第129話 足元を見ていました
テントの外側を、丸い露が滑っていた。
ミナは入口を開き、まず靴へ足を入れた。顔を出すと、昨夜は見えなかった川霧が木々の間に溜まっている。
少し離れたかまどでは、もうゼルが火を起こしていた。
「おはようございます」
「おはよう。水は、そっちだ」
蓋をした容器を示され、ミナは礼を言った。
今朝の食事は、昨夜と同じ割り穀物を、水を多くして煮る。干し肉を細かくほぐして入れると、粒の間を汁が流れた。
冷たい朝には、器を持つ手まで温まるのが嬉しかった。
食べ終えると、鍋を洗い、テントの内側の荷物を全部出した。
布を払っても、外側の湿りは残る。
「これ、乾くのを待っていたら遅くなりますよね」
「町に着いてから広げろ。食い物と記録は離しておけ」
ミナは湿った面を内側へ折り、別の包みにした。
昨夜と同じ荷物なのに、袋へ戻す順番は変わった。
管理人へ挨拶を済ませ、二人で柵の外へ出る。草に触れた靴の先が、すぐに濃い色になった。
*
道は川から少しずつ離れ、それから細い支流に沿って曲がった。
水のそばには背の高い草が並んでいた。茎は指より太く、細長い葉が胸の高さで擦れ合っている。
向こう岸は近いのに、その間の水がどれくらい深いのかは見えなかった。
ゼルは歩幅を狭め、先に地面を確かめてから進んだ。
ミナも彼の足跡を追う。黒く湿って見える土でも、踏んでよいところと、避けているところがあった。
「ここだ」
少し開けた岸で、ゼルが足を止めた。
右手には根を張った木があり、左は草むらを挟んで水へ続いている。道は木の後ろから緩い斜面へ上がっていた。
ミナは袋を木の根元へ下ろし、依頼の紙を出した。
今回集めるのは、茎から丈夫な繊維を取る植物だった。
籠の縁を留めたり、荷を結んだりするために使う。町の加工場へ届くものに、裂けやすい茎が混じるようになったという。
若い茎ばかりなのか。採ってからの扱いなのか。
まずは現地のものを、場所と状態が分かるように持ち帰る。
見本として預かった一本には、採る位置を示す紐が結んであった。
「細いのは残せ。その奥は、もう硬すぎる」
ゼルが二つの株を指した。
ミナは葉の色と、茎の節を見比べた。
「このくらいのものですね」
「ああ。ただ、使う場所によって欲しがるものが違う。依頼の見本を優先しろ」
籠に使うから硬い方がよい、というわけではなかった。
ミナは、しならせて見せてもらった見本の曲がり方を思い出した。
採集が認められた範囲を、岸の杭で確かめる。
それからゼルに、作業と手元を配信してよいか尋ねた。
「構わん。呼んだら、そっちから目を離せ」
「はい」
水晶を肩の位置へ留め、配信を始める。
植物と今日の仕事について短く話すと、夕餉係から挨拶が届いた。
〈夕餉係:おはようございます。今日はずいぶん草が高いところですね〉
「はい。向こうが見えにくいので、ゼルさんから離れないようにします」
ミナは刃を抜く前に、結束用の紐を手の届く場所へ置いた。
採った茎を地面へ直接寝かせないよう、布を広げる。
昨日買った食材の残りは、袋の奥に収まっている。昼食に使える場所へ出るまで、ここでは開けないつもりだった。
一本目を切る。
茎の表面は滑らかだったが、切り口には細い繊維が残った。
ミナは無理に引きちぎらず、刃を当て直して離した。
「傷んだところは、ここで落としてしまってもいいんでしょうか」
「見せる分は残せ。どこから傷んだか、向こうで見る」
「そうでした」
ミナは傷のある一本を、別の札と一緒に置いた。
使いやすい状態へ整えることと、調べるために残すことは違う。
切り揃える前に聞いてよかった。
*
三つ目の小さな束を作ろうとしたときだった。
「手を止めろ」
ゼルの声が、すぐ後ろでした。
ミナは包丁を動かさず、顔だけ上げた。
左手の草が揺れていた。
風なら、周りの葉も揺れるはずだった。けれど、同じ一か所が低く沈み、その奥から水を押し分ける音がした。
「刃を収めて、木の方へ。袋は置け」
ミナは鞘へ包丁を戻し、立ち上がった。
傍らに置いた槍を取る。
草の隙間から、泥を被った頭が現れた。
低く平たい頭だった。
その後ろへ太い首と胴が続き、四本の脚が泥へ沈んでいる。尾まで含めれば、ミナが寝転んでも届かないほど長い。
口の端から落ちた水に、細かな泡が混じっていた。
「泥這いだ。水際へ逃げるな」
ゼルが、長柄の刃を構えた。
ミナとの間へ入るが、まっすぐ魔物へ踏み込むことはしない。
少しずつ右へ動き、穂先を相手の顔の高さへ下げる。
ミナは一歩下がった。
靴の踵が、思ったより深く沈んだ。
息が詰まる。
そのまま引けば、片足だけ取られる。
槍を横へ倒さないよう握り直し、前の足へ重さを戻した。
ゆっくり踵を抜く。目に魔力を通すと、木の根の間に残る細い踏み跡が見えた。
来たとき、ゼルが歩いたところだった。
「右の根元へ下がります」
「行け」
短い返事と同時に、魔物が動いた。
泥を蹴った前脚が、見た目より速く伸びる。
ゼルは刃先を突き出した。魔物が顔を振り、柄の下へ潜ろうとする。
乾いた音がした。
刃が頭の硬い部分を擦り、ゼルの腕がわずかに下がる。
けれど、彼の足は揃わなかった。後ろの足を横へ運び、伸びた顎から体を外した。
ミナは木の根の内側へ入り、盾を前へ寄せた。
ここなら後ろの斜面へ抜けられる。
ただし、道の脇には倒れた枝が一本あった。
槍を持ったまま足で寄せる。退くときに踏みそうな先だけを、通り道から外した。
「後ろ、通れます。私は木の右です」
「そこで待て」
ゼルの声は変わらなかった。
文字板に何か届いている。
ミナはそちらを見ず、魔物の肩と前脚を追った。
大きく動く尾ばかり見ていると、頭がどちらへ向くかを見失いそうになる。
魔物は一度、水の方へ体を引いた。
ゼルが追わないでいると、頭だけを持ち上げた。
浅い泥の中では低かった胴が、岸へ上がるところで少し浮く。
ゼルの後ろには、さっき茎を並べた布があった。
ミナは声を出しかけたが、彼の足が先に布を避けた。
踏み固められた土の狭い帯へ移り、刃を引く。
魔物が再び飛びついた。
ミナには、前脚が岸を掴む直前の動きが見えた。
体の重さが前へ移り、首の下が開く。
ゼルはその瞬間、柄を滑らせるように送り出した。
刃が、顎の下から入った。
魔物の胴が岸へぶつかり、黒い水が跳ねる。
ミナは盾を上げた。尾が横へ薙がれ、草の茎がまとめて折れた。
ゼルは柄を捻って刃を抜き、退いた。
相手が頭を持ち上げようとするところへ、もう一度、短く突いた。
水音が続いた。
やがて、尾の動きが小さくなった。
ミナは槍を下ろさずに待った。
ゼルもすぐには背を向けない。周りの草むらへ目を配り、呼吸を確かめるように魔物を見てから、ようやく言った。
「終わった。そこから動かず、少し待て」
ミナは頷いた。
指に力が入りすぎていたことに気づき、一本ずつ握り直した。
*
ゼルが水辺を確かめている間に、ミナは配信へ短く話した。
「二人とも、怪我はありません。今、周りを確認していただいています」
〈夕餉係:よかった。返信は後で大丈夫です〉
文字を読んで、小さく息を吐く。
ゼルが戻ってから、ミナは足元を見た。
彼が戦っていたところには、深く沈んだ足跡がほとんどなかった。
「足元まで、ずっと見ていたんですね」
「先に見ておいた」
ゼルは、固い土から草の根元へ続く線を指した。
「あいつは泥の中でも動ける。俺は同じ速さでは動けん。そこまで付き合わないだけだ」
ミナは頷いた。
相手の攻撃を見て避けるだけでは、次に足を置くところがなくなる。
ゼルは戦う前から、動ける場所を選んでいたのだ。
「私は、下がったときに一度、足を取られそうになりました」
「慌てて引かなかったな」
「余計に沈みそうで」
「それでいい。袋を取りに戻らなかったのもな」
ミナは木の根元の袋を見た。
採った茎の一部には、泥が跳ねている。
惜しいと思ったが、あの間へ拾いに入ろうとは思わなかった。
「あとで拾えるなら、その方がいいですから」
「ああ。武器や防具を見て感じてはいたが、戦えるのだな」
「……まだ、一人では危ないことも多いです」
「退く場所を探して、武器を構えて待てた。十分だ」
ゼルは刃を拭き、回収するものを確かめた。
討伐の証明になる部分と、買い取ってもらえる少量の素材。胴まで運ぶ余裕はない。
ミナは指示された包みを用意し、食材や植物の試料とは分けて収めた。
茎も、全部を採り直す必要はなかった。
泥のついたものを分け、数を確かめる。ゼルの見張る範囲で不足分だけを補い、その場を離れた。
安全な道へ戻ってから、記録に採取場所と遭遇した魔物を書き足した。
次にここへ来る人にも、伝える必要があった。
*
昼食は水辺から離れた休憩所で、残しておいた保存食を食べた。
火を起こさずに済む分、包み直した荷物を確かめる時間が取れた。
午後の道は乾いていた。
歩くたび、靴についた泥が少しずつ固まって剥がれる。
木々の間が明るくなると、先に木を打つ音が聞こえた。
坂を下りた先に、町があった。
川から引き込んだ水路に、長い材木が並んでいる。
岸には屋根だけの作業場が続き、削ったばかりの木の匂いが道まで流れてきた。
通りを歩く人の肩には板があり、荷車には椅子の脚らしいものが積まれていた。
「材木が、あんなに浮いています」
「流して運んだものを、ここで分ける。先に宿へ行くぞ」
「はい。テントも乾かしたいです」
宿では、庭の一角を使わせてもらえた。
布を広げると、畳んでいたところにまだ冷たい湿りが残っていた。
袋から採取物を出し、札が読めることを確かめてから、ゼルと町の窓口へ向かった。
魔物のいた場所を地図で示し、討伐の証明を渡す。
依頼先にも到着を知らせると、詳しい受け取りは明朝になった。
帰り道、ミナは一軒の店の前で足を止めた。
軒下に、深さの違う籠が重ねてある。
その横には薄い木枠が並び、小さな板を差し込んで仕切れる箱も置かれていた。
ミナは、自分の袋の中で布を寄せて埋めていた隙間を思い出した。
「こういうものを、採ったものに合わせて作っていただけるでしょうか」
「聞いてみろ。作る方にも都合がある」
店の奥では、若い男が木屑を掃いていた。
ミナたちに気づくと、手を止めて会釈をする。
「ご相談なら、明日の朝でも大丈夫ですよ」
「ありがとうございます。見本を持ってきてもいいですか?」
「ええ。その方が分かりやすいです」
ミナは礼を言い、宿へ向き直った。
明日は依頼の品を渡すだけでなく、作ったものを使う人にも話を聞ける。
袋の中の茎が折れていないか、もう一度確かめたくなった。
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