後から入れました。先に入れるものと、分けたんです」
「なるほど」
彼は頷いて食べた。
トビアスも匙で根菜を割り、少しだけ残った形を眺めていた。
*
鍋には、もう一杯ずつ取れるくらい残っていた。
おかわりを分けて席へ戻ると、トビアスがミナの旅について尋ねた。
リュネールからどれくらいかかったのか。エルディアでは、どんな場所へ行ったのか。
ミナは食堂のことや、採取の仕事のことを話した。
「一人で来て、向こうで案内の人を探したんだ」
「移動は商隊の方と一緒でした。知らない場所の採取は、現地の方にお願いしています」
「それでも、すごいな。魔物もいるだろ」
「はい。昨日も、ゼルさんに助けていただきました」
ゼルは器を置いた。
「自分で退けるところまで退いていた。動けなくなったわけじゃない」
ミナは少し背筋を伸ばした。
トビアスは、匙の柄を指で回してから言った。
「俺、昔は冒険者になりたかったんだ」
食堂の奥で、器の重なる音がした。
トビアスはそちらへ目を向け、それから卓へ視線を戻した。
「訓練なら動けたんだよ。走るのも、武器を振るのも。でも、本物を目の前にしたら、足が動かなかった」
ミナは口を開きかけ、閉じた。
岩背ガマがいた日の、包丁を握る手の震えを思い出した。
「一度だけじゃなくてさ。自分で行くと決めたのに、いざとなると駄目だった。周りに助けてもらって、それで戻って」
「……怖かったんですね」
「うん。怖かった」
トビアスはあっさり認めた。
けれど、少しの間、匙は動かなかった。
「だから、今はこっち。木を彫ってると、もう一回やってみたいって思えるんだ。失敗したところも、次はどう削ろうって考えられる」
「窓に来る鳥も、また作るんですか?」
「作る。次は、羽をもう少し畳んだところ。今のだと、飛ぶのか寝るのか分からないって親方に言われた」
ミナは棚の鳥を思い出し、笑った。
トビアスも笑い、止まっていた匙を持ち直した。
*
食事を終え、三人で器を下げた。
借りた台と鍋を元へ戻すころには、窓の外が暗くなっていた。
少しだけ話していってよいか宿の人に尋ね、卓へ戻る。
トビアスが腰の袋から、布に包んだものを取り出した。
「昨日、鳥を見てくれただろ。そういえば、これを見せようと思って」
布の中には、小さな木彫りがあった。
掌に載る大きさで、背中は丸く、四本の脚は短い。
耳のような突起が二つあり、鼻先だけが少し前へ出ていた。
「親父に、小さいころ作ってもらったんだ。これが忘れられなくてさ」
ミナは差し出された木彫りを、両手で受け取った。
背中の色が、ほかより濃い。何度も撫でたのだろう、角が丸くなっていた。
「かわいいですね。猫でしょうか?」
「犬らしいぜ」
ミナは、もう一度顔を見た。
「……あ。こちらが、鼻なんですね」
「そう。そこから見れば、少し犬に見える」
ゼルも横からのぞいた。
しばらく黙ってから、短く言う。
「耳が、難しいな」
トビアスが吹き出した。
ミナも、木彫りを落とさないよう卓へ置いてから笑った。
「木を削ったら、こんなものが出てくるんだって思ったんだよ。俺も頼んでやらせてもらったけど、最初は棒が細くなっただけだった」
「それから、ずっと?」
「やらない時期もあった。でも、これは持ってきた。うまくいかない日に見ると、ちょっと笑えるから」
ミナは丸い背中を見た。
今のトビアスなら、もっと犬に見えるものを作れるのかもしれない。
それでも、この一つを布に包んで、遠い国まで持ってきたのだ。
*
「この後、少し配信をしようと思うんです。お二人とも、映っても大丈夫ですか?」
ミナが尋ねると、ゼルは頷いた。
トビアスは水晶へ興味深そうに目を向ける。
「料理の話をするの?」
「はい。今日はアルセリアの方と、故郷の煮込みを食べましたって。お仕事のことも、話してよいところだけ」
「それならいいよ」
今まで話していたことを、全部伝えるつもりはなかった。
ミナは食堂のほかの客が映らないよう向きを決め、配信を始めた。
最初に、空になった器へ少しだけ残しておいた煮込みを映した。
とろみの具合を見せ、こちらの根菜は後から加えたことを説明する。
文字板には、いくつか挨拶が届いた。
〈夕餉係:今日は故郷の献立なんですね〉
「はい。一緒に食べてくださった、トビアスさんです。工房で道具の相談に乗っていただいています」
トビアスは、どこを見ればよいか確かめてから挨拶をした。
ミナが木彫りへ目を向けると、彼はその視線に気づいた。
「それも見せる?」
「よいんですか?」
「いいよ。犬だって、先に言ってくれれば」
ミナは笑いながら、小さな木彫りを持ち上げた。
「お父さんが作ってくださった、犬だそうです」
水晶に近づけすぎない位置で止める。
丸い背中と、短い脚が灯りに照らされた。
少し間を置いて、文字が届いた。
〈こぐま:まだ持っていたのか〉
ミナは、その一行を読み直した。
隣から、椅子の軋む音がした。
トビアスが身を乗り出し、文字板を見ていた。
木彫りと、表示された名前を交互に見て、口を開く。
「……親父?」
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