第119話 おじさんの包丁を見てもらいます
リュネールへ戻った夜、ミナは木箱を寝台の横へ置いた。
中の看板は、布に包んだままにしてある。
持ち歩くにはかさばったが、帰り道で邪魔だと思ったことはなかった。
包丁だけを取り出し、いつもの一本と並べる。
翌日から使う道具を確かめていると、セリカが部屋の戸を叩いた。
「リゼから返事。明後日の朝なら、時間が取れるって」
コルナを出る前に、姉が連絡を入れてくれていた。
補助帯の確認もしたいので、動きやすい服で来るようにとあった。
「お姉ちゃんの仕事は、大丈夫?」
「うん。その翌日に出れば間に合う。私も、包丁のことは聞いておきたいし」
ミナは頷き、二本を別々に包んだ。
*
約束の場所は、ギルドが紹介してくれた工房の作業室だった。
リゼはリュネールでの仕事に合わせて部屋を借り、補助帯も持ってきていた。
卓の上には、細い工具と測定用の水晶が並んでいる。
「おかえりなさい。いい帰郷だった?」
「はい。お店も、町の方が掃除してくださっていて」
ミナはお礼を言い、袋を椅子へ置いた。
リゼはセリカへ目を向けた。
「あなたも、ちゃんと休めた?」
「掃除と買い物と料理をした」
「働いてるじゃない」
「楽しかったよ」
セリカが笑った。
リゼも口元を緩め、卓の一角を空けた。
「それで。今度は何を持ってきたの?」
ミナは布をほどいた。
新しい包丁を鞘ごと差し出すと、リゼは受け取る前に一度手を拭いた。
「抜いてもいい?」
「はい。お願いします」
鞘から刃が出た。
リゼは窓の方へ向け、傾きを少し変えた。
そのまま、動かなくなった。
「リゼさん?」
「……ちょっと待って」
卓へ柔らかな布を敷き、刃を置く。
近くの灯りを寄せ、引き出しから拡大鏡を取り出した。
柄に近い刻印から、刃の背へ視線が進む。
一度通ったところへ戻り、今度は別の向きから覗いた。
ミナは椅子へ座った。
セリカも、卓の向こうを覗き込むのをやめた。
「これ、どこにあったの?」
ようやくリゼが顔を上げた。
「食堂の棚の上です。箱に、私の名前が書いてあって。看板も、一緒に入っていました」
「手紙や、使い方を書いたものは?」
「ありませんでした。看板の裏に、店の名前は自分で決めろって」
リゼは包丁へ目を戻した。
「……そう」
それから、まだ包まれているもう一本を見た。
「いつもの方も、見せてもらえるかしら」
*
二本の刃が、並んでいた。
リゼは紙へ線を写し、時々、古い記録と見比べた。
ミナは手を膝へ置いて待った。
窓の外で荷車が通り、車輪の音が遠ざかった。
「使ってみた?」
「蕪を切りました。大きい方は、重さを預けると刃が進みやすくて。でも、細かいところは、いつもの方が使いやすかったです」
「魔力は?」
「切りにくいところで、少し。強くは入れていません」
リゼは頷いた。
卓の端へ、別の紙を引き寄せる。
「オルヴェンにも見てもらいたいわね」
「オルヴェンさんにも?」
「今、町の給水設備の確認に来ているの。仕事が済んでから、こちらへ寄れるか聞いてみる」
リゼは工房の人へ伝言を頼んだ。
戻ってくると、紙へ写した線の一部を指した。
「この先、刃を働かせる方だけを見ていると、読み違えそうなの。使い続けるための魔力の扱いも組み込まれている。あの人の意見を聞きたい」
「切れ味の話だけじゃないんだ」
セリカが言った。
「ええ。だから、今ここで全部分かったような説明はできない」
リゼは拡大鏡を置いた。
「少なくとも、今までの包丁を大きくして、術式を足しただけではないわ」
*
返事を待つ間に、補助帯を見てもらった。
リゼが取り出したものは、以前の形に似ていた。
けれど、内側の布と留め具は新しくなっていた。
壊れた部分は別の箱へ収められ、比較できるようにしてあった。
「通り道を直して、入ってくる魔力が多すぎるときに絞る仕組みを入れた。でも、まだ渡せない。今日はあなたに合わせるところまで」
「はい」
「まず、何もつけずに歩いて。普段の身体強化も、あとで見せてね」
作業室の隣に空けてもらった場所で、ミナは歩いた。
止まり、向きを変え、低い台を一段上る。
次は、自分の魔力を足腰へ通して同じ動きをした。
「腕も一緒に使える?」
「はい。このくらいなら」
指定された軽い荷物を持つ。
持ち上げる前に足を決め、腰を伸ばした。
リゼは横から見て、紙へ何か書いた。
「前に測ったときとは、かなり違うわね」
ミナは荷物を置いた。
「たくさん歩きましたし、レオンさんにも教わりました」
「あの説明で?」
「……何度か、聞きました」
セリカが小さく笑った。
リゼは頷き、補助帯の長さを合わせた。
「今のあなたが自分でできる分まで、道具で上乗せする必要はない。必要なときに、足りないところを助けるようにしたいの」
装着した後も、最初は魔力を入れなかった。
腰を曲げ、座り、布の当たるところを確かめる。
リゼが留め具の位置を少しずらした。
「ここ、きつくない?」
「座ったときだけ、少し引っ張られます」
「それは直す。遠慮せず言って」
短い試用では、歩幅を大きくしすぎないようにした。
止めた後、ミナは何もつけずにもう一度歩いた。
わずかに体が重く感じられたが、ふらつくほどではなかった。
その感覚も、そのまま伝えた。
「使った後の確認は、今後も必要ね。道具が壊れにくくなっても、あなたの疲れまでなくなるわけではないから」
ミナは頷いた。
「帰れなくなるかもしれないときに、帰るために使うものですね」
「そう。練習で使うなら、また別に時間と強さを決めましょう」
リゼは補助帯を外し、調整箇所へ印をつけた。
*
オルヴェンが来たのは、昼食の後だった。
「待たせたね。向こうの確認が、少し長引いてしまった」
「お仕事の途中に、すみません」
「もう済ませてきたよ。ミナさんも、元気そうでよかった」
オルヴェンはセリカにも挨拶し、リゼの隣へ座った。
「新しく見つかった術式だと聞いたけれど」
「これ。まず、何も言わずに見ていただける?」
リゼが布を外した。
オルヴェンは眼鏡を直し、包丁へ顔を近づけた。
刻印を追う指が、刃へ触れる前に止まる。
リゼが拡大鏡を渡した。
「……エドガーさんのものか」
「ええ」
「ずいぶん、小さなところへ収めたね」
オルヴェンは、リゼが写した紙にも目を通した。
線を一つたどり、途中で別の線へ戻る。
「ここを、戻しているのかな」
「私もそう読んだ。ただ、刃の方とつながるところが、これまで見た形と違う」
二人の会話は、ミナには半分も分からなかった。
けれど、リゼが何を確かめたくて呼んだのかは、少し分かった。
一人が指したところを、もう一人が違う側から追っている。
オルヴェンは、しばらくして椅子へ座り直した。
「切る瞬間だけではないね。何度も使うことを考えてある」
「料理を、たくさん作るときですか?」
ミナが尋ねた。
「おそらくね。余分な魔力を刃へ出し続けないようにしている。ただ、それだけの仕組みなのかは、もう少し調べないと分からない」
リゼが、小さい方の包丁を示した。
「こちらにも、切る手を助ける働きがある。新しい方は、使い手が細かく魔力を変えたとき、それに応えられる幅が広そうなの」
「たくさん入れれば、いいわけではないんですね」
「ええ。むしろ、少なく、必要なところへ通せる人が使ったときに、違いが出ると思う」
ミナは新しい柄を見た。
コルナで握った重さを思い出す。
「私にも、使えるようになりますか」
「今のあなたなら、覚えていけると思うよ」
オルヴェンが答えた。
「でも、分からない部分を、いきなり強い魔力で試すのはやめておこう。どんな働きをするか、確かめながらだね」
「はい」
ミナの返事を聞いてから、リゼはもう一度刻印へ目を落とした。
「……私が見てきたエドガー様の作品の中でも、これは」
そこで言葉が途切れた。
セリカがリゼを見た。
「そんなに?」
「まだ、比べて言い切れるほど読めてない。けれど、この細かさで、線を増やすためだけの線が見当たらないのよ」
リゼの声には、いつものからかう調子がなかった。
「実際に刻むまでに、どれだけ考えて、何度図を描き直したのかしらね」
ミナには、その時間を想像できなかった。
食堂で忙しくしていたおじさんの、知らない時間だった。
*
「あの」
ミナが声をかけると、二人が顔を上げた。
「これで、大きなお魚も、きれいにおろせるようになりますか?」
リゼが瞬きをした。
「……魚?」
「はい。サハルでは、今の包丁だと何度か刃を入れ直す大きさのものもあったので。長い刃なら、一度に引けるところが増えるかなって」
オルヴェンが小さく笑った。
リゼも、張っていた肩の力を抜いた。
「ええ。向いている作業は増えると思う。ただし、包丁が魚のおろし方を教えてくれるわけじゃないわよ」
「はい。それは、覚えます」
ミナは真面目に頷いた。
セリカが隣で、嬉しそうに口元を緩めた。
「ミナ、お店でも使うつもりだから」
「でしょうね。看板と一緒に入っていたんだもの」
リゼは刃を布へ戻した。
「大切にしまっておくためだけに、こんな形にしたとは思えないわ」
ミナは、少し安心した。
おじさんの残したものだからこそ、傷めたくはなかった。
けれど、使わずにしまっておくのも、違う気がしていた。
*
詳しい検証のため、新しい包丁は数日預けることになった。
リゼは調べる範囲を説明し、刻印には手を加えないと約束した。
補助帯も、今日の測定をもとに調整する。
完成と断定せず、次に確かめる日を相談して決めた。
「次の旅は、すぐ?」
「まだです。ルガンのお仕事について、滞在する場所や、一緒に採取する方のことも確認したいので」
「なら、その間に進めましょう。出発日を決める前に、一度連絡してね」
ミナは記録帳へ予定を書いた。
セリカも横から日付を確かめた。
「私は明日、仕事へ戻るけど。またミナから話を聞くね」
「ええ。あなたも、今度は何か壊す前に持ってきて」
「今日は壊してないよ」
「今日はね」
いつもの調子が戻り、ミナは笑った。
オルヴェンも椅子から立ち、帰る時刻を確かめた。
「私もそろそろ。続きは、写しを見ながら考えておくよ」
「ありがとうございました」
ミナは二人へ頭を下げた。
帰りの袋には、いつもの小さな包丁だけが入っていた。
その柄を外から確かめ、紐を結ぶ。
明日の料理も、これで作れる。
新しい一本を使うときに、何から覚えよう。
考えながら歩き出すと、セリカが隣へ並んだ。
「お魚、買いに行く?」
「うん。でも今日は、小さいのでいいよ」
姉の出発前に、一緒に夕飯を作ることになった。
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