第123話 同じ名前の違うご飯
リュネールを出てからひと月とすこしが経っていた。
朝、ミナは畳んでいた上着を袋から出した。
昨日の昼は、袖をまくって歩いていた。
けれど今は、井戸の水で顔を洗うと指先まで冷たくなった。
上着へ腕を通し、首元を合わせる。
ロゼッタに会った休憩所から、いくつもの宿を過ぎていた。
エルディアを通る道でも、今回はサハルへ曲がらなかった。
街道の分かれ目でその名を見つけたとき、ミナは思わず足を緩めた。
商隊の進む方を確かめ、また歩いた。
今は、ルガンの国境を越えている。
道の脇に生える木は、リュネールのものより葉が小さかった。
枝の間から、明るい土が見える。
ずっと南へ来たのに、朝は上着が必要だった。
「昼には、また脱ぐことになるよ」
荷を確かめていた商隊の人が言った。
「この先も、同じくらい冷えるんですか?」
「川へ下りると変わる。今夜泊まるところで聞いてみな」
ミナは頷いた。
国の名前を一つ覚えても、そこにある朝を全部知ったことにはならないらしかった。
*
最初の町へ着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
町の名は、タルカ。
門の手前には荷車が並び、運んできた品物を確かめる場所があった。
ミナも、登録札と用意してきた書類を出した。
商会の人が迎えに来てくれるまで、指定された日陰で待つ。
通りを、大きな樽が運ばれていった。
肩へ担いでいるのは、ミナよりずっと背の高い亜人だった。
その横を、耳の長い女性が帳面を見ながら歩く。
人間もいるが、見慣れない姿の人が多かった。
顔を見すぎないようにして、ミナは通りの先へ視線を移した。
建物の壁は土に近い色だった。
窓の上には日差しを避ける布が張られ、軒下では、浅い籠に入った何かが売られている。
扉の横に腰を下ろして、食事をしている人もいた。
香ばしい匂いが、風に混じって届いた。
朝は寒かったのに、今は上着を袋へ戻していた。
「ミナさんですね」
名前を呼ばれ、立ち上がった。
商会の印のついた札を見せてもらい、こちらも紹介の書類を渡す。
迎えの女性は、ミナの荷物を見て歩調を緩めた。
「まず宿へご案内します。仕事の詳しい説明は明日の朝で。今日は、長旅の後ですから」
「ありがとうございます」
商隊の人たちへ挨拶した。
道中、何度も水場や休む場所を教えてもらった。
最後に、荷を確かめていた責任者が手を上げた。
「草を見に行くのは、明日からだよ」
「はい。今日は行きません」
笑われて、ミナも少し笑った。
*
宿は、商会から歩いてすぐの場所だった。
部屋へ荷物を置くと、女主人が裏庭を見せてくれた。
壁際にかまどがあり、その脇に水甕と作業台がある。
ほかの客も使う場所なので、火を使う時間と片づけの決まりを教わった。
「大きい鍋は貸せるよ。細かい道具は、自分のものを使ってね」
「はい。食材は、どちらで買えますか?」
「裏の通り。ただ、今から作るなら、昼は買ってきた方が早いんじゃないかい」
言われて、ミナはお腹が空いていることを思い出した。
道中の最後に食べたパンは、もう何刻も前だった。
まず水を飲み、足を休めた。
部屋の戸の閉まり方を確かめてから、女主人に教わった店へ向かった。
*
店先には、蓋のついた大きな蒸し器が並んでいた。
ミナが近づくと、売り手の女性が蓋を少し上げた。
湯気の向こうに、小さな粒と豆が見えた。
「ラウマ、一つかい?」
ミナは顔を上げた。
「これが、ラウマですか?」
「そうだけど」
ドランから聞いた料理だった。
穀物と豆を蒸し、たれを添えて食べる。
サハルでは、材料を揃えられず、故郷のものを出してあげられなかった。
「一つ、お願いします」
女性は深さのある器へ盛り、脇に置いた壺から、とろりとしたものをかけた。
少し酸っぱい匂いがした。
「器は戻してね。持ち帰るなら別の包みにするよ」
「ここでいただきます」
軒下の長椅子へ座った。
匙を入れると、粒が軽くほどけた。
豆は柔らかいが、形が残っている。
たれのかかったところを一緒に食べた。
香ばしさの後から、酸味が来た。
少し油気もある。
粒だけでは口の中で散りそうなところを、たれがまとめていた。
「……おいしいです」
女性は次の客の分を盛りながら、頷いた。
「どこから来たんだい」
「アルセリアです。エルディアで、こちらの国の方に、このお料理のお話を聞きました」
「それで食べに来たの?」
「仕事もあるのですが、食べてみたくて。香りのする葉も使うと聞いたので」
女性が、少し首を傾げた。
「葉? うちでは入れないね」
ミナは器を見た。
たしかに、聞いたときに想像した葉は見えなかった。
隣で食べていた男性が、口の中のものを飲み込んでから言った。
「川の方じゃないか。包んで蒸すところもある」
「そうなんですか」
「俺の家じゃ、もっと豆が多かったな」
女性が笑った。
「それは、あんたのお母さんが豆好きだったんだろう」
「腹がもつからだよ」
男性はそう言って、残りをすくった。
ミナはもう一口食べた。
同じ名前なら、同じものに会えると思っていた。
けれど、ドランが食べたかったものは、これと少し違うのかもしれない。
「このたれも、教えていただいていいですか?」
「材料の名前ならね。分量は売り物だから」
「はい。それだけでも」
女性が、炒って挽いた種を入れた鉢を見せてくれた。
それを指す言葉は、ミナの知らないものだった。
聞き返し、食べ終えてから記録帳へ書いた。
料理の名前の横には、町の名前も添えた。
*
翌朝、商会の作業室には、同じ名札のついた袋が三つあった。
採取地の違う薬草だという。
ミナは説明を聞いてから、少しずつ広げさせてもらった。
どれも乾いていたが、葉の残り方と、茎の混ざり方が違っていた。
「こちらは、香りが弱いと言われています」
担当者が一つを示した。
「湿っていたことはありますか?」
「届いたときは乾いていました。その前は、これから確かめたいところです」
ミナは頷いた。
見ただけでは、採ったときの状態も、乾かすまでの時間も分からない。
名札に書かれた草自体も、こちらでは初めて扱うものだった。
「使っている方には、いつお話を聞けますか」
「午後に。まずは、同行する案内役を紹介しますね」
戸口で、低い声がした。
「入っていいか」
振り向くと、濃い緑色の鱗を持つ人が立っていた。
鼻先が長く、琥珀色の目には細い瞳がある。
厚手の上着の下から尾が伸び、戸を通るときだけ、少し横へ動いた。
リザードマンだった。
肩には革の帯が掛かり、背には刃を覆った長柄の武器がある。
腰に結んだ縄は、使い込まれているのに、きちんと巻かれていた。
「ゼルだ。川沿いへ行く間、案内と護衛をする」
「ミナです。よろしくお願いします」
ミナは立ち上がり、頭を下げた。
顔を上げても、ゼルの表情はほとんど変わっていなかった。
目が、ミナから机の上へ動く。
「これは、誰が広げた?」
「私です。混ざらないように、袋ごとに布を分けました。戻してよければ、すぐに」
「そのままでいい」
ミナは、布へ伸ばしかけた手を止めた。
「破片も残しているな」
「はい。折れたものが、どのくらい入っていたかも見たかったので」
「そうか」
それきり黙った。
よくなかったのだろうかと思い、ミナは布の端を見直した。
担当者が、机の横へ椅子を持ってきた。
「ゼルさんは、採取の遠出をする人たちによく付いています。魔物だけでなく、川の道を見てもらうためにも」
ゼルは武器を邪魔にならない場所へ置き、座った。
「水位で、使える道が変わる。採ったものを濡らさず運ぶ道も必要だ」
「舟を使うこともありますか?」
「ある。渡るだけのことも、荷を載せて下ることもある」
ミナは、ロゼッタから聞いたことを思い出した。
「こちらで晴れていても、上流の雨を確かめるんですね」
琥珀色の目が、ミナへ向いた。
「誰かに聞いたか」
「はい。道中でお会いした方に。私は、まだ見たことがありません」
「なら、着いたら水の跡を見せる」
ゼルは地図を引き寄せた。
指先の爪が、紙に穴を開けないように少し浮いている。
「魔物は倒しても、荷が流れたら依頼は終わらん。戻る道と、持って戻れる量を先に決める」
ミナは頷いた。
強い人に一緒にいてもらえればいい、というだけの仕事ではなかった。
ゼルは、採った後のことまで見ていた。
「私は、採取したものの包み方も相談したいです。揺れて葉が折れることがあったので」
「袋を見せてもらおう。出る前に」
「はい」
*
その日は、町で説明を聞くところまでだった。
川沿いへ移動する日は、現地から届く道の知らせを確かめて決める。
ミナはその間に、素材を使う人の話を聞き、荷物を見てもらうことになった。
打ち合わせを終えると、ゼルが戸口で足を止めた。
「昼は、どこで食べる」
「まだ決めていません。昨日は、宿の近くでラウマを食べました」
「あの蒸し器の店か」
「はい。おいしかったです」
「量は足りたか」
「私には、十分でした」
ゼルは一度頷いた。
「なら、あそこでいい。午後の店へ行く道にある」
ミナは少し迷ってから、尋ねた。
「ゼルさんは、葉で包んだラウマを食べたことがありますか?」
「ある」
「川の方のお料理なんですね」
「川にも、いろいろある」
昨日の男性の言葉を、そのまま書こうとしていたことに気づいた。
ミナは顔を上げた。
「どちらで食べたか、教えていただけますか?」
ゼルは、少しだけ首を傾けた。
「そんなことも書くのか」
「はい。食べてみたいので」
返事をすると、ゼルはまた黙った。
怒っているようにも、呆れているようにも見えなかった。
どちらなのか、まだ分からない。
けれど、外へ出る前に、こちらを待ってくれた。
「歩きながら話す。食べる前に、腹が減るぞ」
ミナは帳面を閉じ、袋へ収めた。
「はい。お願いします」
昨日と同じ店へ向かう道が、今日は少し違って見えた。
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