第118話 夢を見ていた場所
翌朝、ミナは食堂の窓を開けた。
昨日拭いた作業台へ、朝の光が差した。
布を掛けておいた箱は、乾いた棚へ移してある。
「ここで、少し作ってもいいかな」
振り返ると、セリカが水の入った桶を下ろした。
「昨日言ってた、お礼のご飯?」
「うん。お店を見ていてくれた人に。都合のつく人だけでも」
「いいと思う。何を用意する?」
ミナは火床を見た。
灰を片づけ、鍋や焼き網を洗い直す。煙の通りも確かめてから、火を入れることにした。
使う食材は、新しく買う。
「肉と野菜を、生地で包んで焼こうと思ってるの。持って帰ってもらう分も作れるし」
「それなら、私にも手伝える?」
「包むところ、お願いしてもいい?」
セリカは頷き、もう一度袖をまくった。
ほつれを直したところへ、朝の光が当たった。
*
肉屋では、食べる人数を伝えて量を相談した。
「このくらいで足りるかい。野菜も入れるんだろう?」
「はい。細かく切って、先に炒めます」
店の人が、台の上の肉を切り分けた。
その奥に、ミナが食堂で何度も扱った部位があった。
値札を見てから、隣の品と比べる。
「おじさんは、こっちもよく買っていましたよね」
「ああ。筋が多いから嫌がる客もいるけど、あの人は喜んで持っていったよ。手間をかければうまいってね」
ミナは頷いた。
筋を外し、向きを見て切る手順を覚えている。
あの作業をすれば安い肉も使えるのだと、今は値札と一緒に考えられた。
「遠くの品を頼むときは、ずいぶん相談されたな。少ししか使わないなら、次に荷が来るまで待つこともあった」
「いつでも、揃っていたわけじゃないんですね」
「そりゃそうさ。来たもので作れるあたりが、腕だったんだろうね」
包みを受け取り、礼を言った。
ミナは買い物の紙へ、支払った額を書き足した。
セリカはその隣で、次に買うものを確かめていた。
*
食堂へ戻り、粉に塩と水、少しの油を加えた。
ミナが生地をまとめている間に、セリカが野菜を洗った。
窓の外から、昼に来られるという返事が届く。
仕事の合間に寄れる人が数人。来られない人の分は、包んで隣の店へ預けることになった。
「ミナ、こっちはどう切る?」
「小さく。お肉と一緒に食べやすいくらいに」
セリカがまな板へ蕪を置いた。
ミナは手を洗い、生地へ布を掛けた。
箱から取り出した新しい包丁を、作業台へ並べる。
刃を確かめ、洗って水気を拭いた。
まず、大きな蕪を半分にする。
思ったより刃が長かった。
いつものつもりで動かすと、先がまな板の端へ近づく。
ミナは位置を変え、握りを確かめ直した。
「やっぱり、少し違う」
「重い?」
「うん。でも、押さなくても進むところがある」
刃の重さを預けるようにすると、硬い外側から中へ静かに入った。
手元の刻印へ光が差し、細い線が浮かぶ。
セリカの目が、そこへ止まった。
「それ、戻ったらリゼに見てもらおうか」
「うん。何が書いてあるのか、私には分からないし」
細かな傷を取るときには、慣れた小さい包丁へ持ち替えた。
こちらなら、刃先が来る場所を考えなくても分かる。
大きい方も、そうやって使えるようになるのだろうか。
ミナは二本を離して置き、切った野菜を器へ移した。
*
肉と野菜を炒めると、食堂に久しぶりの匂いが広がった。
具にはサハルから持ち帰った香辛料を少し加えた。
油に香りを移し、全体へ混ぜる。
火を止めて広い器へ移すと、セリカが顔を近づけた。
「いい匂い。もう食べられそう」
「食べられるけど、包む分だよ」
「味見は?」
ミナは小皿へ少し取った。
姉へ渡してから、自分の分も味を確かめる。
「お姉ちゃんは、どうして最初、このお店に来たの?」
セリカの匙が止まった。
「私、ここでご飯を食べていたことは覚えてる。でも、最初に来た日は、よく分からなくて」
「ミナ、四つだったもんね」
セリカは小皿を置いた。
「私は十五。とにかく仕事と、寝る場所を探してた」
生まれた土地を襲った災害で、姉妹は両親を亡くした。
避難の混乱の中で別れたきり、最後にどこで眠ることになったのかも分からなかった。
ミナに残っているのは、知らない人の服と、握っていた姉の手の記憶だった。
「あのころは、今日ミナをどこで寝かせるか。そればっかり考えてたな」
セリカは台の端へ手を置いた。
「ここへ来たのは、ご飯を食べさせたかったから。私は、もう食べたって言って、ミナの分だけ頼んだ」
「本当は?」
「食べてなかった」
ミナは姉を見た。
セリカは少し困ったように笑った。
「あんまり上手に嘘をつけてなかったんだと思う。おじさんに、仕込みを手伝えるかって聞かれたの。飯は出すからって」
洗い物をして、芋の皮をむいた。
終わると、ミナの隣にもう一つ器が置かれた。
泊まる場所が決まっていないことも、そのときに話した。
「最初は、少しの間だけのつもりだった。仕事が見つかるまでって」
「それが、長くなったんだね」
「うん。町の仕事を受けて、近くへ出かけて。ミナがいるから頑張れた」
ミナは、生地を指で押した。
少し休ませた表面が、柔らかく沈んだ。
「お姉ちゃん、帰ってくると、入口で荷物をそこらへんにぽいぽい置いちゃってた」
「そんなだった?」
「おじさんに、そこは人が通るって言われてたよ」
「……それは、覚えてる」
二人で笑った。
ミナは生地を分け、セリカへ一つ渡した。
*
「遠くへ行くようになったのは、十八のとき」
セリカが生地を伸ばしながら言った。
「ここへ来て、三年くらい経ってた。少し長い仕事に誘われてね。それまでも町を空けることはあったけど、今度は、すぐ帰れる距離じゃなかった」
ミナにも、そのころの記憶はあった。
姉がしばらく帰らないと聞いて、何日なのかを何度も尋ねた。
「おじさんに相談したら、金は送れ、手紙も書け、帰れるときには帰ってこいって」
「おじさんらしいね」
「それでいいのかって聞いたら、妹に聞けって言われた。俺にだけ話をつけるなって」
セリカは伸ばした生地を見た。
片側だけ薄くなっていたので、ミナがそっと向きを変えた。
「ミナには、頑張ってねって言ってもらったけど。本当は寂しかったよね」
「……寂しかったよ」
ミナは具を匙ですくった。
「でも、お姉ちゃんが行きたいんだっていうのも、分かった。帰ってくるって言ってたし」
「うん」
「帰ってきたら何を話そうって、考えてたの」
セリカが顔を上げた。
ミナは生地を半分に折り、縁を押さえた。
「お姉ちゃんが出ていった後もね、いろんな人が来てたよ」
*
最初の焼き包みを火にかけるころ、隣の店の女性がやって来た。
皿を運ぶのを手伝うと言って、棚へ手を伸ばす。
使う皿の場所を、まだ覚えていた。
「懐かしいねえ。ここから匂いがするの」
その後から、掃除を手伝ってくれていた男性も顔を出した。
ミナが席へ案内すると、昔よく座っていたという窓際を選んだ。
「今、お姉ちゃんに、お店のお客さんの話をしていたんです」
「この店に来るのは、町の人ばかりじゃなかったからね」
女性が皿を並べた。
「見たことのない服の冒険者も来てたし、違う国の言葉も聞いたよ。通るたびに寄る人もいた」
ミナは頷いた。
「おじさん、お客さんにどこから来たんだって、よく聞いていました」
あのころは、ただの挨拶だと思っていた。
返事を聞くと、エドガーはもう一つ鍋を出すことがあった。
棚の奥の小さな壺を取り、ミナへ豆を選り分けるように言ったこともある。
「いつもと違うものを作る日があったんです。献立には書いてないのに」
「あったね。こっちも食べたくなって頼むと、材料が足りないって断られたりしてさ」
男性が笑った。
「あの人、若いころにいろんな国を旅したって話してたからね。そこで覚えたんだろう」
ミナとセリカは目を合わせた。
きっと、その旅の中には、刻冠として赴いたものもあったのだろう。
姉も同じことを考えたのか、小さく頷いた。
けれど、二人とも口には出さなかった。
「食べた人が、急に静かになったことがあったよね」
女性の言葉で、ミナは一人の客を思い出した。
深い色の上着を着た、大きな荷物の人だった。
器を見たまま動かないので、口に合わなかったのかと心配になった。
エドガーは、その人に言った。
――本物とは少し違うぞ。こっちじゃ、あの豆が手に入らなくてな。
客は首を振って、匙を取った。
食べ終わってから、ミナには分からない言葉で何かを言った。
おじさんは短く返して、空いた器を下げた。
知らない国の言葉で、お礼を言った人。
匙を止めたまま、料理を見つめていた人。
その向こうで、次の皿を用意していたおじさん。
あのころは、おいしかったんだと思っていた。
それだけではなかったのだと、今なら分かる。
私は、小さいころに見ていたんだ。
私の今の夢が、実現した姿を。
ミナは、台の端に立てかけた看板へ目を向けた。
店の名前を書く場所は、まだ空いていた。
「ミナ。そろそろ、返す?」
セリカの声がした。
ミナは火元へ戻った。
「うん。もう、いい焼き色になってる」
*
焼き包みを皿へ載せると、香辛料の匂いが立った。
半分に割った中から湯気が出る。
肉と蕪、玉ねぎが、薄い生地の中へ収まっていた。
「中が熱いので、気をつけてください」
ミナが言うと、女性が笑った。
「ちゃんと、お店の人の言い方だね」
「……昔、私がよく熱がっていたので」
セリカが、隣で小さく笑った。
ミナは姉にも皿を渡した。
最初の一口を食べた男性が、包みの断面を見た。
「生地は、あの人のところの感じがするね。端が薄くて、ここがぱりっとしてる」
「厚く重ねると、そこだけ硬くなるって教わったんです」
「でも、この香りは初めてだよ」
女性が続けた。
「ミナちゃんが、向こうで覚えてきたの?」
「はい。エルディアの商人さんに教わって。最初は、出来上がった料理にかけて食べたんですけど」
ミナは小さな香辛料の包みを見せた。
今日は、具を炒める油へ少し加えている。
香りが広がるので、たくさん使わなくてもよかった。
「へえ。それなら、うちの料理でも試せるかね」
「少しなら、お分けできます。同じくらいの鍋で作るなら、このくらいからがいいと思います」
匙へ少量を取り、見てもらった。
話している間に、空いた皿が増えた。
焼き上がった次の分を運ぶと、セリカがミナの席を空けてくれた。
「ミナも、温かいうちに」
腰を下ろし、自分の作ったものを食べた。
知っている生地の味に、サハルで覚えた香りが重なる。
ミナはもう一口、ゆっくりかじった。
*
食事が終わると、来てくれた人たちが片づけも手伝ってくれた。
「お礼をするつもりだったのに」
「おいしいものを食べさせてもらったからね。皿くらい運ぶよ」
来られなかった人の分を包み、隣の店へ預けた。
皆が帰った後、ミナとセリカで最後の器を拭いた。
「お姉ちゃんも、仕事でいろんな国へ行くの?」
「行くよ。護衛だったり、魔物の対応だったり。向こうの人と一緒に動くこともある」
「それじゃ、食べたことのない料理も?」
「あると思う。でも、名前まで覚えてないものも多いな」
セリカは考えてから、少し笑った。
「今度は、ちゃんと聞いてくる。ミナに話せるように」
「うん。どんな仕事だったかも、話せるところは教えてね」
「分かった」
ミナは乾いた皿を棚へ戻した。
今日は高いところにも、無理なく置けた。
火が消えたことを確かめ、作業台を拭く。
新しい包丁は水気を取り、鞘へ収めた。
看板には柔らかい布を巻き、木箱の中で動かないようにした。
「これ、私が持つよ」
ミナが言うと、セリカは頷いた。
「じゃあ、その分、ほかの荷物は分けよう」
窓を閉める前に、食堂を見渡した。
椅子は揃い、皿は元の場所へ戻っていた。
でも今日は、焼いた生地の匂いが少し残っている。
次に来たときも、何か作ってね。
帰り際にかけてもらった声を思い出した。
「また、作りに来るね」
ミナは台所へそう言って、箱を持ち上げた。
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